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みなさんは、初めて映画館に行った日のことを覚えているだろうか?
私は幼稚園の時に生まれ故郷、宮城県気仙沼市にあった「旭映画劇場」でブルース・リーの『燃えよドラゴン』を観たのが最初の体験だった。
不思議と劇場内のクラシカルな内装を覚えていて、後にパリの、1925年に建てられた”Studio des Ursulines”で細田守版の『時をかける少女』を観た時、バルコニーやベルベットの幕を目にして、旭映画を思い出したりした。
中学1年になって「映画ノート」をつけ始めてからは、気仙沼の「南映」と、岩手県の陸前高田市にあった「高田公友館」が主力の劇場になった。特に、陸前高田市まで行くには大船渡線に乗らねばならず、朝に出て夕方に帰ってくるスケジュールだった。それでも、この苦労する感じが単に鑑賞というよりも、「映画体験」を盛り上げていたのだと思う。
そのころ、兄ふたりが東京の二子玉川に住んでいたものだから、春休み、夏休みは上京して映画を観に行くのを楽しみにしていた。
なかでも、とりわけ地方の学生にとって輝かしい街だったのは、銀座だった。
●銀座
二子玉川から東急線で大井町に出て、京浜東北線に乗り換えて有楽町へ。『ぴあ』で念入りに上映情報を調べ、少し緊張しながら銀座へと出かけていく。身だしなみを小ぎれいにしていくのが、銀座への礼儀だと思っていた。
当時のノートを読んでみると、銀座、有楽町界隈でこんな映画を観ている。
・銀座松竹
ピーター・セラーズの『チャンス』
・東劇
ソフィー・マルソーの『ラ・ブーム』
中学生に『チャンス』の滋味を理解するのはちょっと早かったと思うが、娯楽作よりも、キネマ旬報ベスト・テンに入った佳作を選んだ自分のセンスをホメてやってもいいのかと思う。
記憶によれば、「銀座松竹」はたしか地下にあった劇場で、絨毯を踏みしめた感覚が今もうっすら残っている。2020年、スタイリッシュな「銀座松竹スクエア」がそこに立っている。
『ラ・ブーム』は「東劇」で封切日に観た記憶があり、開場前から長蛇の列が出来て、みんなちょっとした興奮状態になっていた。サントラはハート形のシングルレコードで、これも地元のレコード店で入手した。
今も東劇が健在なのがうれしい。「シネマ歌舞伎」にはよく足を運んでいる(十八代目中村勘三郎の姿をスクリーンで観るのは、なんとも切ない。本来なら、2020年には65歳を迎え、役者として脂が乗っているはずだったから)。自分が将来、歌舞伎についての原稿を書くようになって、このビルで歌舞伎役者にインタビューをする日が来るとは、10代の私には想像することさえできなかった。
未来は予測不能だ。
大学時代は、有楽町寄りの「並木座」によく足を運んだ。邦画専門館で、黒澤明、小津安二郎、成瀬巳喜男の作品で観逃したものがあれば、小さなこの小屋に観に行った。とにかくいつも混んでいた記憶があるが、日本映画のクラシックが観られる並木座は、私にとって映画の学校だった。
頻繁に通えたのは、歌舞伎座裏にある「新東京ブックサービス」という書店でアルバイトをしていたからだ(いま振り返ると、品ぞろえのいい素敵な書店だった)。不思議なことに、裏で働いていたというのに、その当時の歌舞伎座の佇まいをまったく覚えていない。きっと書店には、役者さんも来ていたのではないか。ところが、小劇場にハマっていた自分には「一生関係ない芝居」と思っていたものだから、記憶からすっぽり抜け落ちている。
それが今では、月に二度は歌舞伎座通い。周辺のインドカレー屋「ナイル・レストラン」や、「歌舞伎そば」、幕間に時間をつぶす老舗菓子店「文明堂」、観劇後に足を向けるビストロ「Le Nougat」は、自分にとって大切な時間の一部だ。歌舞伎が始まる前に打ち合わせを入れたいときは、紅茶の美味しい「凛イーストプラス」か、ジョン・レノンとオノヨーコがコーヒーを飲んだという「樹の花」で編集者たちと話をする。
東劇、歌舞伎座の後は、都営バスに乗って丸の内南口まで帰るが、夕景、夜景の有楽町をバスの車窓からぼんやりと眺めていると、とても気分がいい。
