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「無名でも、いきなり監督になれる映画ってすごい! そういうものになりたい!!」
― 先ほど、今回撮影をしてくれたカメラマンと、大分県にある国東半島のお話をされていましたね。カメラマンが瀬々監督と同郷だということで、お話が盛り上がっていたようですが。
瀬々 : 彼と中学・高校が一緒だったんですよ、臼野中学校と高田高校。どちらも豊後高田市にある学校。映画『ナミヤ雑貨店の奇蹟』(2017年)を撮影した場所が、豊後高田市ですね。家から学校まで13kmある距離を毎日自転車で往復していました。国東半島はリアス式海岸で、山が海までせまっている地形なんです。だから、平地が少なくて、隣の街まで行くには、トンネルを抜けていかないといけないようなところ。常にトンネル、トンネル。
― 周りに映画館はありましたか。
瀬々 : 昔はあったらしいけれど、俺が小学生の頃にはなかったな。だから、映画は淀川長治さんが解説者をしていた「日曜洋画劇場」とか「金曜ロードショー」とか、テレビで観ていたわけですよ。映画館に行くようになったのは、ブルース・リーがブームになった頃。中学生だったかな、ヌンチャクとかが流行ってね。『ドラゴンへの道』(1972年)と『ドラゴン怒りの鉄拳』(1972年)が特に好きでした。ヒロイン役のノラ・ミャオが好きで…意外とね(笑)。でも、映画館に行くのは年に何回かですよ、遠いから。別府にある映画館まで行くには、バスで宇佐駅というところまで行き、そこから電車に乗って……って、1日仕事で大変なんですよ。
― 中学生のとき、すでに一人で映画を観に行っていたんですか!? なかなか、中学生で一日かけて映画を一人で見に行くというのは珍しいと思いますが…。
瀬々 : 言われてみれば、他にいなかった気もするな…。
― 以前のインタビューで、瀬々監督が中学生の頃にとったアマチュア無線の免許がきっかけで、映画を撮るようになったと拝見したのですが、それはブルース・リーの映画を観ている頃ですか。
瀬々 : よく知っていますね(笑)。でも、俺がアマチュア無線技士の免許をとったのは、中学に入る前の春。映画を撮っていたのは、その後のアマチュア無線部に入った高校生のとき。高校に入るまでは通信機器にお金がかかるから、免許はとったものの何の活動もしてなかったんです。でも、高校に入ったら免許を持っているやつがいて、物理部で無線局を開くという話になって。で、開設するには人数が必要らしく、「物理部に入ってくれ」と言われたんです。俺は文系で物理の授業なんかとったことなかったんだけど、たまに「ハローCQCQ」とかやるようになって(笑)。その物理部に3/4インチのビデオカメラ、「シブサン」と呼ばれる半業務用なんだけど、それがあったから30分くらいの長さの映画っぽいものをつくったのが最初でしたね。
― たまたま入った物理部に、たまたまビデオカメラがあったんですね。
瀬々 : でも、カメラはあったけど編集機はなかった。そしたら、物理部の顧問の先生が「こんなのはオープンリールと一緒だよ」と言ってカセットテープをはさみで切ってつないで。だから上映するときに、つなぎ目が「カシャカシャ」ってなるんですよ(笑)。それが高2で、高3はダブルエイトっていうカメラで撮るために、地元のカメラ屋さんに専用のフィルムをわざわざ仕入れてもらったんだけど、いざ撮影しようと思ったら露出計が壊れているのに気づいて。もう勘で露出合わせて撮りましたね。
― 物理部という名の、映画部だったんですね。
瀬々 : なぜ映画をつくろうと思ったかというと、ちょうどその頃、NHK教育で『若い広場』という番組が放送されているのを見ていたんです。そこで、大林宣彦監督が紹介されていたんですよ。当時、大林監督はCMディレクターをしながら自主映画も撮っていて、『EMOTION=伝説の午後=いつか見たドラキュラ』(1967年)という作品が話題になっていました。そういうアンダーグラウンド的な自主映画と、大学生がつくったような映画が混ざって紹介されているのを観て、「これはすごいな。でたらめだけど、すごいな…。俺が今まで観ていた映画とは全然違う!」と思って、自分でもつくってみようと思いました。
当時『平凡パンチ』や『GORO』という雑誌を読んでいたので、大森一樹さんや石井岳龍さんが、学生のときにつくった自主映画で有名になって、すぐに監督になる姿を見ていました。無名でプロの経験がない人も、いきなり監督になれるような世界になったんだなって、映画ってすごいなって思ったんです。「映画監督っていいな、そういうものになりたいな」と思い始めたのが、その物理部で映画を撮っていた高校生のときでしたね。
「俺だめか…」と思ったら次へ。人生試行錯誤してみる
― その後の進路は、映画監督になることを念頭に置いて選ばれたんでしょうか。
瀬々 : いや、とにかく九州を出たかったんです。(同郷のカメラマンに)あそこから出たかったでしょう?(笑)。先生に、九州大学だったら通るだろうけど、大阪大学だったら危ないかもと言われていたにも関わらず、とにかく九州を出たいと考えていたから、大阪大学を受けました。それは、親に限定されていた国公立の中で探したら、大阪大学に山崎正和という劇作家が教授を務める演劇専攻があることがわかって「俺のやりたいことと、なんか近いな」と思ったという単純な理由から。どういうことを勉強するのかわかっていなかったけど、とにかく受けたら落ちました(笑)。で、大阪にある予備校の寮に入って受験勉強することに。予備校が終わったら、すぐに大阪の大毎地下劇場(1993年に閉館)などの名画座に行っていました。高校までの環境に比べたら見放題に近い(笑)。あと、京都の立命館に入った友達のところに泊まって、京一会館(1988年に閉館)にも行きましたね。そのときは「映画を観まくった」という感じでした。
― その後、京都大学に入学されますが、それは映画監督になることを考えての進路だったのでしょうか…?
