映画でも漫画でも、ひとがひとを殴る場面はたくさん見てきた。若い頃には実際に殴られたこともあったけれど、自分で誰かを殴ったことはないまま三十代半ばまで生きてきた。だから、殴る、という衝動的な行動とそのあとにくる余韻は想像するほかないが、殴られたあとの余韻はなんとなくわかる。そこにはたぶんなんの音もない。無音、静かだ。
ひとを殴ったことのあるひと。過去に一度だけ、というひともいれば、それを自分の怒る方法とし続けているひともいるだろう。ボクシングはルールのあるスポーツなので、けんかや暴力とは分けて語られる。が、拳をなるべく強く、効果的に、相手の顔や体に向けて打つ瞬間、けんかのそれとどういう意志の差があるのか、経験のない私にはうまく想像できない。
『キッズ・リターン』のマーちゃんとシンジが通っていた高校はたぶん男子校で、不良も多い。ふたりも授業をさぼって喫茶店に行ったり、街でカツアゲをしたりしていた。学校に来たら来たで、屋上で煙草を吸ったり、自転車に二人乗りして校庭を走ったりしている。と書けば、がちゃがちゃした感じのふたりを取り巻く映画のなかの音は、しかし全編にわたってとても静かだ。殴られたあとみたいに。あるいはもしかしたら、誰かを殴ったあとみたいに。
学校には校庭がある。『キッズ・リターン』の学校の校庭はいつも無人だ。体育の授業でもしていれば、窓を閉めていてもその声は教室のなかに届くけれど、校庭に誰もいなければ窓の外には無人の広い空間がある。窓の外に広い静けさがある学校の静かさは独特だ。
不良はしばしば目立ちたがりで、教室の窓から見える校庭は、彼らのための舞台にもなる。校庭の物音に気づいた生徒のひとりが、教師の声と黒板から目を逸らして、窓の外をぼーっと眺める。そこにはシャドウボクシングをしながら走るマーちゃんと、自転車で伴走するシンジの姿がある。
マーちゃんがボクシングをはじめたのは、カツアゲした高校生が仕返しに連れてきたボクサーに殴られたからで、つまりけんかのためだ。結局マーちゃんはその後早々に挫折してヤクザになってしまうのだけれど。
私が通っていた中学校では、校庭と林のあいだの長い道をよく高校生が爆音を鳴らしながらバイクで通り過ぎていった。三年のときに隣の席だった友達は小学一年のときから一緒で、中学にあがるとそいつは不良になった。学校にはわりと来ていたが、しばしば途中でいなくなる。と、突然激しい非常ベルが鳴る。三年のときは、授業中毎日のように非常ベルが鳴った。もはや誰も驚かず、お、まただな、と思いながら授業は続けられ、少しすると満足げな顔つきの友達が教室に戻ってきて、私の隣の席に座った。おかえり、ただいま、と言葉を交わす。中学の卒業式のあと、彼が私の家に来て部屋で話したのを覚えているのだが、何をしに来たのか、何の話をしたのだか思い出せない。九年間同じ学校に通った、その日が最後の日だったことになる。
高校で別々になってからはほとんど会うことはなくなったが、成人式の壇上で一升瓶を抱えている姿や、逮捕されたと噂を聞いて新聞で名前を見たりした。自分自身はヤンキー的な切った張ったとは縁がなかったが、小説家だってかたぎの商売ではないと思うし、高校以降の私の人生だって全然まともではなかった。だからなのか、未だに不良とはわりと親しくなる。みんな憎めないところがあって、善人かわからないが極悪人とは思えない。私が知り合うのは、隣の席にいた彼のように、半端な不良ばかりなのかもしれない。
彼が殴られた、とか、彼を殴った、という話は中学のときも、そのあとも、何度も聞いた。けれども彼が誰かを殴ったという話は聞いた覚えがない。彼が誰も殴らずに生きているとは正直考えにくい。でも私がそういう話を聞いたことがないのは本当だ。