そんな自分にとって特別な、そして誰かに語りたい映画体験記。
なぜあのとき、『それでも恋するバルセロナ』(2008)を母と一緒に観ていたのか──。
いま思い返してみてもわかりませんが、実家のリビングでふたりソファに並び、テレビ画面に映るバルセロナの景色を何とはなしに眺めていたことを覚えています。父はすでに寝ていて、私はもう何杯目かもわからない赤ワインを飲みながら。そして母は、ときおり赤ラークロングの煙草を手にベランダへ出て行きました。そんな、夜の深い時間帯のことです。
当時の母との関係は最悪でした。いつまで経っても子離れできず、子どもをつねに管理下に置いておきたい母と、30歳を目前にし、いますぐにでも実家を出たい私。それでもようやく母は私の自立を受け入れ、ひとり暮らしのための部屋を見つけて準備を進める娘を見届けようと、彼女なりに努力をしていました。
とはいえ、母の気持ちは刻々と変わります。「あなたも自立するのね。いい歳なんだから当然よね」と穏やかに語っていたと思ったら、「私のことが嫌いだから出て行くんでしょ!」と突然逆上する。そんな母にほとほと疲れてしまった私は、少しでも気分を紛らわすことができたらと夜中にひとり、ワインを片手に映画をぼんやり観るのが日課となっていたのです。
ひたすらに静かなカール・ドライヤー監督の『奇跡』(1995)や、日常に潜む狂気を描いたイングマール・ベルイマン監督の『叫びとささやき』(1972)など、いま振り返ると「圧倒的に美しいルック、淡々と進むストーリー、見え隠れする人間の本質」の3つを備えた作品を好んで観ていたように思います。それが私にとっての“最も心が落ち着く映画の条件”だったようです。
そういった意味で、ウディ・アレンの『それでも恋するバルセロナ』は最適な映画でした。
ニューヨークからやってきたヴィッキー(レベッカ・ホール)とクリスティーナ(スカーレット・ヨハンソン)が過ごす、バルセロナでの一時を描いた物語。バルセロナやオビエドといったスペインの街の美しい風景だけでなく、サグラダ・ファミリア、グエル公園、カサ・ミラなど、スペインの観光名所でもあるガウディ建築が随所に登場し、なにより──スペイン語でまくし立てるペネロペ・クルス演じるマリア・エレーナの狂気じみた美貌を眺めているだけで、あっという間に時間は経ってしまうのです。
ヴィッキー、クリスティーナ、そしてマリアという三人の女性の間で揺れ動くモテ男、ファン・アントニオ(ハビエル・バルデム)は「人生は短くて退屈で、苦悩ばかりだ」、「人生は無意味だから、どん欲に楽しむべきだ」と余裕ぶった調子でヴィッキーとクリスティーナに人生観をしばしば語りますが、元妻であるマリアには翻弄されっぱなし。ヴィッキーの婚約者・ダグも、上っ面だけに囚われた“ショボい男”感が否めず、それぞれに「あ~、いるいる、こういう男」と酒のツマミにはちょうどいいダメさ加減なのもウディ・アレン節。
そんなわけで、当時の私にとって『それでも恋するバルセロナ』はまさに現実逃避をするには“ちょうどいい”映画でしたが、一方で「母はこれをどんな思いで観ていたんだろう?」といまは思います。
唯一覚えているのは、エンドロールが流れたときにポツリと母が「旅したいね」と漏らしたこと。外出するのが嫌いな母がそんなことを言うのは珍しく、少し驚きながら「そうだね。旅したいね」と返したのでした。
あれから10年以上経ったいまでも相変わらず母は気まぐれで、激情型で、外出が嫌いで、旅に行くことも、煙草をやめることもありません。つい先日も私がふと漏らした言葉に逆上したようで、連絡は途絶えたまま。私はそんな母の態度にうんざりしながら、「まるでマリア・エレーナだな」とどこか可笑しく感じるところもあり──実際、モデルをしていた若い頃の母はとても美しかったのです──。一方で、この先もおそらく、あの夜以上に母の心と近づくことはないだろうと思うと、母と一緒にリビングで映画を観たあの時間は、とても静かで、とても穏やかで、母の心と一番近づけたような気がするのでした。
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