去年の夏の終わり、久しぶりのレコーディングの帰りに、メンバーの買い物にひょこひょことついて普段はなかなか自分で足を踏み入れないようなビルに行った。お目当てのショップが入っているらしいそのフロアには、化粧品や雑貨のお店がたくさん出店していて、その一角には男性向けの化粧品を扱うお店があった。僕はそのお店で濃い緑色のネイルと口紅にもチークにも使えるらしい薄い赤いリップを買った。ずっと探していた濃いグリーンは僕が昔から大好きな色で、セサミストリートや映画のなかでよく見かけるアメリカの通りに置かれたダストボックスや信号機の緑色だ。その日から僕は家にいるときもずっと爪を緑色に塗って過ごした。
そのずっと前、まだCOVID-19が隣の国の出来事だった頃にライブで訪れた北海道の苫小牧という町の(僕たちHomecomingsは毎年冬に苫小牧へ行ってNOT WONKという友達のバンドと一緒にライブをしている)大きなイオンモールの薬局コーナーで、はじめてネイルを買った。100円ぐらいの、薄い水色のネイルだった。ちょうどその頃インスタグラムで見かけた、アメリカの男の子がネイルをしている写真がとても可愛くて格好良くて、真似してみたくなったのだった。もう少しさかのぼれば、りゅうちぇるのような存在に少し憧れていたことや、『愛がなんだ』という映画に『Cakes』という「わたし」も「ぼく」もない曲を書き下ろしたときに考えていたこともずっと頭の片隅にあったのだった。
メンバーのみんなに教えてもらいながら恐る恐る塗った爪は、乾くと雑でまだらでがたがたで、とても不格好だったけれど、それでもなんだか誇らしいような感じがした。ライブ中にギターの弦でネイルが剥がれてさらに不格好になってしまったけれど、ネイルを取るには除光液というものが必要なのを知らなかったから、僕は東京に帰ってくるまでボロボロのネイルのまま過ごした。住んでいる街まで帰ってきて、駅の100円ショップで安っぽい除光液を買った。ひとりになると急に爪を塗っていることが恥ずかしくなって、袖の中に手をすっぽりと隠したりもした。恥ずかしい気持ちと、恥ずかしいと思っていることに対する罪悪感が混ざって、足元がぐらつくような変な気分になった。100円の除光液でもうすでに剥がれかけているネイルを落とすことにも手間取って、何度もゴシゴシとこすったせいで、爪は白くガサガサになった。
それからすぐ、世界はあっという間にそれまでとは違うものになってしまい、ライブもツアーも旅行も海外での演奏も全部当たり前のようになくなってしまった。その時間のほとんどを、僕は本を読むか映画を観て過ごした。料理はもともと自分で作ることが多かったから、そこに不便さを感じることはなかったけれど、郊外の静かな街に住んでいる僕にとって、街の外に出ないことは、誰にも会わない、ということとイコールだったので、新しい服を着たり、髪を整えて外に出たりすることはほとんどなくなってしまった。爪を塗ることもあの日からしていなかった。
当時、配信開始されたばかりの『ハーフ・オブ・イット:面白いのはこれから』や『最高に素晴らしいこと』といったNetflix制作の映画、ずいぶん前から積まれたままになっていたアメリカやイギリスのティーン向けのヤングアダルトものの小説たち、息抜きとしてはじめた深夜のドライブ中に聴いている(車の運転には音楽と同じくらい誰かの会話がぴったり合う)『こんにちは未来(※)』というポッドキャストやBlack Lives Matterにまつわるニュース。世界は変化に向かうパワーに満ちていて、新しい価値観と古い価値観がぶつかりあっていた。それなら僕は、どんな詩やメロディでもって、どんなストーリーや言葉でもって、それに参加できるのだろうか。
本を読み、映画を観て、そして自分で考える。ニュースを観て、そのことについて調べてみて、そして自分で考える。ヒントはカルチャーにも、生活にもたくさん浮かんでいる。
この世界は“カラフル”だ。肌の色も観ている景色も好みの服や靴も、それぞれに違いがある。カラフルのままでいること、いられること。他のものも自分や自分が信じるものと同じ色に塗りつぶさないこと、塗りつぶさせないこと。それは「多様性/ダイバーシティ」という言葉になり、カルチャーそして生活のなかでも目にするようになった。
2020年の夏に公開された『ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー』はそんなカラフルさを「当たり前」にそこにあるものとして描いた映画だ。これまで勉強しかしてこなかったブックスマート(本ばっかり読んでて知識あるけど常識はない、という意味)な二人組の女の子(そのうちの1人は同性愛者だ)が卒業(と別れ)を直前に控え、今までの「青春」を取り戻そうと卒業前夜のパーティー会場を探して街を大きな音を立ててさまようこの映画には、様々な人種、体型、性自認のクラスメイトたちが登場する。彼や彼女の見かけや表面上のカラフルさはざっくりと、それでいてすぐに伝わるように描かれていて、観ている方は「あぁ、この子はこういうキャラね」と簡単に理解できてしまうのだけど、それが大きなフックになっていて、そんなうわべだけでわかったような気になってしまっていたどんなキャラクターにもそれぞれ違う面や隠していたことがあり、抱えていた弱さや傷だってある、ということがわかっていく映画なのだ。そこで描かれるどの表現も押し付けがましくなく、物語はひたすらにドライブしていく。それこそがこの映画の魅力なのかもしれない。
