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言葉に頼らない表現をいつもしてきた
― 常に新しい表現に挑戦し続けている森山さんですが、『オルジャスの白い馬』では初めて海外作品の主演を務められました。全編カザフ語で演じられましたが、セリフや言葉に頼ることのできない状況は大変だったのではないでしょうか?
森山 : そもそも僕はダンスやパフォーマンスなど、言葉に頼らない表現をこれまでもしてきているので、「セリフを音として覚えて、発する」ということ自体に抵抗はなかったんですよ。
― そもそも森山さんの表現において、言葉は壁ではなかったと。
森山 : あと、僕が演じた“カイラート”という役柄の設定もあったと思います。基本的に寡黙で、何者なのかよくわからない、登場人物たちの日常に違和感を持ち込むという人物だったので。
― “カイラート”は、失踪した後、恋人の元に戻ってくるという役柄ですね。
森山 : だから、ネイティブに話す人が僕のカザフ語を聞いて「あれ?」と感じたとしても、存在としては成立する役柄なのかなと。
作品としても、「物語」や「言葉」に重心を置いていない。それを始めの段階から、わかっていたということもあると思います。カイラートという役を演じるために監督といろいろ話したとき、今作が切り取ろうとしているのはそこではないと感じました。
― どこに、重きがあると感じられたのでしょうか?
森山 : 作品内で登場人物の関係は詳しく語られませんし、そこで交わされる言葉も少ない。そこで起こる淡々とした現象を、その先にあるカザフスタンの大地や自然といった“大きなもの”と共に描く、そこに重きがあると思うんです。“大きなものの中にある僕たち”を描いているからこそ、自分の母国語ではない言葉でも、自然にできたというのはあると思います。
― 今作で映し出されるカザフスタンの雄大な大平原と美しい山脈は、圧倒的な存在感を放っていました。カイラートの恋人役を演じたサマル・イェスリャーモワさんも「カザフスタンの驚くほど美しい風景の中の撮影はとても素晴らしい時間でした」とおっしゃっています。
森山 : 今回のような、壮大な自然や切り立った山を前にすると、いつもホーム感を感じるんですよね。
― ホーム感ですか?
森山 : 生き物として本来いるべき場所、としてのホームです。
― 生物である“人間”としてのホーム、ですか。
森山 : そうです。自分のルーツというか、生き物としてすごく居心地がいい場所という意味です。「ここに取り残されたら生きていく術がない」と感じるぐらい荘厳な自然の中にいると、受ける感覚ですね。言葉がなくても成立する、自然との対話…というか。
― 今作の監督・脚本は、日本人監督とカザフスタン人監督が共同で担当されています。日本側の竹葉リサ監督は、カザフスタンの芸術大学を訪れた時、日本では公開されていない現地の映画をいくつか観て「こちらでは、ストーリーを楽しむよりも“情感”を優先することを知った」と語っていました。
森山 : 撮影現場でも、リハーサルを基本的にしないとか、ロケーションや台詞をかっちり決めて撮らないなど、事前に決めた通りに進めるというよりは、現場に行ってみて何を撮りたいと思ったのか、その直感を優先している印象を受けました。そういう急な変更にも、スタッフがフレキシブルに対応していて。
― カザフスタンの俳優は、エリート中のエリートで、芸術大学で要求されることに即座に対応できるよう訓練されているそうですね。
森山 : 今回の撮影現場もそうですが、ダンスでも演劇でも、ヨーロッパに行くと実存主義的だなと思うんです。
― “実存主義”ですか?
森山 : 少し堅苦しい話になるんですけど…、まず自分自身というものが存在して、そのありのままの存在やそこから発される言葉を、どんなシチュエーションにおいて表明するか、ということです。それが、今回の現場でテストや段取りがないことにも繋がっていると思います。
― まずは、「森山未來」が存在して、その存在を使って「カイラート」を表現することに重きが置かれているということでしょうか。
森山 : 登場人物が二人いるなら、その二人が向き合ったときに何が漂うのか。セリフを一語一句変えないことが重要なのではなく、それを切り取りたいのだと感じました。
― それは、日本で求められる表現とは異なりますか?
