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危険な存在に惹かれてしまう怖さって?
『復讐するは我にあり』
私には一度だけ、親しい友人の結婚に強く反対した経験があります。大学に入ってすぐ、友人に紹介された男性は、彼女から聞いていた“やや強引な印象”とはかけはなれた、大人しそうなタイプでした。特に、何を考えているのかまったく分からない表情が今でも忘れられません。直感的に「彼には危険な二面性があるのではないか」と感じました。まもなく、彼は彼女に対してモラハラまがいの行動を取るようになります。再三別れるように助言をしたのですが、彼女はどんなに冷たくされても、気まぐれに罵声を浴びせられても耐え続け結婚。しかし、彼らの結婚生活は長くは続きませんでした。深く傷ついた彼女を見て、私は「わかっていたのになぜ?」という悔しい思いを抱くことになります。しかし、『復讐するは我にあり』を観終わったとき、その理解不能な主人公の姿に、彼女が彼のもとを長年離れられなかった理由を垣間見た気がしました。
『復讐するは我にあり』の主人公である殺人者・榎津巌は、常人の理解の範囲を超えた人物です。本編の中で巌は何回も殺人を犯しますが、そこには一瞬の躊躇も迷いも見られません。かといって、殺人を楽しんでいる様子もありません。なぜ彼は殺人と言う手段を選択し、実行に移していくのか?まるで見当もつかないまま、私は『復讐するは我にあり』の世界に引きずり込まれていきました。
徹底的にリアリズムを追求し、カンヌ映画祭パルム・ドールを2度受賞した巨匠・今村昌平監督による本作は、実際の事件を題材にした同名長編小説(佐木隆三著)の映画化作品。カトリック教徒の家に生まれ、次々と5人もの人間を殺した男の姿が描かれています。リアリティにこだわった今村昌平監督の手による殺人シーンは克明です。殴り殺した後、手についた血を小便で洗い流す。首を絞めた後、失禁した被害者の股をそっと拭く。淡々とした巌の行動には、何の動揺も窺えません。そして、そんな巌の冷静さは、私の恐怖心を否応なく刺激しました。
何人もの女性と同棲した巌は、逃走生活の終盤で小さな旅館の若女将と懇ろになります。途中で巌の素性に気付いたのに、それでも一緒にいたいと願う若女将。結局は彼女も殺されてしまうのですが、諦めたような、救われたような若女将の最期の表情は、特に印象的でした。若女将は、なぜ巌に殺されてもいいとまで思ったのでしょうか。それはおそらく、若女将が巌の心を垣間見たと感じたからではないでしょうか。生い立ちも現在の境遇も不幸な若女将に対し、巌は同情するようなそぶりを見せます。その同情は愛だったのか、気まぐれだったのか、それとも錯覚だったのか。理解を超えた存在の底にある感情に触れた気がした若女将は、危険だと分かっていながらも、巌から決して離れられなくなってしまったのでしょう。
先述した友人もきっと、自分にしか見せない恋人の心に触れた気がしていたのだと思います。私にとっては理解不能な人物でしかなかった友人の恋人も、彼女に見せていたのは、冷たく残酷な顔ばかりではなかったはずです。理解の範囲を超えた存在が見せる、感情の欠片。これこそが、人が危険な人物に強烈に惹かれるポイントなのかもしれません。
そして『復讐するは我にあり』の終盤で、私も同じ感覚を味わうことになります。逃亡中は冷静沈着で隙を見せない巌が晒した意外な表情に、私の目は釘付けになりました。それは、刑務所で実父と対峙するシーン。表向きは敬虔なカトリック教徒で厳格な巌の父は、いわば巌と合わせ鏡のような存在です。自らの欲求の赴くままに女を抱き、他人を騙し、殺人を重ねていく巌に対して、自らの抑えた欲求を他人によって発散させる父。人を殺さない代わりに犬を殺し、息子の嫁と交わりたい欲求を押さえ代わりに他人に彼女を犯させる父は、巌にとっては欺瞞に満ちた人物です。普段はいとも簡単に偽りの仮面を着脱できるのに、実父にだけは憎しみの感情を隠さず、野犬のようにふるまう巌。刑務所で実父に対して「あんたを殺したかった」と言い捨てる巌は、それまでスクリーンで殺人を繰り返していた男とは違う人物のように見えました。そして私は、どこかで巌に同情してしまっている自分に気付いたのです。
『復讐するは我にあり』というタイトルは、新約聖書からの引用。裁きを下すのは神のみ、というその言葉の意味の通り、本作は一貫して巌の罪に対してフラットな視線を保っています。巌を否定的にも肯定的にも描かず、個々の殺人の理由を追求しようともしません。しかし、私は呼応してしまいました。巌の心の底に淀んだ、父親への強烈な憎しみに。理解を超えた殺人者である巌の心の襞に触れた気がした瞬間、私は巌の魅力に絡めとられてしまったのかもしれません。なぜなら、巌を演じる緒形拳の瞳が宿したギラギラとした鈍い光が、今もなお脳裏に焼き付いて離れないからです。
今の私ならば、当時の友人の気持ちにもっと寄り添えていたかもしれない。そんなことを考えていたら、今は別の人と幸せな家庭を築いている彼女から、近況報告のLINEが届きました。
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