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渋谷区で生まれ育ち、現在も渋谷で暮らすタレントの井上順さんは、今日も軽快なダジャレを交えて、渋谷の街や様々なカルチャーの魅力をにこやかにTwitterで紹介しています。2020年に渋谷区名誉区民に顕彰され、「そのお返しに」と毎日の投稿をスタート。渋谷の映画館で観た新旧の映画も取り上げられているつぶやきは、世代をこえて多くの人の共感を呼んでいます。
映画から「優しさ」と「スウィング」を
― まん防(まん延防止等重点措置)が明け、春休みということもあり、多くの人が街に出ていますね。
井上 : みんな街に出たくてウズウズしてたんだろうね。
― 井上さんも街に繰り出し、渋谷の名所やカルチャースポットなどへお出かけされている姿を、SNSを通してお見かけしています。映画館へもよく通われていますが、最近観た映画で心に残っている作品はありますか?
井上 : 『コーダ あいのうた』(2022)ですね。作品から“大きな優しさ”を受け取った素晴らしい映画でした。
― 先日行われた第94回アカデミー賞で、作品賞を含む3部門を受賞。また、助演男優賞を受賞したトロイ・コッツアーさんが手話でのスピーチを披露し、話題になりました。井上さんもTwitterでご覧になられた様子を投稿されていましたね。
グッモー✌️温かく、優しい時間に包まれた映画です。「Coda あいのうた」🎥主役の娘ルビーとの家族の物語。何度喜びの波が心に訪れたか。父・母・兄を演じた方は実際に耳にハンディキャップを持つ役者さんです👏👏👏難聴の私は勇気元気を頂いた。一級品の映画だけど、三キュー・ベリーマッチ!ははは🤗 pic.twitter.com/HUWIXUu3P8
— 井上順 (@JunInoue20) January 27, 2022
― 『コーダ あいのうた』は家族で唯一の聴者であるルビー(エミリア・ジョーンズ)が、歌の才能を見いだされたことをきっかけに人生が動き出す姿を描いた作品です。
井上 : 僕は50代から難聴になったこともあり、思い入れが強くなったのかもしれません。家族の愛に満ち溢れた映画で、音楽も素晴らしかったです。
これまでエンターテインメントの世界で生きてきて、いろんな文化に触れてきたんですが、その中でも特に映画は大好きなんです。それは、もとをたどると両親のおかげなのかなと思いますね。僕が元気で明るく楽しいことが好きだというのも、その影響かな。
― 井上さんは終戦後まもなくの1947年に、3人兄弟の末っ子として生まれ、渋谷の富ヶ谷で育ったそうですね。ご両親とどんな音楽や映画に触れられてきたんですか?
井上 : 両親は、「ハイカラさん」っていうのかな。当時、流行っていたアメリカのスイング・バンドの曲とか洋楽が、蓄音機で流れるような家だったんです。音楽だけでなく、映画も大好きでね。僕は兄と姉とは少し歳が離れてたんで、両親に一人連れていってもらって、よく映画館へ通ってました。
― どんな映画をご覧になってたんですか?
