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毎月映画館で、ご飯を食べながら家族みんなで観た映画。電車で1時間かけて、特別に父と二人で観た映画。
― あるインタビューで鄭さんが「私たち一家は世界遺産に住んでいた」と話されているのを読んだことがあります。今回監督された『焼肉ドラゴン』では、そこでのエピソードが使われているとお伺いしました。
鄭 : そうです、僕の最近の売り文句なんです(笑)。僕の実家は、姫路城の外堀の石垣の上にありました。現在、姫路城の公園になっているところですね。戦後、土地を持たない人たちがその場所に勝手にバラックを建てて住んでいたんです。明らかに国有地なんですけど、父は「醤油屋の佐藤さんから土地を買った」って主張するんですよ。「権利書はあるんですか?」って聞いたら、「権利書はない!」って偉そうに言って(笑)。そのエピソードをそのまま、映画に使いました。
― 「焼肉ドラゴン」の亭主であり、真木さん演じる静花の父・龍吉が、立ち退きを迫られるシーンで言うセリフですね。行政の担当者に「醤油屋の佐藤さんから買った」という。
鄭 : 父にそう言われた行政の担当者が、ひどく困っていたのを覚えています。自分や多くの人の記憶から消えていく、そんな場所や人を記録したいという想いから始まったのが、この作品なんです。
― 当時、姫路市内には映画館が多くあったそうですが、鄭さんは家族で映画は観られましたか。
鄭 : 1カ月に1回、家族みんなで映画を観に行っていました。というのも、父が廃品回収業を営んでいたので、近所の映画館にダンボールとか空き缶を回収しに行っていたんです。月に一度、父が映画館に支払いにいくときに家族でぞろぞろ付いて行って、裏から入って観せてもらっていたんですよ。
― どんな映画館だったんですか。
鄭 : 第一山陽座っていう豪華な映画館でしたね。外壁が大理石になっていて、中には大きなシャンデリアがぶら下がっていて、贅をこらした古い映画館でした。昭和14年から始まった映画館だそうで、当時は芝居も上演していたみたい。そこには2階席があって、しかも桟敷席で、僕たち家族はそこでオカンがつくったキムチとかを食べながら映画を観ていました。でも、オカンの趣味に合わせて映画を選ぶから、僕は退屈でね。吉永小百合主演の『愛と死をみつめて』(1964年)とか青春映画が多かったかな。今は取り壊されてしまったんだけど、面白い映画館だったから残念だったね。
― 真木さんは初めて映画を観たときのことを覚えていますか。
真木 : わたしは千葉の田舎に住んでいたので、周りに映画館がない環境でした。映画館があるところまでは、電車で1時間くらいかけていかなきゃいけなかったので、監督のような体験はなくて。でも、1回だけ子どもの頃に映画に連れて行ってもらったことがあります。
鄭 : 何の映画を観たの。
真木 : 何だったかな…お侍さんが小さくなってレコードの上を走ったりする映画……。
― 『水の旅人-侍KIDS-』(1993年)ですか? 大林宣彦監督の。
真木 : そうだ! 『水の旅人-侍KIDS-』です!!
― 山崎努さん演じる時空を越えてやって来た侍と、少年のファンタジー作品ですよね。
真木 : 父が「こっちの映画が観たい」って言うので、それを観たんですよね。わたしは隣のスクリーンで上映している『ジュラシック・パーク』(1993年)がめちゃくちゃ観たかったのに。映画を観ていても、隣のスクリーンから「ギアー!」って声が聞こえてきて、わたしは「『ジュラシック・パーク』が観たいー!」って思ったのを覚えています(笑)。それが、初めて映画館で観た映画だったな。小学校の高学年のときだったかな。
― 家族と映画館に行ったのは、お父さんとのその1回だったんですね。
真木 : そうですね。映画を観に行くのは、わたしにとって特別なことだったんです。だから初めて友達同士で映画を観に行ったときのことも、すごく嬉しくて今でもよく覚えています。「やったー!」という感じでした(笑)。『耳をすませば』(1995年)を観ましたね。中学のときだったかな。でも、ただただ「映画館で映画を観る」ことが嬉しくて、内容は全然覚えてないという(笑)。
鄭 : 友達同士で観た思い出の映画ってあるよね。僕は、過激な性描写で物議を醸した『ラストタンゴ・イン・パリ』(1972年)っていう映画をどうしても観たくて、友達と観に行った記憶がある(笑)。年齢制限がかかっている映画だったから、当時中学生の僕たちは本当は入れないんだけど、みんなで精一杯大人の振りして観に行ったんですよ。バレバレだったけど、もぎりのおばちゃんは入れてくれたんです(笑)。でも、実際観てみると期待していたのとは違って、全然訳がわからなかったのを覚えています(笑)。
真木 : そんな淡い経験があったんですね、監督にも(笑)。
「演じたい衝動は、小学生のときに観た1本の映画から。」-真木よう子
― 真木さんは、安達祐実さん主演の映画『REX 恐竜物語』(1993年)を観て役者を目指そうと思ったとお伺いしました。真木さんはその頃まだ小学生ですが、当時から既に役者になろうと思っていらっしゃったんですか。
真木 : 小学校高学年のときに、テレビで観たのかな。当時、自分とそんなに歳の変わらない安達さんが、映画の主役を演じていることに衝撃を受けました。純粋にそれを観て「いいな」って思ったんです。「私も、安達さんみたいにお芝居をやりたいな」って。
鄭 : それがきっかけだったんだ。その前は、別に思ってなかった?
