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映画は愛すべき女同士の関係を、様々な時代を通じて描いてきました。
理想にはなれなかった、母と娘。
映画の中の女たちは、いろんな生き方や在り方を肯定してきた。女同士が聡明に手を取り合い、強く生き抜く姿は、後世の女たちの希望となってきただろう。どちらか一方に片付けられない曖昧な思考を慈しみ、映し鏡のように自らの出来事が讃えられるような感覚。映画を通してたくさんの女たちに救われてきた経験を、ここで見つめ直し、これからの光としたい。
“女同士”と聞いて、真っ先に思い浮かんだのが母と娘の物語だ。それぞれの家族に、母と娘の形がある。姉妹のような母娘もいれば、喧嘩の絶えない母娘もいる。社会的に微笑ましく思われるのは前者かもしれないが、わたしは後者の関係だった。無理して仲良くならなくていいはずなのに、あるべき関係に近づこうと自分を苦しめていたあの日のわたしに伝えたい。関係を断ち切ることで、健全になることだってあるはずだし、お互いに逃げたいときは逃げてもいいはずだ。
閉塞感あふれる田舎町“カリフォルニア州・サクラメント”から都会の大学に進学することを夢みるクリスティン(自称“レディ・バード”)の家族や友人、恋人との1年を描いた『レディ・バード』は、こんなシーンから始まる。春から進学する大学の見学に回っていた娘レディ・バード(シアーシャ・ローナン)と母マリオン(ローリー・メトカーフ)。ふたりは、車のカセットテープから流れるジョン・スタインベックによる小説『怒りの葡萄』の朗読で涙し、互いの悲しみを抱きしめ合う。なのに、少しの言葉のかけ違いから、レディ・バードが「くたばれ、ママ!」とののしり衝突するシーンにまで一転するのだ。
ああ、見覚えがある。母は、都会ではなく田舎の大学に進学し家族と過ごすことを「あなたのため」と言うけれど、それは結局「自分のため」。母が母の哲学を守りたい故の言動に娘は縛られ、不自由を感じ、言いたくもない言葉を吐き出してしまうように見えた。
母の理想から逃げたい、わたしも何度も思ってきた。小さなころから過保護に育てられ、門限に厳しく、土日を友だちと自由に過ごすこともできない窮屈さに反抗して、いつからか衝突する関係になってしまった。
高校生の頃、古着に興味をもった。目が覚めるような色彩や独特なデザイン、友人と違う服を纏うことで特別な自分になれる感覚を覚えた。しかし、母は「古着の匂いが嫌い」「デザインがうるさい」など畳み掛けるように否定し、自身が好きなフレンチファッションをタンスに入れてくるようになった。自分の気持ちを強く主張できず、母の選んだ服を纏う私自身は追い詰められるようになった。そして突然、何を思い立ったかピアスを開けて家に帰った。渋谷でピアッサーを購入し、自分で、公園で開けた。母の手にも及ばないことをすることで、その手から逃れようとしたのかもしれない。赤く腫れたわたしの耳をみて、怒り喚く母に向かって「お母さんなんていなくなれ」と小さな、小さな声で吐き捨てた記憶が今も苦しいほど残っている。
だけど、母が大切な気持ちもある。母との関係を結び直そうと、ふたり旅へ何度も行った。綺麗な絵画にうっとりとし、美味しいものを食べて、ふたりの空気はしあわせで満たされる。しかし、喧嘩もしてしまう。今となっては忘れてしまった些細なひと言が引き金になり、私たちはまるで撃ち合いのような、傷つくだけの時間を過ごし、距離をとって歩く。わかっていても、やってしまう。そしてまた、どうにかよき母娘であった思い出だけを残そうと、美しい景色や美味しいものにすがり、清算しようとするのだ。
わたしたちは、どうしたって、理想の母娘になれないのだろうか。
自分自身が普段怒りっぽくないからこそ、このどこから湧いてくるのかわからない怒りの塊を処理するだけで疲れるし、自分の中にある黒くて醜いものを見つめているようで怖くなる。それでも、母といい関係で在りたかった。その願いは、母への感謝なのか、気持ちの在処はよくわかっていない。
『レディ・バード』を撮った経緯について、監督のグレタ・ガーウィグはこんなことを話している。
「私が知っている女性のほとんどがティーンエイジャーのころ、非常に美しく、とてつもなく複雑な関係性を母親との間に持っていた。」「どちらかが『正しい』、どちらかが『間違い』という構図は避けたいと思ったの」
レディ・バードは母の反対を押し切ってサクラメントからニューヨークの大学に上京することが決まり、母と大喧嘩。険悪なまま離れることになり、彼女は父から大きな封筒を預かる。そこには母からレディ・バードへの思いが綴られた書きかけの手紙がたくさん入っていた。書いては消して、結局伝えることのできなかった愛情。そんな感情が、母娘の間にはたくさんあるのではないだろうか。窮屈な思い出ばかりが先行するけれど、わたしの母も大好きなチーズケーキを必ず誕生日に作ってくれたし、ピアノの発表会や合唱コンクールなど親が参加できる機会にはすべて足を運んで祈ってくれた。いざという時に味方でいてくれた、母と娘のあたたかい記憶も確かに存在しているのだ。そうした時間を紡いできたことが、互いの幸せと健康を心から願うような究極の愛につながり、私たちは手を離そうとしないのかもしれない。
レディ・バードは悟ったような表情で彼氏に「ママは怒る理由をいつも探している。それが愛の形なの」と、打ち明ける。娘は、母がやさしくて、愛情深いことを本心ではわかっている。だから、素直になって感謝を伝えられないことに苛立ち、自分の言動に後悔する。そして、レディ・バードは喧嘩をしたまま離れてしまった母に、決死の思いで電話に伝言を残す。
「I love you, Thanks, Thank you(愛してる、ありがとう、感謝してる)」。
母と娘の関係に、これ以上の言葉はないと思った。
良くなったり悪くなったり、揺れながらも何度もやり直せるのが、母と娘の関係であってほしい。社会的な理想の関係から、母娘という上下関係から、親子という束縛から自由になっていい。喧嘩を円満に解決させようと心のない「ごめんなさい(I’m sorry)」を言ってしまいそうになる前に、「I love you, Thanks, Thank you, mom.」と心の中で唱えてみるのはどうだろう。否定も肯定もしない、相手と自分の考えを認めて愛する気持ちが、母と娘の関係を何度だって結び直してくれるはずだ。
わたしたちは誰のものでもないわたしの人生を生きていく。離れても、母の存在は自分の中にある。正解を示すことが母の役割ではなく、母も一人の人間として自由に生きていいと信じたい。後ろめたい気持ちを溶かしてくれる魔法の呪文があるだけで、ほんのすこし強くなれる気がした。
バナーモデル:Kinuko Numano(左) 小川李奈(右)