口から空気を吸って、肺に送り、また口から空気を吐き出す。吸ったときと出てくるときとで気体の内容は変わっているけれど、吸う空気も吐く空気も見えないからわからない。
新しいウイルスの感染拡大によって、この春は自分の呼吸やその気道に意識を向けることが増えた。ウイルスもまた目に見えない。見えないから、どんなにその存在を疑っても、疑うばかりではなににも行き着かない。気道を行き来する自分の呼気や吸気、あるいは肺への不審が募るばかりだ。
物書きなのでもともと家にいる時間は長かったのだけれど、それでもいっそう家にいる時間が増えたので観逃していた映画を観たりしている。それで昨年(2019年)の話題作『ジョーカー』を、今年(2020年)になってから初めて観た。
1980年代初頭のアメリカ、ニューヨークを思わせる架空の都市「ゴッサムシティ」が舞台。深刻な不況の影響で清掃組合がストライキを起こし、街には衛生局による非常事態宣言が出されているなか、大道芸人のアーサーは年老いて病を抱えた母親とふたりで暮らしている。自分自身も精神的な不調を抱え、カウンセリングを受けて薬を飲みながらピエロの格好をして働き、アーサーはどうにか母親との生活を維持している。彼はずっとコメディアンに憧れを抱いていたが、毎日の仕事は理想とはほど遠い。不当な暴力を受け、失敗を重ね、やがてはとうとうクビになってしまう。
この映画は、そんなアーサーがいくつかの出来事を経て、ピエロの顔をした殺人鬼「ジョーカー」になるまでの物語だ。
映画のはじめの方で、バスのなかで前の席に座っていた子どもにアーサーがおどけてみせる場面がある。子どもは楽しそうに笑顔を見せるが、横にいた母親はアーサーに「かまわないで」と冷たく言い放つ。するとアーサーは突然大きな声で笑い出す。「なにがおかしいの?」と不審な顔を向けた母親にアーサーは苦しそうに笑い続けながら、携帯しているカードを差し出す。そこには「笑うのは許して。病気です。脳および神経の損傷で突然笑い出します」と書いてある。笑いのおさまらないアーサーは、自分の息を止めようとするみたいに口を手で押さえ、首元に手をやりながら苦しそうに笑い続ける。
ひとを笑わせることに憧れを抱く彼は、自分の笑いをコントロールできないのだ。
よく聞くとこの映画のなかのアーサーの笑い声にはふた種類ある。むりやり肺から空気が送られるみたいに苦しそうな笑い声と、息の浅いからからとした笑い声。
前者は先のバスの場面のように、意思に反して発作的に生じる笑いで、だからそこにはおかしみも楽しみもないのだけれど、笑うための空気はたくさんあってどんどん送り出されてくるから止めたくても止められない。一方後者はおそらくアーサーが感じているおかしみや楽しみによる笑いだけれど、腹の底から大笑いするような空気がじゅうぶん供給されないために、渇いた笑い声は短いまま途絶えてしまい、まるでおかしくもないのに笑っているみたいに聞こえる。
人間は、笑うにも、声を出すにも、肺から送り出される空気が必要で、その供給が思うに任せなければ笑いたいように笑うことができない。もちろん呼吸を止めれば人間は死んでしまう。
この映画のアーサー/ジョーカーは、善良で心優しい人物から極悪非道な人物へと単に移り変わっていくのではない。その人物像は常にアンビバレントに揺れて映る。ゴミ捨て場で怒りにまかせてゴミ袋を蹴りつけるような暴力的な場面も最初からあったし、殺人をおかしたあとも弱さや優しさを失ったわけではなかった。
恐怖や悲しみに動揺したとき、感情に反して笑いがわきあがってきてしまう。そんなふうに感情と行動が揃わないアーサーを見るとき、感情と行動のどちらを本当のアーサーと考えればいいのだろうか。
感情の方を本当と考えたい気もするけれど、それでは笑っているアーサーの感情を私たちはずっと理解できないままかもしれない。といって、表面的な彼の笑いを以て、彼が愉楽のうちにあると考えるのも間違っている。あの笑い声を聞くとき、そこにある声と感情のどんな組み合わせを想像できるか。
たぶん、自分が思い描ける組み合わせをまず崩すことからしなくては、いつまでも理解できない。アーサーは、自分の笑いが抱え続けた倒錯を解消して、ジョーカーになった。ジョーカーになった彼の笑いは、もう誰にも不審がられることはない。殺人鬼のあげる不気味な笑い声として、感情と行動とが一致した笑いになる。
おかしさと笑いはどちらが先にあるのか。おかしいから笑うのだとして、笑うために必要な呼吸がなくて笑えないとき、そこにあったおかしさはどうなってしまうのか。あるいは、悲しみと涙は? 怒りと暴力は? 自分の呼吸にこれまでになく過敏になっているいま観るのでなければ、アーサーの笑い声をそんなふうに聞くこともきっとなかった。