真木 : その前から、一人遊びが好きな子どもだったので、ジブリ作品とかテレビドラマのセリフを覚えて、ぬいぐるみ相手にお芝居ごっこをやっていました。小学生の頃から、お芝居が好きだったんです。だから、「映画に出たい」「テレビに出たい」っていうよりも、純粋に「お芝居がしたい」っていう気持ちが強くあって。有名になりたいとか、すごい女優さんになりたいという特別な憧れはなかったですね。だから最初は、芸能事務所ではなく俳優養成所を選んだんだと思います。
― 真木さんは、俳優養成所に入られたのが、俳優への入り口だったんですよね。
真木 : お芝居をやりたかったので、ずっと母に相談していたら「役者を志す人が、どれだけすごい人なのか見てきなさい」っていうことで受けさせてくれたんです。そしたら受かっちゃって(笑)。まあ、千葉の田舎から来た15歳の女の子だったので、新鮮だったんだと思います。
鄭 : えっ、そのとき15歳だったの!?
真木 : そうなんです(笑)。当時、応募資格は15歳から27歳くらいまでだったので。俳優養成所が創立したばかりの1期、2期生くらいしか15歳が合格したことはなかったみたいで、珍しかったんだと思います(笑)。
鄭 : いやいや、それだけじゃないでしょ。
真木 : そうですか?(笑)
「大量の映画を観ることで、不安を必死に埋めていた。」―鄭監督
― 鄭さんは、松竹大船撮影所で働いていたことがあったとお伺いしました。
鄭 : 装飾助手、美術助手として働いていた期間がありました。京都の大学を中退した後、映画の仕事がしたいと思って横浜放送映画専門学院(現・日本映画大学)に2年通った後ですね。昼の連続ドラマの現場などで美術助手として携わったんですが、自分で「自分は使えないな…」と思って辞めました。でも、山田洋次監督の映画現場に呼ばれたこともあったんですよ。他の仕事が入っていたので何もわからずに断ってしまったら、周りにカンカンに怒られて(笑)。山田組に入るチャンスだったのにな。
― なぜ、映画の仕事がしたいと思ったんですか。
鄭 : 「そこに自分の生きていることの意味があるんじゃないか」と思ったんです。大学を中退した後、自分の人生をどうしたらいいのかわからなくなった時期があって、心にポッカリ穴が開いたように感じていました。だから、「映画でも観とけ!」っていう気持ちで、不安とか迷う気持ちを映画で必死に埋めていましたね。そのときは、年間で300〜400本くらいは観たんじゃないかな。
― 300〜400本!? 1日1本ペースで映画を観ていたということですか。
鄭 : 毎日、観ていたわけではないんです。中退後は、京都のある市場でアルバイトをしていたので、週末にまとめて映画を観ていました。だいたい仕事が午後2時に終わるんですが、その後大阪の堂島まで行って大毎地下劇場(1993年閉館)という映画館で3本立てを観て、それから京都に戻って京一会館(1988年閉館)で5本立てのオールナイトを観て、それから祇園会館(2012年映画上映終了)で3本立てを観るという。集中して1日に10本くらい映画を観ていたから、どの話がどの映画なんだかよくわからなくなっていましたね(笑)。
― 10本連続で映画を観続けるのは、体力も精神力も必要ですね…。
鄭 : そうやって何百本と映画を観ているうちに、観ているだけじゃ飽き足らなくなって、「スクリーンの向こう側の仕事がしたい」と考えるようになっていったんですね。
【special thanks】 姫路フィルムコミッション アースシネマズ姫路