瀬々 : いや、それも予備校の先生に「京大でも通るよ」と言われたから…なんか偉そうな感じだね(笑)。そういえば、その受験のときに隣に座っていたやつと今でも付き合いがあるんですよ! 文学部に一緒に入ったのに、そいつは経済学部に転部して、就職した後、留学してMBA(経営学修士)とって、今はコンサルタントやっていますね。
それで京大に入学後、自主上映会を京大の西部講堂を使って開催していた映画部に入りました。当時はまだ、今でいうシアター・イメージフォーラムやユーロスペースのような単館系の独自性がある映画館は無い時代。だから、観たい映画は自分たちで上映会を開くという「自主上映活動」が行われていたんです。上映会に使っていた西部講堂には、大学生じゃないおっさんとかもいてね。釜ヶ崎で労働運動やっている「カール」って呼ばれているおじさんとか。おそらく“カール・マルクス”からきている(笑)。
― いろんな人がいる中で、映画を上映していたんですね(笑)
瀬々 : 一般の市民や大学生も来て、千差万別な映画を上映していましたね。若松プロ(若松孝二監督のプロダクション)の映画もあれば、イメージフォーラムが上映していたような個人映画(個人の撮影・編集によって制作された非商業的な映画)とか、よりアンダーグラウンドな実験映画も上映しましたね。小川紳介さんのドキュメンタリーとかもやったね。映画部の仕組みは、一人が「これを上映したい」と言えば、他はそれを手伝う形でした。その代わり、赤字になったらその人が補填しなきゃいけないという個人主義でしたね。
― 当時、映画の制作はされていなかったんですか。
瀬々 : 個人映画のようなものは撮っていました。日記的な、エッセイのようなものを。それを自主上映会で上映することもありました。イメージフォーラムでそれを上映したことがあったんだけど、そこの代表で個人映画の大家である、かわなかのぶひろさんから頂いた評に「この映画は同情にすら値しない」と書いてありまして(笑)。「あ、俺に個人映画は向いていないな」、だったら、次はぴあフィルムフェスティバルに出してみようということで、撮り始めたはいいけど卒業するまでに完成しなかったんです。だから、その後、就職もせず京都の魚市場で朝4時から働いて、夜の空いた時間で映画を撮って、やっと完成させて出品しました。で、落ちました(笑)。
― (笑)なかなか一筋縄ではいかなかったんですね。
瀬々 : それで、「ああ、俺、だめか……」と思いながら京都でプラプラしている時に、自主映画の助監督していた知り合いから「瀬々、俺たちの現場を東京でつくろう!」というハガキを東京からもらって。熱いわけですよ。そいつの紹介で、社員研修用の教育ビデオの監督も当時していました。そのときのチーフ助監督の人から「このまま京都にいても時代劇しかできないから、俺の知り合いでピンク映画俳優の山本竜二さんという人を頼って上京しろ。ピンク映画で3年助監督をやったら、監督になれるぞ」と言われて、26歳の時に上京しました。それで、誘ってくれた友人のところに行ったら、「ごめん、俺は映画やめた。学校の先生になるのが、子どもの頃からの夢だった」って言うんですよ(笑)。
「答えがない」から、映画はおもしろい
― 瀬々監督は上京するまでに、千差万別の映画を上映したり制作したりされてきましたが、現在『64-ロクヨン- 前編/後編』(2016年)や『最低。』(2017年)、『8年越しの花嫁-奇跡の実話-』(2017年)、『菊とギロチン』(2018年7月公開)と映画の方向性や公開規模が様々に異なる映画をつくられているのは、やはり意識されてのことなのでしょうか。
瀬々 : 映画は自由である、というか自由であってほしいんですよ。いろんなジャンルがあっていいし、予算の大小もあっていいんです。シネコンでかかる、億以上の予算で制作された映画だけが価値があるわけではないし、低予算で制作したとしてもできる「いい表現」、あるいは「そこでしかできない表現」というのもある。いろんな価値観の元につくられた映画があるということが、自由で、豊かであるということなんだと思います。多様であることがいちばん重要だと思うし、映画の前ではすべての作品は平等、と思います。