●有楽町
銀座と有楽町では、また雰囲気が違う。
地方で映画誌『ロードショー』や、ちょっと背伸びをして『キネマ旬報』を読んでいた学生にとっては、有楽町の劇場群はとにかくまぶしかった。
「みゆき座」ではヘンリー・フォンダ、ジェーン・フォンダの『黄昏』に、『炎のランナー』。
この2本は1982年のアカデミー作品賞のノミネート作品で(『炎のランナー』、『アトランティック・シティ』、『黄昏』、『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』、『レッズ』の5作品)、『黄昏』は確執のあったフォンダ親子の和解作であり、キャサリン・ヘップバーンも共演の豪華キャスト。美しいテーマ曲と、アメリカのこじんまりとした別荘の風景が忘れがたい。
『炎のランナー』は、待ち焦がれた作品だった。ヴァンゲリスのテーマ曲や、舞台である荘厳なケンブリッジ大学のキャンパスが素晴らしく、私はこの作品のファッションに決定的な影響を受けた。また、冒頭の浜辺を選手たちが走るシーンが、ゴルフ場で有名なスコットランドのセントアンドリューズだったことを後に知り、2017年に同地を訪れた際、私も実際に走ってみた。
やはり、映画は世界の窓だった。
有楽町、日比谷の他の映画館としては、昭和9年に建てられた「日比谷映画」。円形の特徴的な建物で、大作が公開されていた。
駅の方に足を向けると、有楽町電気ビルに入った「スバル座」があり、ここではメル・ギブソン主演、私が好きな監督、ピーター・ウィアーの出世作でもある『誓い』を観た。
第一次世界大戦中のオーストラリア軍を舞台にしたこの映画では、メル・ギブソンの走る姿が印象に残る。
そのスバル座も2019年10月20日で閉館。有楽町・日比谷近辺の激変ぶりには戸惑いを覚えるようになった。
劇場ばかりではない。映画の後に楽しみにしていたガード下の中華「慶楽」も閉店。“昭和”がこの街からどんどん消えていっているが、それでもこちらもガード下のビアホール、「バーデンバーデン」に入ると落ち着きを取り戻せる(店主はボクシングの指導者から、家業を継ぎ、今はホールに立っている)。
東京という街全体が昭和から逃げるように遠ざかっているが、それでもまだ、有楽町には自分が過ごしてきた時間をよみがえらせてくれる場所がある。
●渋谷
大きく変わったといえば、渋谷ほど「激変」を遂げた街を知らない。日本はおろか、世界でも。
学生時代は東横線を利用していたこともあって、渋谷で映画を観ることが多かった。特に東急文化会館には何度も足を運んだものだ。
1階に映画館「パンテオン」や、喫茶店の「ユーハイム」。その他にも「渋谷東急」、「同2」、「同3」と合計4つの劇場があり、最上階には「五島プラネタリウム」。「三省堂書店」も入っていて、ずいぶんと時間を潰した。
いまは「渋谷ヒカリエ」になった。
ちょっと変わった映画館があったのも記憶している。「シネマ・プラセット」という銀のドーム型の映画館だ。
この小屋は、プロデューサーの荒戸源次郎が1980年に鈴木清順の『ツィゴイネルワイゼン』を製作するにあたって製作、興行を一体化させるために作られた。
中学時代に上京した私は、11歳年上の兄とシネマ・プラセットに足を運んだ。私はそこで、初めて回転ドアというものに遭遇して、目を丸くした。兄と一緒に入ろうとしたら、
「いやいや、ひとりずつ」
とたしなめられたのを、昨日のことのように記憶している。
兄弟で観たその映画とは……井筒和幸監督、島田紳助主演の『ガキ帝国』だった。
関西弁が飛び交うこの映画は、シネマ・プラセットの独特の雰囲気も相まって、私にとっては異界への扉のようだった。20代の紳助・竜介の姿が見られるこの作品、もう一度観てみたいものだ。
その後、渋谷では記憶に残る映画体験をしている。「ユーロスペース」で観た原一男監督の『ゆきゆきて、神軍』。これは1987年公開で、当時大学生だった私が入っていた雑誌編集サークルでは、「これ観ないとダメだろ」みたいな空気があった(近ごろ、主演の奥崎謙三生誕100周年ということでリバイバルされた。観た時の衝撃は、その頃よりも今の方が強い)。
