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「自分で考える能力」を試される!
― 無人島での生活が描かれた今作は、制作チームが見つけた関東近郊の、原作の絵に非常によく似たロケーションの中で撮影が行われたそうですね。磯村さんは、撮影前から現場に建てられたコンテナハウスに泊まり込み、役作りを行っていたとお聞きしました。
磯村 : はい。現実から切り離されたような場所で、コンテナの中で暮らすというのはどういうものなんだろう、と思って、実際に泊まり込んでみたんです。電気もガスも通っていない、真っ暗なコンテナの中で過ごしたんですけれど、コンディションがとにかく最悪でした…。大雨で、風も強くて。
― 映画では無人島で共同生活を送るのは三人ですが、その時は磯村さんたった一人だったのでしょうか?
磯村 : そうなんです。三人だともう少し安心して過ごせるんでしょうけど、一人だけだったので、サバイバルしている感覚でした。なにか、ちょっと別の撮影をしてるような気分になってきて。
― サバイバル番組のような…。
磯村 : はい(笑)。実際にひとりでコンテナに泊まり込んでみると、最初は心が狭くなっていく感覚があって…。でも、人って不思議なもので、数時間経つと、その状況にも慣れてくるんです。もちろん、怖いんですけどね。動物とか来るんじゃないかって。
宇野 : 夜は、鳴き声とか聞こえたんじゃないの?
磯村 : 雨と風の音が強すぎて、周りの音がほとんど聞こえなかったんです。近くにオオカミが来たらどうしようとか、そういう恐怖心もありましたけど、それも最後には楽しいなと思うようになっていましたね。
― 今作の撮影も、真夏の炎天下や雨によるスケジュール変更など、過酷な状況下が続いたとお聞きしています。体力的にも精神的にも消耗する撮影だと、やはり役に向き合う心情にも変化があるものなのでしょうか?
宇野 : 僕は、案外どこにいても人はそんなに変わらないというか、結局、人間を演じるという意味では同じなのかなと思いました。それは、不思議な感覚でしたね。環境の影響というのも多少はあったと思うんですけど。それよりも、この映画の話として大きいのは、やっぱり孤島に「三人いる」ということなのかなと。
磯村 : そうですね。
― 「ニコニコ人生センター」という宗教的な団体に所属し、「孤島のプログラム」と呼ばれる修行のような共同生活を送っていた三人の関係は、ある日、外部から数名の侵入者がやってきたことをきっかけに、少しずつ崩壊していきます。
― 閉ざされた世界の中で、秘密を作る、結託するなど、三人の構図が次第に変化し、人の欲望や本質が炙り出されていく様は、人間関係の縮図のようにも見えました。
宇野 : これが、一人とか二人だったら、そんなに問題でもないように思うんです。もしかしたら、また別の問題が出てくるかもしれないけど。でも、男性二人に女性一人という組み合わせの三人であることが、この話の肝になっていますよね。
― 三人は、本名を捨て、「議長」「副議長」「オペレーター」という仮の名前で呼び合い、職業や年齢、家族構成なども登場しません。磯村さんと宇野さんは、作品によって佇まいがガラッと変わるほど、毎回役に憑依している印象がありますが、いわゆる社会的な属性のない人物を演じた今作では、どのように役に入っていったのでしょうか?