井上 : 『バンビ』(製作:1942/日本公開:1951)や『ピノキオ』(製作:1940/日本公開:1952)、『ダンボ』(製作:1941/日本公開:1954)、『ピーターパン』(製作:1953/日本公開:1955)といったディズニー映画を観ていましたね。
井上 : 僕は画面を通して、たくさんの優しさを知ったと思います。「映画の世界の優しさ」っていうのかな。今でもいろんな作品をディズニーはつくり続けているけれど、根本にあるものは変わっていないと思う。僕の性格は、ディズニー映画と、両親と兄姉によってつくられたんですよ。
笑顔と笑い声が満載な家族だったので、僕が幼稚園に入る時には目尻に笑いジワができていて「何だか老けた子どもだね」って学校の先生に言われたという逸話が残っているほどなんです(笑)。
― 幼い頃から新しいもの好きのご両親と、映画を観によく渋谷の街へ行かれてたんですね。
井上 : 当時、渋谷で一番大きなビルだった東横百貨店の屋上と、玉電ビル屋上を繋ぐ「ひばり号」というケーブルカーがあって。なんでもアトラクションとしてつくられたものだったそうなんです。両親と一緒に乗りに行ったんだけど、いつも満員で。諦められなくて3回ほど通ったけど結局乗れなかったんですよ。
― 「ひばり号」は1951年に開通し、1953年に玉電ビル(東急百貨店東横店西館)の増築工事に伴い廃止された空中ケーブルカーですね。繋いでいた東横百貨店(東急百貨店東横店東館)は、1934年に開業、1951年には日本初の「名店街」となる「東横のれん街」をオープンするなど、様々なブームを生み出してきました。(渋谷の再開発のため2013年に営業を終了。跡地には、渋谷スクランブルスクエア 東棟が2019年に開業)
井上 : 東横百貨店の屋上は、当時のテーマパークでした。たくさん遊具があったのを覚えています。その周りには、映画館が数多くありました。
― 現在のTOHOシネマズ渋谷があるところに「渋谷東横映画劇場」、西武渋谷店(A館)に「渋谷松竹映画劇場」「渋谷銀星座」が、シネクイントに「渋谷パレス座」、渋谷TOEIに「渋谷東映劇場」、旧ドン・キホーテ渋谷店に「渋谷大映」などの映画館が井上さんの幼少期にはあったそうですね。
井上 : 何と言っても当時の一番の娯楽は映画でしたからね。お客さんがワーッと詰めかけて上映中の劇場のドアが閉まらないくらいの人気ぶりでした。しかも毎回二本立てで上映して、それが毎週新しい作品に切り替わるんだから、すごいよね(笑)。
― 毎週ですか!
井上 : それくらいみんなが映画を楽しみにしてました。土日は家族や友人と一緒に映画館に行く光景が当たり前にありましたから。
僕も少し大きくなって友だちと映画を観るようになってからは、あちこちの劇場をまわったし、おそらく当時の渋谷にある全ての映画館で観たんじゃないかな。洋画も邦画も同じように観ていましたね。
― どんな作品をご覧になられていたんですか。
井上 : その頃は、実在のミュージシャンの生涯を描いた音楽伝記映画が多く上映され、流行っていました。『グレン・ミラー物語』(製作:1953/日本公開:1954)や『愛情物語』(製作:1955/日本公開:1956)、『ベニイ・グッドマン物語』(製作:1955/日本公開:1956)とかですね。
― 『グレン・ミラー物語』は、「スウィングの王様」と呼ばれ、「ムーンライト・セレナーデ」や「イン・ザ・ムード」などの楽曲で知られるザ・グレン・ミラー オーケストラを結成したグレン・ミラーの生涯を、ジェームズ・スチュアートが演じた作品です。『愛情物語』はピアニストのエディ・デューチンをタイロン・パワーが、『ベニイ・グッドマン物語』はクラリネット奏者ベニー・グッドマンをスティーヴ・アレンが、それぞれ演じています。
