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『あん』という映画の中で、印象的なシーンがありました。
樹木希林演ずる徳江が、どら焼き屋の雇われ店主・千太郎(永瀬正敏)に、小豆あんの炊き方を教える場面です。小豆を洗い、ゆで、水にさらしてあくを取り、砂糖を加えて練り上げます。ただ、あんを作るだけの工程を、カメラはまるでドキュメンタリーのように丁寧に細やかに、追っていきます。
店の中は静かです。小豆の煮えるかすかな音へ、歌うように、ささやくようにアドバイスをする徳江の声がシンクロします。樹木希林さんの、しわがれた、それでいて人を安心させる、あの声です。
浸す前にちゃんと見た?(何を?)何をって……小豆よぉ
もうそろそろだね、湯気の香りが変わってきた
あったまった豆、割れやすいからね。静かに静かにね。
静かに静かにー、静かに静かにねー
刻一刻と変化する小豆のどんな小さな変化も見逃さない、徳江の細やかな感性と迫力とに圧倒されて、気がついたら涙がこぼれていました。小豆の煮えるシーンを見て泣くとは、われながら驚きですが、自分に欠けているものがあったようにも感じたのです。
誰かの話を聞くことは、本当に難しいと思いませんか。
私はライターとして、インタビュー記事を書いてきました。あるとき、一つの質問に対して相手の話がなかなか終わらなかったため、話を一区切りしようと「つまり、それは〇〇ということですね?」と返したところ「あなたは私の話をちゃんと聞いていないでしょう」と言われてしまいました。聞いていたのに、と思ったのですが、帰って録音したものを再生すると、確かにそのときの私は「自分にとって都合のよい」結論を聞きだそうと焦っていたのです。
人にも、ものにも、たどってきた道があり、相手のペースでその話に耳を傾けるのが、本当の意味で「聴くこと」なのですが、それは本当に難しい。
重い荷物を背負った徳江は、「聴くこと」に自分の生きる意味を見い出し、遠くから旅をしてきた小豆の声を聴きながらあんを煮続けてきました。やはり事情があって自由を奪われた千太郎がそんな彼女にみちびかれ、おいしいあんを作って客を喜ばせ、世界とつながっていきます。
人はつい発信することばかりを考えてしまいがちですが、本質に近づくために大事なのは受信力を磨くことであると、この『あん』は教えてくれます。映画を観る人に耳をすませることを求めるように、登場人物たちは小さな声でつぶやくように話します。
静かに静かにー、静かに、静かにねー
惜しまれつつ逝ってしまわれた樹木希林さんのこの声が、映画を見終わった後も、リフレインしています。じわじわと、自分の耳が意識される映画でした。
スープ作りもあん作りと似ています。素材の声をちゃんと聴いてあげないと、おいしくなりません。聴く力不足でまだまだな私ではありますが、自分のスープの中で「聴く」力が試されるレシピがあります。にんじんのスープです。旬のにんじんを切って、炒めていきながら、にんじんの声をずっと聴き続けることが大事なポイントです。
にんじんはどの畑からうちまで旅してきたんだろう。何を言いたいのだろう。音が変わり、見た目が変わり、香りが変わります。
にんじんが、もう大丈夫と言っているように聴こえたら、おいしくなっているはず。ぜひ、声を聴くレッスンとして、やってみてください。
◎映画のスープレシピ:
『野菜の声をじっくり聴くスープ』
(にんじんのポタージュ)
オリーブオイル 大さじ1
塩 小さじ1/2
◎つくり方
- 1にんじんは皮をむいて7mmの薄切りにする。
- 2鍋にオリーブオイルを熱し、にんじんを中火で7~8分ほど炒める。(途中、焦げ付きそうになったら水を足してもOK)色と香りが変わったら、水250mLと塩小さじ1/2を加え、ふたをして15分ほど煮る。途中ふたをあけてみて、水がなくなっていたら水を50mLぐらいずつ足していってよい。
- 3にんじんがやわらかくなったら、水をさらに200mL足してハンドブレンダーをかける。水(牛乳でもよい)を少しずつ足して好みの固さに仕上げ、塩で味をととのえる。器に盛り、煮て賽の目にしたにんじん(にんじんを煮た中から少しとりおくとよい)を飾る。
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