磯村 : 三人とも、正体を明かさずに共同生活しているという話だったので、役の周りをかためることに関しては自由にといいますか、今回は特に意識しなかったですね。
「オペレーター」という僕の役に関しても、「自分の中で考えを固める」というよりは、宇野さん、北村さんと三人で揃った時のビシッとくる感じ…感覚の話になってしまいますけれど、その空気感を大切にしようと思っていました。
宇野 : 普段生きてても、人のことってわからないですからね。自分のことですら、わからないですし(笑)。僕も、台本を読んで、磯村くんや北村さんと一緒に、その場の空気を大事にしながら演じていきたいと思いました。
磯村 : どれだけ彼らがピュアに「ニコニコ人生センター」と、この「孤島のプログラム」のことを信じて過ごしているのか、ということがひとつ大事だったのかなという気がします。
― 彼らが持つその信仰心、「信じる気持ちの強さ」が、役に入り込むひとつの手がかりだったのですね。
磯村 : 原作コミックもそうですし、この映画の終わり方もそうですけど、おそらく原作者の山本直樹さんは、「自分で考えなさい」ということを提示されているのかなと僕は思いました。
― 考えなさい、ですか。
磯村 : 答えは様々だし、それを求めてはいけないと。「思考能力を持て」と言われているような気もするし、そういう力がもらえるように思うんです。それが、この作品のすべてに込められた想いにもなってるのかなって。
僕たちの役も「信仰をしている」という段階からスタートします。想像する余白みたいなものを、ちゃんと残してある作品だからこそ、脚本を読んで現場に入るだけで、何かを信じる気持ちというものが自分の中に自然と芽生えていた気がしました。
― 原作コミックの『ビリーバーズ』は、漫画家の山本直樹さんが、80年代から90年代にかけて社会問題として顕在化した、カルト的な宗教団体をモチーフに描いた作品です。
― 確かに原作でも今作でも、登場人物の役の背景や、どういう経緯から三人は強い信仰心を持つようになったのか、ということも説明されていませんね。
宇野 : どこまでが嘘でどこからが本当かわからない、というのがありますよね。曖昧なことが多くて、その境界がわからないから、面白いのかなと。僕らがどうして生きているのか、がわからないのと同じだと思うんです。…いや、ちょっと話が大きくなりすぎたかな(笑)。
彼らの修行の中で「夜に見た夢の内容をお互いに報告し合う」という習慣がありましたね。夢と現実、真実と虚構、あらゆる境界が曖昧に描かれているからこそ、観ている方も思考能力を常に刺激されます。
磯村 : どこまでが夢でどこからが現実なのか、という判断も、観る人によっていろいろな解釈が出てくると思うんです。もしかしたら、この三人の生活そのものが…と考える人もいるかもしれないし。
宇野 : うんうん。
今もずっと揺らいでいる
― 今作では、純粋に信じていたものが、ある出来事をきっかけに揺らぎ、そこから変化していく三人の姿が描かれていました。お二人も、自分の信じていたことが何かのきっかけで揺らぎ、それによって全く違う世界が見えてきた、という経験はありますか?
磯村 : …芸能界とかそうじゃないですか(笑)。
宇野 : (笑)
磯村 : わかりやすく言うと。デビューする前の、俳優を目指してた頃のイメージは、すごく華やかで明るくて、好きな芝居ができて楽しい場所だと思っていたけれど、実際に入ってみると、華やかさだけではない部分も次第に見えてきて。
裏にある努力であったり、1シーンを撮るのにも、たくさんの人の労力と時間がかかっていたり。揺らぐ、というのとは違うかもしれないですけど。徐々に知っていった、ということなんですかね。この世界、大変だな…と。
― キラキラとした表層部分だけではなく、その裏にある現実的な側面も見えてきたのですね。それを知っていく過程で、デビュー前から抱いていた想いに、揺らぎや迷いのようなものは生まれましたか?
磯村 : 生まれましたよ。今もずっと揺らいでいます(笑)。だからこそ、そういう世界の中でも、信じられる人を見つけていく、ということを僕はしているんだと思います。
― 宇野さんは、信じていたことが揺らいだ経験、ありますか?
宇野 : 信じていたものが揺らぐ…なんだろうな。難しいですけど…。(しばらく考え込んで)人の死ですかね。
磯村 : あぁ。
宇野 : 人は死ぬと思わなかった、という揺らぎというか。
磯村 : うん…。
宇野 : おじいちゃんだったりおばあちゃんだったり。友人みたいに近い人が亡くなったりすると、いまだに思いますよね。人はいなくなるんだ、って。俳優の方でもそうですけど、スクリーンでずっと観ていた方が亡くなられた時とか。
― 自分にとって大切な人がいなくなると、世界が一変して見えますよね。
宇野 : うん、そうですね。でも、この映画にも通じるように思うのですが、現実ではもう会えなくても、記憶には残るんですよね。
― 原作コミックの『ビリーバーズ』は発売から22年の時が経ち、初の映画化となりましたが、人々が社会に対して抱える不安など、現在を生きる私たちにも響いてくるテーマが多く含まれているように感じました。
磯村 : 『ビリーバーズ』が、時代を超えて映画として公開されるタイミングで、新型コロナウイルスの影響があったり戦争が起こったりしています。そう考えると、確かに、山本直樹さんが予言していたようにも感じますよね。
一方で、実際はただ繰り返されているだけなのかな、とも僕は思っていて。
宇野 : 戦争も、実際はずっと続いているしね。
磯村 : はい。この作品も、とあるカルト的な宗教団体をモチーフにしている、とは言われているんですけれど、そうした事件や問題は、それぞれの時代にずっと繰り返されていることだと思うんです。形が違うだけで。
この映画が公開されて、一度そういう状態がリセットされるというか。「いい方向に行こうよ」と次のステージに向かうことができるような作品なんじゃないかな、と思いました。
宇野 : 僕はこの映画の、磯村くんが演じたオペレーターさんのラストシーンが好きなんです。
宇野 : いろんなことを重ねていった結果の、あのラストシーンなんですけど…あんまり詳しく言うとネタバレになっちゃうか…(笑)。
磯村 : そこは、確かにそうですね…!