井上 : アメリカのスウィング・バンドがエンターテインメントの花形で、例えばフランク・シナトラがトミー・ドーシー楽団の専属歌手だったり、ペリー・コモはフレディ・カーロン楽団の専属の歌手であったり、そういう歌手にスポットが当たる時代でしたから。
『5つの銅貨』(製作:1959/日本公開:1960)もそうですよね。
井上 : ジャズ奏者のレッド・ニコルズを演じたダニー・ケイが「This little penny is to wish~♪」って歌う姿も素敵でね。
― ! (井上さんの歌声に拍手)
井上 : ありがとう(笑)。子供の頃に、ミュージシャンを描いた映画を観て、そういう世界に触れたことが、今思えばエンターテインメントの世界に入るひとつのきっかけになったのかもしれません。
街から「若者の生気」と「異国の匂い」を
― 井上さんは子供の頃から、たくさんの映画や音楽に触れていたんですね。
井上 : エンターテインメントが大好きなんでしょうね。映画を観た後は家に帰ってから、兄姉に身振り手振りで作品を表現するのが恒例でした。
― ご自身で、観た映画を再現されていたと。
井上 : それを見た母がピンときたみたいで、あるお宅に僕を連れて行って、「隣の部屋にお仲間がいるから遊んでらっしゃい」って言うんです。
部屋を覗いてみると、僕より少し歳上の人たちがギターやベース、ドラムで洋楽を演奏して歌っていました。僕はその姿と音楽に一瞬で引き込まれて。「どんなグループなんですか?」と聞くと、「六本木野獣会」という返答があったんです。
― 「六本木野獣会」ですか! すごいネーミングですね。
井上 : 決して野獣のような方がいるわけではなくて(笑)、芸能界やファッション業界などを目指す10代の若者で結成されたグループだったんです。インパクトの強い名前にしようってことで、この名前になったみたいなんですよね。僕が13、14歳の頃の出会いでした。
井上 : それからは、学校が終わると野獣会の集まりに行って、時々「順も歌いなよ」なんて言われて一緒に歌ったりして。学校とは違う世界を見せてくれる野獣会に魅了され、毎日そこで時間を過ごしていました。集まりの後に決まってご飯を食べに行くのが、六本木だったわけです。
― 当時の六本木は、どんな街だったんですか?
井上 : 昼間は普通の商店街なんだけど、夜になると異国情緒のあるお店の灯りがポツポツと灯るような街でね。まさに、僕が映画やテレビで観ていたアメリカナイズされたお店がそこにはあったんですよ。
― 六本木は終戦後、米軍が駐留するようになり、米軍向けのさまざまなお店や施設がつくられました。1959年に米軍施設が日本に返還された後も、その名残りは色濃くあったそうですね。
井上 : そうそう。「ディス・イズ・アメリカ!」って言いたくなるような、カッコいい異国の文化を六本木で感じさせてもらいました。
― また1959年には、日本教育テレビ(現在のテレビ朝日)が六本木にでき、芸能人やそこを目指す若者が集まるようになったと伺っています。
井上 : 中尾彬さんや大原麗子さんなども、野獣会にいて。当時はみんな売れる前でしたからね。僕にとっての兄貴分だった俳優の峰岸徹さんは、時間があると六本木のいろんな場所に連れ出してくれました。
― 峰岸徹さんは、滝田洋次郎監督の『おくりびと』(2008)や、『金田一耕助の冒険』(1979)、『ねらわれた学園』(1981)、『廃市』(1983)、『北京的西瓜』(1989)など、数多くの大林宣彦監督作品に出演されています。
井上 : 歌もお芝居もできて、甘いマスクで、とにかくカッコいいんです。それと峰岸さんの家は日本橋浜町で「竹水」って料亭を営んでいて、野獣会の事務所で少しお借りした時期もあり、僕も何度かそこに寝泊まりさせてもらいました。
夜は本当に華やかでしたよ。料亭ですから、ご飯がおいしくて。峰岸さんに「お前は俺より待遇いいな」って言われるほど、峰岸さんのお母さんにもとってもかわいがっていただきました(笑)。
