前略
最近、「as it is」という言葉について考えています。あなたが最後に私に教えてくれた言葉です。「そのまま」とか「あるがまま」という意味でしょうか。何も意味づけしない。何も理想をつけ足さない。そのままであること。そのままであることを受け入れること。――思えば、これはひどく難しいですね。
たとえば、私が誰かの似顔絵を描くとしたら、見えているものを“そのまま”描けるかどうかわかりません。どんなに正直に向き合おうとしても、やはり相手が喜ぶようにちょっと美化したり、欠点をぼかしたりして描いてしまうと思うのです。
たとえば、新しい恋人ができたら、自分の良いところを見せようと背伸びをするでしょうし、「これを言ったら失望させるだろうな」ということはなんとなく隠してしまうと思うのです。“あるがまま”の自分を理解してくれたら嬉しいですが、もしそれが受け入れてもらえなかったらと思うと勇気が出ません。逆に、相手の“あるがまま”を受け入れられるのかと問われれば……さらに自信がありません。
誰かに「裏切られた」と思うとき、それは自分が信じていた(または信じたかった)何かが崩れたときです。でも、もしかしたら、それこそが相手の“あるがまま”の姿だったのかもしれない。今まで自分が勝手に「こうあってほしい」という理想やイメージを押しつけていただけなのかもしれない。そう考えると、私たちは真実の姿よりも夢を見ていたいものなのでしょうか。
その“あるがまま”に耐えられなくなったとき、周りの風景はただのハリボテになり、空に浮かぶ月はペーパームーンに戻るのです。
as it is ――そのまま。あるがまま。自分がそのままであること。相手のそのままを受け入れること。ここに辿り着くには一生かかってしまうかもしれません。
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この間、久しぶりにフェデリコ・フェリーニ監督の『カビリアの夜』を観ました。私は昔からこの映画がひどく好きで、人生の岐路に立たされたときや、勇気をもらいたいときに、いつもここに立ち返ってきたような気がします。
カビリアは夜の女、娼婦です。物心ついた頃から自分の身体を売ることで生計を立ててきました。「永遠の愛がなんだ。二度とごめんだよ!」と強がる野良猫のような彼女も、心の底ではこんな自分を愛してくれる誰かを待ちわびている。そして、誰かを信じては裏切られるということを繰り返すうちに、すっかり心がねじけてしまった女なのです。
繰り返し観てきた作品ですが、今回気づいたことがありました。『カビリアの夜』には全部で七つの“夜”が描かれていたということ。彼女の人生から切りとられた七つの夜です。そこでいろんな出会いや別れがあるのですが、そのうちの“三番目の夜”は公開当時はカットされていたということを知りました。こんなシーンです。
その夜の仕事を終えたカビリアが、辺鄙な土地で客に降ろされ、荒野を迷いながら歩いていると、どこからともなく大きな袋を背負った痩せた男が現れます。彼はカビリアを見ると「ここの住人か?」と訪ねます。彼女はホームレスに見間違われたことに少しムッとし、「家ならあるわ」とつっけんどんに答えます。
見ていると、男は荒野の洞穴を棲家にしている人々を回っては一人一人の名前を呼び、それぞれに何かを与えているのでした。袋から出てくるものは、薄い毛布だったり、チョコレートケーキだったり、まちまちでした。
この“袋の男”は、カビリアが出会ってきたどんな人間とも違いました。男の目は、何一つ見返りを求めていない眼差しでした。そこには裏も表もなく、隠すものもない。袋の中に入っているのは、求めている人々に自分が与えられるものだけ。夜中回っても「回りきれないが」と静かに言う男の表情が印象に残りました。
カビリアは出会って間もないこの男にだけ、自分の本名と不幸な身の上を明かします。初めて、素直なありのままの自分を見せるのです。
そういえば、三番目の夜は他の夜と少し雰囲気が違います。なんというか、とても静かでどこにも絡みついていなく、浮いているようにさえ思えるのです。以前はこの場面になると眠くなってしまっていたのか、ほとんど印象に残らなかったのですが、今の私は不思議とこの三番目の夜にひどく惹きつけられました。
袋の男のシーンが復元されたのは、公開から四十一年後の一九九八年。そのときはすでに監督のフェリーニも亡くなっていたそうです。今となってはもう理由はわかりませんが、教会権力が腐敗していた時代に何も所有せず、貧しい人たちに人生を捧げたという聖フランチェスコを彷彿させる袋の男は、フェリーニにとって核心に触れすぎていて隠したかったのかもしれません。ちょうど、マジシャンが手品の種明かしをしないように。
そして最後の七番目の夜、夕暮れの森の中を歩くカビリアの姿があります。ほんの数時間前までフィアンセと手をとりながら来た道を、今は名もない野花だけを手にとぼとぼと引き返していきます。沢山のロマンチックな言葉で未来を誓った男は、彼女から全財産を奪って逃げていったのです。
森をぬけて道に出ると、もう夜でした。帰るあてもなく歩いていると、どこからかピクニック帰りのような若者たちが楽しそうに楽器を鳴らし、歌を歌いながら現れます。偶然出くわした彼らの奏でるセレナーデにつつまれて、カビリアは夜の道を一緒に歩いて行きます。そのうちに、若者の一人が彼女に微笑んで「ボナセーラ(こんばんは)」と声をかけました。
ボナセーラ――これが映画の最後の言葉。なんて優しい響きなんだろうと思いました。何も押しつけない。どこにも連れてかない。ただの言葉。永遠の約束もしないし、束縛もしない。ただの言葉。ちょうど飛んできた蝶がそっと肩に止まり、またふわりと飛んでいくような柔らかな感触だけが残りました。
そのあとのカビリアの表情は宝石のようです。どんなに世界が信じられなくなっても、何もかもにうんざりしてしまっても、彼女のこの表情を見るとまだ信じられるものがあると思えるのです。
このあと、カビリアはどうなったでしょう。すっかり絶望してしまっても、それでもまだ何かを信じることを諦めなかったでしょうか。
そうであってほしいなと思いました。
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追伸
来月、私は生まれて初めてヴェネツィアへ行ってきます。フェリーニの国、イタリアです。
去年の冬に逗子で撮った小さな映画がヴェネツィア国際映画祭にノミネートされたのです。これまで夫婦だった男女が一緒に過ごす、最後の一日のお話です。別れたあと、二人がそれぞれどんなふうに生きていくのかは描かれていません(カビリアのその後が描かれていないように)。映画は終わりますが、人生は続きます。私たちは「めでたしめでたし」のその後を、生きていかなければならないのですね。
くれぐれも健康には気をつけてください。
またいつか、どこかで。
八月末日 東京にて
- 「手を振りたい風景」をめぐって
- 「人間らしさ」をめぐって
- 「言葉にならないこと」をめぐって
- 「ありのままの風景」をめぐって
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- 年末年始におすすめの映画(前篇)
- 初のホラー体験記
- 足下を流れる見えない水
- 緑はよみがえる
- 「のぐそ部」のころ
- 午後の光のようなもの
- 袋の男とボナセーラ
- 空洞に満ちたもの
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- 続・私の日本舞踊ビギニングス 「男のいない女たち」
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