また、東京国際映画祭も渋谷を中心に開催されていたが、1989年に行われた第3回には、スティーヴ・マーティン主演の家族コメディ『バックマン家の人々』、ロビン・ウィリアムズの代表作、『いまを生きる』を観たのが懐かしい。
当時、アメリカでのスティーヴ・マーティンとロビン・ウィリアムズの人気は尋常ではなかった。『バックマン家の人々』はビデオを購入したほど好きな作品だ。
『いまを生きる』は、ラストシーンで感極まった。しばらく席を立てなかったことを覚えている。スバル座で『誓い』を観てから数年、ピーター・ウィアーはハリソン・フォード主演の『刑事ジョン・ブック/目撃者』を経て、私にとって大切な映画作家になっていた。
ジョン・ウェインのモノマネをするロビン・ウィリアムズの授業風景は楽しく、彼の教室からはイーサン・ホーク、ジョシュ・チャールズなど、後に成功する役者が育っていった。
第3回東京国際映画祭が行われた1989年、時はバブル期だったが、渋谷という街の変化するエネルギーには当時から強烈なものがあった。
ただし、大きな劇場ばかりではなく、かつてのシネマ・プラセットや、今は「アップリンク渋谷」、落語会も開くユーロスペースなど、多様性を確保しているのが渋谷の強みかと思う。大きなビルが建てば、その穴を埋めるように、周縁にアイデンティティのハッキリした発信所がある。
すべてが整ってしまっては、街の面白味は薄くなる。東京の魅力は表と裏が揃っていることだ。が、最近は表ばかりが強調されている気がしてならない。
気仙沼から飛び出して、30年以上が過ぎた。年齢を重ねるにつれ、映画で観た風景を、実際の目で確かめられることも多くなった。たとえば、ロンドンのノッティングヒルは、『ノッティングヒルの恋人』の、ジュリア・ロバーツとヒュー・グラントの出会いの物語を観ていなければ、訪れることはなかったかもしれない。ヒーロー、ヒロインが闊歩した街を、自分で歩くのは楽しい。
私にとって、映画は世界の窓だったし、今もそう。この窓を通じて出会えるのは、異国の街の風景だけではなく、価値観もそうだ。
たとえば、過去と今の映画を観比べれば、家族のあり様が大きく変わったと分かる。愛らしいファミリーコメディ『バックマン家の人々』は、1980年代のアメリカ中西部の伝統的な価値観を表していた(冒頭、メジャーリーグの試合を観に行くシーンがあるのが楽しい) 。
しかし、30年を経てロサンゼルスの高校を舞台にした『ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー』を観ると、ティーンの恋愛観は変化しているようだし、テレビシリーズの『モダン・ラブ』では多種多様な家族観が浸透していることが分かる。
映画が提示する価値観は、家よりも映画館でフィジカルに体験するほうが、インパクトが強いことを最近、実感している。
新型コロナウイルス禍の影響でテレビ、タブレットで映画を観ることが増えたが、やはり映画館の椅子に座り、音を感じ、そして鑑賞後に駅までの道すがら、作品を反芻する作業が大切なのだと確信している。
なぜなら、街に出て映画を観ること、そして映画館の扉を開けることは、私にとって非日常へと飛び込む手段だからだ(ウディ・アレンの『カイロの紫のバラ』では、スクリーンと客席の垣根がなくなってしまうことが大切なモチーフになっていた)。
やっぱり、映画は街のなかで観た方が楽しいのだ。
いまは東京の多摩地区に住んでいるが、とにかく映画館が多いので困らない。
立川、多摩センター、昭島、武蔵村山、府中、南大沢。時には“都会”の吉祥寺まで足を延ばせば選り取り見取り。特に立川は近年、商業施設が増え、映画鑑賞後の「体験」もとても充実している。
住んでいる街に映画館のある幸せ。
「映画館のない街には暮らせない」と、そんな気持ちもあって大学から上京したが、18歳の自分に、50歳を過ぎたいまの自分がかける言葉があるとするなら、こう言おうかと思う。
君の夢はかなったよ、と。
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