森山 : 例えば、日本における「踊り」でいうと、厳密な発祥元はわかっていませんが、祭事や神事がもとになっていると言われています。
― 伝統芸能の“能”などのように、神様に捧げるため、踊りや舞を行う、ということですね。
森山 : そうです。盆踊りや阿波踊りでは集団でトランス状態になる。能や神楽ではこの世に存在しない存在を「おろす」。いうならば、自我を持たない。つまり、自分自身を消して「器」になるということです。日本の表現は、それがベースにあるような気がします。
あくまで自分のままで現場に立って表現する、という感覚を大切にしたいなとは思いつつ、日本的な土台が自分の表現の本質にあるのだとしたら、そういう感覚は簡単に変えられることじゃないし、変える必要もないと今は考えていますけど。
― 森山さんは以前、あるインタビューで「昔は役柄と同じ環境に身を置いてみたり、似たような生活を実際に送ってみたりしていたけど、最近は自分自身のままで演じることも大切にしている」とおっしゃっていましたね。
森山 : 映画『怒り』(2016)に出演する時には無人島に行ってみたり、『苦役列車』(2012)では3畳一間のようなアパートで荒んだ生活をしてみたり、いろいろしていましたけど、自分の本質的な何かが変わると思っていたわけではもちろんないんです。
今はわざわざそういったことをやらなくとも、演じる役柄の背景となる場所や言うべきセリフがあるなら、実際にそこに身を置いて言葉を発するだけで、表現として成立するのでは、とも考えています。あの頃は、あくまで自分が楽しめる範囲内で試してみた感じです。
― 自分自身を使って、実験してみたと。
森山 : 遊びや実験に近いですね。でも、今作は古来の民間伝承が集められてできた、日本の神話に近いと思いました。ギリシャ神話のような「こういう行いをすると、こんな結末が待っていますよ」という教訓めいたものではなく、言い伝えられてきた物語が繋ぎあわされているというか。
― 確かに普遍的な物語ですが、理屈で固められた物語ではありませんでした。
森山 : そういえば、邦題では『オルジャスの白い馬』ですが、原題は『Horse Thieves(馬泥棒)』なんですよね。前者は、カイラートの息子である少年の成長や親子の物語に焦点が当てられていますが、後者は、もう少し客観的な視点で捉えられたタイトルになっている。僕は原題の視点で、この作品を見ているということかもしれません。
リミッターや限界のない怖さを感じる
唯一「苦手な」映画監督
― 多くの表現に挑戦すると同時に、作品も多くご覧になってきている森山さんだと思うのですが、これまで観てきた映画の中で強く記憶に残っている、忘れられない映画体験はありますか?
森山 : おぉ、なんでしょうね……。んー…最近いつ映画館に行ったかなぁ。あっ、ちょっと前の話ですけど、舞台の稽古で横浜に通っていた時期があったんです。その稽古場があったビルの隣に、シネマ・ジャック&ベティという映画館があって。130席くらいの小さなスクリーンが2つあるミニシアターなんですけど。
― 横浜・若葉町にある映画館ですね。横浜最後の名画座「ジャック」と、単館系の新作ロードショー館「ベティ」の2つのスクリーンで、ジャック&ベティ。
森山 : 高校時代から、いわゆる単館系の小さな映画館が好きでよく行ってたんです。今だったら、どの映画館でどんな映画を上映しているのか、事前にネットで調べて行けますけど、昔はそういうこともせず映画館に当日ふらっと観に行っていたんですよね。「ここに行けば、何か面白い映画に出会えるだろう」って。
― その映画館のラインナップを信頼している、ということですね。
森山 : そうそう。そこで観る映画が必ず傑作とまではいかなくても、自分にとって心地よい作品だったり、映画館に来ている空気そのものを楽しむことができたり。僕にとっては、ジャック&ベティも間違いなくそういう映画館のひとつです。
― ジャック&ベティで観た映画の中で、記憶に残っている作品はありますか?