宇野 : でも、すごく好きで…。でも、やっぱり言えないな…(笑)。確かに、22年前の作品と考えるとすごいですよね。
― 言える範囲で構わないのですが、宇野さんの中にラストシーンがどういう余韻として残っているんでしょう?
宇野 : なんだか、ラブレターのように僕は感じたんです。言葉にしてしまうと急につまらなくなるような気がするので、観てくださった方々、それぞれの想像にお任せします。
どこまでが本当でどこからが嘘なのか、夢と現実とか、そういう境界がどうでもいいんじゃないかと思えるような、ラストシーンに感じましたね。
磯村勇斗、宇野祥平の「心の一本」の映画
― ここからは、好きな映画について聞かせてください。お二人とも学生時代は、演劇専修や放送映画科のある学校に通われていて、その時代から現在まで、たくさんの映画を観ていらっしゃると思います。今作の撮影現場の合間などに、好きな映画の話をする機会などはありましたか?
磯村 : いや、なかったですよね。
宇野 : 全然なかったね。
磯村 : 撮影現場で、映画のタイトルが話題にあがったことはあるかもしれないけれど、その映画について詳しく話すという機会までは。
宇野 : でも、なんかそういうのを話さなくてもね。何となくわかるんです。
― 感覚的に同じものを持っていると?
磯村 : 同じ親から生まれてきたのかな? っていうくらい(笑)。
宇野 : そうそう。顔もほら、そっくりだしね。…みなさんすごい笑ってるじゃないですか(笑)。でも、世代もこんなに離れてるけど、なんか合うんです。
― お二人が、この映画に描かれていることは信じようと思える、あるいは、いつ観ても同じように安心できる、というような作品がありましたら教えてください。
宇野 : なんだろうなー。
磯村 : 映画には嘘がないというか、信じられる気はするんですよね…なんだろうなぁ。黒澤明監督の映画が僕は好きなんですけど、その中でも『生きる』(1952)ですかね。
― 『生きる』は、胃癌により自分の余命がわずかだと知った主人公が、自身の人生を振りかえり、生きる意味を追い求めていく普遍的な物語で、黒澤監督の代表作のひとつですね。磯村さんは、以前のインタビューでも、「小津(安二郎)監督や黒澤監督の作品を観ることで、自分の知らない時代に接することができる」とおっしゃっていましたね。
磯村 : はい。今の時代でも、これから先の時代でも、同じように生きる力をもらえる映画だなと感じています。人の生きる強さ、みたいな精神的な部分です。同じ人間なので、みんなもそうだし、自分にもそういう力があるんだなと思えるといいますか。
宇野 : うん。
― 磯村さんにとって、人の生きる力、その強さを信じることができる作品なんですね。
磯村 : はい。多分どのタイミングで観ても、信じられる映画だなと思います。…信じる、というのは難しいことだなと思いますけど、人の強さを信じられる映画だなと。
― 宇野さんは、いかがですか?
宇野 : 映画ファンなので、映画は信じたいものです。たくさん好きな映画はありますが、森﨑東監督の映画が好きです。
― 森﨑東監督は、『喜劇 女は度胸』(1969)でデビューされてから、『男はつらいよ フーテンの寅』(1970)をはじめ、多くの喜劇の名作を撮り続けた方ですね。社会の片隅で懸命に生きる、“庶民の記憶”を映画に刻み続けてきた監督でもあります。
宇野 : はい。どの作品も素晴らしく選ぶのが難しいですが、堺正章さん主演の『街の灯』(1974)という作品があるんですけど、これはもう傑作です。チンピラの青年と、ブラジル帰りの老人、記憶をなくした少女、という境遇が全く異なる三人の、東京から九州までの珍道中を描いた物語で。なんでかわからないのですが、毎回感動するんです。
森﨑東監督の映画は、何度観ても自分をひっくり返される思いがします。観れる機会は少ないかもしれませんが、ぜひスクリーンで観ていただきたいです。