― その後、井上さんは1963年に16歳で、グループ・サウンズのバンド「ザ・スパイダース」に最年少メンバーとして参加されるわけですが、野獣会での音楽活動からつながったということでしょうか。
井上 : 僕が野獣会で活動している時に、アルバイト代わりというか腕試しというのかな、野獣会のみんなで組んだバンドで演奏を披露していたんです。
今で言うライブハウス、当時はジャズ喫茶って言ったんだけど、銀座だと「テネシー」「銀座 ACB」「ニュー美松」があって、新宿には「新宿ACB」、渋谷には「テアトル」とか。
― ジャズをバンドの生演奏で聴くことができる「ジャズ喫茶」は若者に大変流行ったそうですね。
井上 : 東京ではあちこちにジャズ喫茶がある時代でした。そこで僕たちは昼・夜の部って掛け持ちしながら、「僕たち『野獣会オールスターズ』です!」って名乗っていろんな場所をまわってたんです。スターは誰もいなくて、アマチュアに毛が生えたくらいの演奏だったんだけど、スパイダースの田邊昭知さんが何度か見てくれててね。
― 田邊さんはザ・スパイダースを結成したバンドのリーダーで、ドラムを担当されていました。現在はタモリさんなどが在籍する芸能プロダクション・田辺エージェンシーの代表を務められています。
井上 : 当時のバンドといえば、自分たちの好きなモダンジャズ、例えばアート・ブレイキーやセロニアス・モンク、カウント・ベイシーなどの曲を演奏するのが主流で、若者にはエルヴィス・プレスリーやポール・アンカなどロカビリーが流行っていた。けれど、どちらも老若男女に幅広く受け入れられる音楽ではなかったんです。
井上 : そこで、田邊さんは盟友のかまやつひろしさんと海外の最新の音楽情報をかき集めてきて、ビートルズをはじめとするブリティッシュ・ロックの要素を取り入れたスパイダースに再編成をしたんです。
― そこで井上さんに声が掛かったと。
井上 : すでに6人のメンバー(※)が揃ってたんだけど、田邊さんはなんとなく「ラッキー7」でメンバーは7人の方がいいと思ったみたいなんです(笑)。ジャズ喫茶で歌う僕を覚えていてくださって、「新しいスパイダースにするけど、一緒にやらないか?」と誘ってくれました。
まさか自分が歌を商売にするなんて思ってもみなかったことだけれど、吸い取り紙ですうっと油を吸い取られるようにというのかな、僕はそんな感じで芸能の世界に入っていったんですよ。
(※…田邊昭知、かまやつひろし、井上堯之、堺正章、大野克夫、加瀬邦彦)
― 子供の頃から憧れていた音楽の世界に入りたいとは、思っていらっしゃらなかったということでしょうか?
井上 : 僕はそういう世界に憧れていたただけで、自分がその世界に入ろうとはこれっぽっちも思っていませんでした。
― ザ・スパイダースは多くの名曲を世に送り出す一方で、『ザ・スパイダースのゴーゴー・向こう見ず作戦』(1967)や『ザ・スパイダースの大進撃』(1968)など映画にも主演をされていますが、ではその時もあまり意気込んではいかなった…?
井上 : こう言っちゃ申し訳ないんだけど、映画の撮影中は田邊さんに「いい加減にプロに徹しろよ!」なんて言われるくらい、僕はいつまでも部活みたいなノリで(笑)。僕が一番年下で、歌も芝居も優しく教えてくれるメンバーに囲まれていたから、少しずつ覚えていきました。「ああ、今日も楽しかったな!」っていう毎日でしたね。
スパイダースにいる時はずっとそんな感じだったんじゃないかな。短い期間だったけれど、すごく濃い時代を仲間たちと過ごしたと思います。
新陳代謝しつづける街 「渋谷」
― 井上さんがスパイダースに加入された翌年の1964年は、東京オリンピックが開催され、東京の街は目まぐるしく開発が進むタイミングでもありました。
井上 : よく「井上さんが幼い頃の渋谷で、印象に残っている風景は?」って聞かれるんだけど、その時はいつも「ひばり号」と「かまぼこ兵舎」って答えているんですよ。
― 「かまぼこ兵舎」ですか?
