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“姥捨て山”のある社会にしないために
『楢山節考』
この文章を書いている今はゴールデンウィークの初日です。でも、街には例年の行楽ムードはまるでありません。新型コロナウィルス感染拡大に伴う政府の緊急事態宣言を受け、多くの人々が自粛生活を送っているからです。不要不急の外出を避けるように要請されている中、テレビでは湘南地区の酷い渋滞や公園に集まる人々の姿が頻繁に映し出され、「自粛せずに非常識だ」と非難されています。休業要請に応じないパチンコ店の店名を公表した地域もあります。
できる限り感染拡大を食い止めて医療崩壊を防ぐためには、全員の協力が必要。それは確かです。しかしその一方で、多くの人々の中に「自分たちは我慢しているのに、我慢していない彼らはけしからん」という心理が生まれやすくなっているのを感じずにはいられません。
深沢七郎による原作小説を木下恵介が映画化した『楢山節考』が公開されたのは1958年のことでした。邦楽によるナレーション、歌舞伎で使われる幕や大胆な照明効果を駆使したオールセット撮影など、いま観てもビックリするほど斬新な演出が散りばめられた芸術的な作品です。
『楢山節考』の舞台となるのは、山奥にある貧しい村。村には70歳になると「楢山まいり」に行くという掟がありました。主人公のおりんは69歳の未亡人。妻を亡くして寡夫となった息子の辰平と、その子どもたちの世話をして暮らしています。近くの村から辰平の後妻がやってくることが決まり、これで安心して「楢山まいり」に行けると意気込んでいるおりんですが、辰平は「楢山まいり」のことを考えると気が重くなるばかり。「楢山まいり」とは姥捨てのことであり、その日が来たら自分が母を背負って山に捨てに行かないといけないからです。
おりんの登場シーンは強烈です。突然スクリーンに映し出されるのは、石臼に自分の前歯を打ち付けている老婆の姿。一瞬何をやっているのか分からず混乱しますが、孫のけさ吉が「おばあの歯は33本ある」とおりんをからかったときに合点がいきます。貧しくて満足に物が食べられないこの村では、年老いても健康な歯を持っているのは「食い意地が張っている」と見なされる恥なのです。おりんは、世間的に恥ずかしくない老婆になるために自分の歯を折ろうとしていたのでした。
少しの豆などを家族全員で日々分け合って暮らしている極貧の村では、食いしん坊や、口減らしのための姥捨てを拒絶する老人は忌み嫌われます。白米を食べられるのは、年に1度の祭りの日だけ。隣家の豆を盗んだ男の家族は激しく糾弾され、数日後に大人から子どもまで全員が消されてしまいました。村全体を覆っていたのは、「みんな我慢しているのだから、お前も我慢するべきだ」という心理が生み出す同調圧力なのです。
そして村の祭りの日。近くの村から辰平の後妻となるお玉が嫁いできました。健康で気立ても良さそうなお玉を気に入ったおりんは、再び石臼に前歯をぶつけて本当に歯を折ってしまいます。激痛に倒れそうになりながら水場まで這っていった後、口の中を血で真っ赤にしながら「わしも山へ行く歳だでな、歯がダメだで」と満足そうにお玉に笑いかけるおりん。おりんを演じた田中絹代は当時まだ40代でしたが、実際に歯を抜いて撮影に臨んだそうです。血だらけの歯茎を舌で舐めながらニタっと笑うおりんの表情は鬼気迫るものがありますが、なによりもゾッとするのは、おりんにそんな行動を取らせてしまった村の空気です。
「みんな空腹で我慢しているのに、お腹いっぱい食べようとするのは我儘だ。」
「みんな70歳になれば山へ行くのに、行かずに限られた食料を食べ続けるのはみっともない。」
「みんな苦しいのは同じなのに、12人も家族がいるからといって盗みを働くなんて万死に値する。」
「栄養状態が悪いからみんな歯がボロボロになるのに、老人になっても歯が全部揃っているなんて人よりもたくさん食べているからに違いない。」
もちろん、盗みに入るのは悪いことですし、限られた食料を独り占めするのも良くありません。でも、多数派と異なる行動を取る人間を脊髄反射で糾弾し、家から追い出したり命を奪ったりすることを、現代の目から見て正当化することはできません。
世間の目を気にして自分の歯を石臼で折るなんて、私たちには常軌を逸した行動にしか見えません。でも、きっと今の日本にも、新型コロナウイルスに感染したと責められるのが怖くて言い出せないまま苦しんでいる人や、非難されるのが怖くて必要な外出もできないでいる人がいるはずです。姥捨て山は消滅したかもしれませんが、我慢を強いられている人々の不満から生じる同調圧力は今も変わらず存在している……私は今、特に強くそう感じています。
では、一度の失敗で村から消されるような社会にしないためには、どうすればいいのでしょう? そのヒントもまた、『楢山節考』の中にありました。
「楢山まいり」を拒絶して激しく非難されている隣家の老人に、おりんは小言をいいながらも白米を食べさせてあげます。盗みの咎で村人に囲まれて総攻撃を受けている家族を前に、辰平は同情を示します。
おりんや辰平の言動は、老人や罪人家族の運命を変えたわけではありません。でも、村人たちの多くがほんの少しだけおりんたちのような寛容さを持っていたら、さらにルールを犯した村人としっかり対話していれば、彼らの運命は変わっていたかもしれませんし、口減らしや惨殺以外の解決策を見いだせたかもしれません。なぜそんな行動をとったのか? 社会全体と個人の問題解決が両立する方法はないか? ないならば、個人の行動を改めるためにどうすればいいのか?そもそもルール自体に問題はないのか? そういった思考と対話を怠らないことが大切なのだと思います。
私は、ルールから外れた者を問答無用で断罪し抹消する「行き過ぎた空気」のある社会を健全だとは思いません。現代社会では、おりんのように恥から歯を折る老人はいないでしょう。でも、おりんと同じように同調圧力に縛られている人がいるかもしれない。そのことを忘れずにいたいものです。
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