映画館に集う人々の多様性も魅力かな。たとえば僕は京一会館でバイトしていたこともありました。そのときは『おくりびと』(2008年)の滝田洋二郎さんなどがピンク映画を撮っていた頃でしたから、監督目当てで観に来た映画青年もいれば、エッチな映像を観たいおっさんもいるという状況。いろんな考えの人が、ごちゃまぜでひとつの映画館にいること自体に力があると思ったんです。雑多で画一化していない場所の方がパワーを持ち得るという気がします。だから、一方向に決めるのは、あんまりよくないと、今でもずっと思っているかな。
― 方向性も規模も多様な瀬々監督の作品に、共通することがあるとすれば、懸命に生きようとする人々が多く登場することだと思います。たとえば、『8年越しの花嫁-奇跡の実話-』では、突然昏睡状態に陥ってしまった彼女を献身的に支えようとし続ける青年が、最新作『菊とギロチン』では、自由を追い求める女相撲一座とアナキスト・グループの若者たちが出てきますね。
瀬々 : そうですね、それはありますね。「もがいている人」が好きなんです。よく「ストラグル感」っていうんだけど、それが映画にほしいんです。もがきながら、なんとかしようとしている人がほしい。もがくのは、よりよく生きたいという想いがあるからだと思っていて。それに向かって前に進もうとしている人。『8年越しの花嫁』だと、佐藤健くんが演じている尚志がまさにそう。彼は、結婚目前で原因不明の病によって昏睡状態になった恋人・麻衣(土屋太鳳)が目覚めるのを、誰に何と言われようと待ち続けます。尚志だけでなく、薬師丸ひろ子さんと杉本哲太さんが演じる麻衣の両親も、彼女が目覚める確証がない中で待ち、もがき続けている。
― 今作ではサブタイトルに「奇跡の実話」とありますが、その“奇跡”は“不思議な出来事が起こった”という意味ではなく、それぞれの人物がお互いの立場を越えて歩み寄ろうと努力したり、一生懸命もがいたりしたその過程こそが“奇跡”である、という意味のように感じました。
瀬々 : 世の中は基本的に矛盾だらけです。その矛盾を乗り越えようとすると、やっぱりもがかざるを得ないというか、自分の現実と理想のすり合わせをしないといけません。太鳳ちゃんが演じた麻衣が目覚めた後、記憶障害で恋人のことだけ思い出せないという状態なんて、まさに矛盾そのものです。人生の矛盾を越えて、その先に広がった風景を見ようともがいている人間の魅力を、映画で伝えたいんです。登場人物が生きる上で何かしらの問題を抱え、それを乗り越えていく姿を描くのが映画だと思います。だから、そこにはどうしてもストラグル感がいる。
― 確かに『8年越しの花嫁』でも、登場人物がもがいて、悩み苦しんだからこそ辿り着くことができる喜びといった「生の感情」が描かれていたからこそ、観ている者の心をつかんだんだと思います。「ストラグル」というと、先ほどお話しいただいた、上京する前の瀬々監督の姿を思い起こしてしまいました。
瀬々 : 俺は今でも、もがきっぱなしですよ!(笑)
― 瀬々監督が、もがきながらも映画に携わり続けている理由は、やはりもがいた先に広がった風景を見たいと思っているからなのでしょうか。
瀬々 : 映画がおもしろいのは、「答えがない」ということと、「二度と同じことは起こらない」ってことにあると思います。現場ごとに、違う問題にぶちあたるんです。その問題は経験値だけでは乗り越えられないことなんですよ。経験値も当然必要なんだけど、映画の現場で直面する問題って、いつも“NEW”なんです。映画をつくっていると、そういうことがずっと続きます。それは人生にも近い。
― 瀬々監督はその経験値だけではこなせない局面を、何によって乗り越えてこられたのか、最後にお伺いできますでしょうか?
瀬々 : はははははっ、なんでしょうねぇ! うーんそうだな……なんだろうね…(沈黙)うーん…やっぱり、それは想像力じゃないかな…。経験値によって裏打ちされているのかもしれないけど、起こり続ける問題に対面しながらも、常に「こうやったらこうなるかな」という想像をして、道をつくっていく…ということかな。映画も人生も、もがきの繰り返しってことですね。
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