井上 : 米軍が寝泊まりする「半円筒形の簡易な組み立て式の兵舎」をそう呼んだんです。それがずらっと何十個も家から見えてね。今の代々木公園のあたりは、僕が生まれた頃はワシントンハイツでしたから。
― 進駐軍のための住宅施設であるワシントンハイツは、オリンピックが開催される前年に日本に返還され、選手村や国立屋内総合競技場(国立代々木競技場)などとなり、その後は代々木公園として整備されます。
井上 : 僕の家から「かまぼこ兵舎」が見える富ヶ谷から明治神宮にかけては、直線で結ぶ道がなくて、オリンピックの前だと参宮橋の方からぐるっと周らなければいけなかったんです。でも開催に向けた道路の整備で、代々木体育館・選手村エリアと青山通りの表参道交差点をつなぐ都道413号が整備されて、新たに道ができたんですよ。
NHK放送センターの前の道もそうだけど、「こんなところに道があったっけ?」と思うほど急速に街が大きく変わったのを覚えています。
― NHK放送センターと渋谷区役所が現在の場所に移転し、渋谷公会堂が開館したのもこの時期でしたよね。
井上 : 渋谷は「ひばり号」もそうだけれど、新しいものが集まる街だったんです。東急文化会館にはプラネタリウムが、東横百貨店には劇場もありましたから。
― 1956年に開業した東急文化会館には、「渋谷パンテオン」「渋谷東急」「東急名画座(後の渋谷東急2)」「東急ジャーナル(後の渋谷東急3)」の映画館や五島プラネタリウムが、1954年に開業した東急会館(東急百貨店東横店西館)には渋谷初の大劇場「東横ホール」がありました。
井上 : 劇場もあり美術館もあり能楽堂もあり、もちろんたくさんの映画館もあって、渋谷は文化の街なんだよね。変化し続ける街でもあるんだけれど、昭和から変わらない風景を残し続けているエリアもあるんですよ。道玄坂を上がったところにある百軒店(ひゃっけんだな)には、戦前・戦後から続いているお店があるんです。
― 「名曲喫茶ライオン」やカレー屋の「ムルギー」などですね。百軒店は1924年に、銀座や浅草のような場所をつくろうと西武の前身である箱根土地によって開発されたエリアですが、第二次世界大戦の空襲によって全焼してしまいました。
井上 : 戦後そこから、地元の人が「よし、みんなでひとつの繁華街をつくろうじゃないか」と力を合わせてできた場所で、そこには喫茶店や大衆食堂、バーや洋食店とたくさんのお店が所狭しに並び、しかも映画館が3つもあったんです。
― 「テアトル渋谷」「テアトルハイツ」「テアトルSS」ですね。
井上 : 駅前のにぎやかさとはちょっと違った雰囲気のある大人の繁華街だったんですよ。
― 東京オリンピック前後は、駅前と百軒店あたりが賑わいを見せていた渋谷ですが、その後、1967年に東急百貨店本店が開業し、1968年に西武百貨店渋谷店と、1973年に渋谷パルコが開業し、セゾングループの施設も増えていきます。
井上 : それによって公園通りができ、若者がそのエリアに集まるようになるんです。渋谷はファッションの街としても成長していったんだよね。SHIBUYA109とか東急ハンズとか、また東急の施設もたくさんでき始めて。
― 「ユーロスペース」や「シネセゾン渋谷」「シネマライズ」などミニシアター系と呼ばれる映画館ができ始め、ミニシアターブームが始まったのもこの頃からですね。
井上 : そうやって若い子たちが集まるようになって、独自の個性的なブランドが渋谷の活性化に繋がっていったわけです。つまり、渋谷を世界的に有名な街にしてくれたのは何を隠そう、若者たちなの。
渋谷の先人達には「これでいいや」っていう人が少なかったんだと思う。「今のままじゃダメだ!」っていつも何かを求める人がいて、新しい空気を生み出す循環があったから、変化し続ける街になったんじゃないかと思ってるんです。
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