森山 : 一番直近で鑑賞したのが『ハウス・ジャック・ビルト』(2018)ですね。ラース・フォン・トリアー監督の。あれは…最悪でした(笑)。
― 最悪という意味で、印象に残っている(笑)。ラース・フォン・トリアー監督の作品は、すごく好きという方と苦手という方と、両極端になることが多いですよね。
森山 : 彼の映画が僕は生理的に合わないのをうっかり忘れて、映画館に入ってしまったんです。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(2000)とか『ドッグヴィル』(2004)とか、過去にもいろいろ観ていて、作品の構造や設定の作り方はすごく面白いなと思うんですが、人を悪として描くというか、性悪説が強すぎて苦手で…。
ここまで合わない監督って他にはいなくて、『ハウス・ジャック・ビルト』では、初めて映画館を途中退席するということをしました…。
― 成海璃子さんは、最高な作品としてラース・フォン・トリアー監督の作品を挙げられていました。加藤諒さんも、「心がえぐられて最高だ」と(笑)。それだけ強烈な何かが、心に刺さる作風なのでしょうね。
森山 : 僕も同じく、心をえぐられたということなんでしょうけどね…。なぜ、そこで僕は「最高」と感じず、「最悪」となるんだろう…。ラース・フォン・トリアー監督の作品、みなさん好きですか…どうですか?
カメラマン : 『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を家で観た時、辛すぎて途中で叫んでしまって、一緒に見ていた友人に外へ追い出されました…。
森山 : (笑)! そんな人もいるんですねー。いやー、僕はなんでここまで苦手なのかなぁ…もう少しちゃんと言葉にしたいですね…。性悪説みたいなものを僕も否定しているわけではないし、そこを貫き通すというのは誠実な作り方ではあるんですけど。
― 貫き通し過ぎている、と感じるのでしょうか?
森山 : そういえば…、最近パラサイクリング(障害の種類、使用する自転車によって4クラスに分けられる障害者の自転車競技)選手である杉浦佳子選手を紹介していた番組を、たまたま見ていたんです。
― 杉浦佳子選手は2018年に最も活躍したパラサイクリング選手の一人として「Para-Cycling Award」を受賞し、2020年の東京オリンピックでメダルが期待されている選手ですね。
森山 : 杉浦選手は、元々トライアスロンの選手だったんですけど、レース中の転倒事故で、右半身の麻痺と、記憶が途切れる高次脳機能障害が残ってしまい、その後、リハビリを続け徐々に記憶を取り戻していったそうなんです。
― 脳の「言語と記憶」という分野に障害が残り、いろんな情報を一気に取得して判断することが難しかったり、脳からの信号によって筋肉を緩めることが遅れたりするそうですね。
森山 : だから、トレーナーの方が練習をコントロールしているということを番組では伝えていて。例えばパラサイクリングの練習をしていても、自分の身体がどのくらい運動をすると疲れるのかという判断ができずに、リミッターが効かなくなってしまい、呼吸を忘れるほど練習してしまうそうなんです。
― 脳にはそういう機能もあるんですか。
森山 : …ラース・フォン・トリアー監督の映画は、その脳の制御を外されているような感覚になるのかもしれません。
― 自分の信念や表現に対する、リミッターや限界がない印象を受けると。
森山 : 観ている自分も、リミッターを外されて加速し続けていくような怖さがあります。その軸にあるのが性悪説なので、見ていて辛くなるのかもしれないです。
なんか…最後にラース・フォン・トリアー監督の話ばかりしてしまい、すみません(笑)。でも、一人の監督の話でここまで語れるって面白いですね。