リチャード・リンクレーター監督の『エブリバディ・ウォンツ・サム!! 世界はボクらの手の中に』や、『ブックスマート』と同じように高校生の一晩を描いた『バッド・チューニング』ような馬鹿騒ぎも、青春映画の金字塔ともいえるジョン・ヒューズ監督の『ブレックファスト・クラブ』のナイーブさも、この映画は新しいものへと軽々と変換している。これは新しい時代のスタンダード、新しい青春映画なんだと思う。彼や彼女が通う学校の、どんな性別を持つ人も同じ空間を共有するジェンダーレスなトイレはそのひとつの象徴だと思う。
『ブックスマート』や『こんちには未来』といったカラフルなカルチャーに触れて、自分の爪もひとつの小さなアクションになるのかもしれないと考えるようになった。そんな風に思っていたタイミングで出会った、緑のネイルを僕はずっと爪に塗っている。めったにないけれど誰かと会う予定があるときも、近所のスーパーに買い物に行くときも、病院に行くときも、誰にも会わずに家にいるときも。だんだん塗り方も上手になってきたし、友達に教えてもらって、お気に入りの除光液も見つけた。はじめに買った100円の除光液とは違い、爪の上に乗せただけでスゥっと色が落ちて、跡が白くなることも、ガサガサになることもない。スーパーや、たまに乗る電車で指先を見られていることに気がつくことが多くなった。身体の一部を見知らぬ人にじろじろ見られる感覚はあまり味わったことがないもので、少なくとも気持ちがいいものではない。でもだからといって、見てほしくない、とか恥ずかしいとは思わなくなっていた。もしかして僕が誰かの日常の水面に小さな小石を投げ入れられたのなら、そこからなにかが変わるかもしれない。最初は物珍しかったものも、何度も目にするうちに当たり前のものになるかもしれない。それは誰かの選択肢を減らさない、ということだ。もっといえば、どんな性の形を選んだっていい、ということに遠からず繋がっていることでもあると思う。爪を緑に塗るくらいでそんな大げさな、と思われるかもしれないし、もちろん僕もそう思うのだけれど、それはそんなに遠い話でもないような気がするのだ。そしてなにより、僕はシンプルにこの緑の爪が可愛くて格好良くて大好きなのだ。
あのとき、恥ずかしいと思った気持ちもすっかりなくなったわけでない。たまに反射的に指先を隠すように上着のポケットに手を入れたり、ぎゅっと手を握ってしまうこともある。それでも、たった一年くらいの時間でこんなふうになにかが変わることもある。もう少しすれば、『ブックスマート』で描かれていたことはもっと当たり前のことになっていくだろう。でも、それは勝手に時代が動くのではなくて、時代を動かそう、という意思をもって作られたものが動かしている、映画も音楽も小説も、普段テレビや動画サイトでなにげなく目にするようなCMも。意思が込められたものが、少しずつ少しずつカラフルであることを受け入れる、カラフルであることが当たり前である世界に変えていくのだ。それはもしかしたら、こんな小さな指先からできることなのかもしれない。そういえば、1月にリリースされたばかりのNOT WONKの新しいアルバム『dimen』のジャケットは、ネイルが塗られたボーカルの加藤くんの手の写真で、そのちょっとしたつながりがとても嬉しかった。
※NY在住のジャーナリスト佐久間裕美子さんとコンテンツ・メーカー「黒鳥社」の若林恵さんのお二人によるポッドキャスト。
- moon shaped river life
- 『ゴーストワールド』にまつわる3篇
- won’t you be my neighbor? 『幸せへのまわり道』
- 自分のことも世界のことも嫌いになってしまう前に 『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』
- “君”のように遠くて近い友達 『ウォールフラワー』
- あの街のレコード店がなくなった日 『アザー・ミュージック』
- 君の手がきらめく 『コーダ あいのうた』
- Sorry We Missed You 『わたしは、ダニエル・ブレイク』『家族を想うとき』
- 変化し続ける煙をつかまえて 『スモーク』
- 僕や君が世界とつながるのは、いつか、今なのかもしれない。『チョコレートドーナツ』と『Herge』
- この世界は“カラフル”だ。緑のネイルと『ブックスマート』
- 僕だけの明るい場所 『最高に素晴らしいこと』
- 僕たちはいつだって世界を旅することができる。タンタンと僕と『タンタンと私』
- 川むかいにある部屋の窓から 君に手紙を投げるように