目次
満ち足りた家族に訪れた
突然の息子の「喪失」
美しい妻パオラ、心優しい息子アンドレア、活発なスポーツ少女の娘イレーネと穏やかに暮らしている精神科医のジョバンニ。金銭的にも恵まれ、笑いが絶えない平和な家族の日常は、アンドレアの死を境にガラッと変わってしまいます。イタリアの名匠・ナンニ・モレッティが監督・脚本・主演を務め、第54回カンヌ国際映画祭パルムドールを受賞した『息子の部屋』は、家族の喪失と再生を静かに描いた傑作です。
本作の序盤に登場するのは、瀟洒なインテリアに囲まれ、笑顔を絶やさずに満ち足りた日々を送っているジョバンニと家族たち。ジョバンニの元を訪れる患者たちは誰もが生きづらさを抱えていますが、主治医であるジョバンニは常に冷静に彼らに向き合っています。
そんなある日、ジョバンニは息子が通う高校から呼び出しを受けます。アンドレアは友達と一緒に化石を盗んだ疑惑で罰せられますが、本人は否定。ジョバンニとパオラも真面目なアンドレアが盗難などするはずがないと息子を信じますが……。
そして運命の日。ジョバンニはアンドレアをジョギングに誘います。しかし、休日にも関わらず患者から「どうしても家まで来てほしい」という電話が。ジョバンニは断り切れず、仕方なく出かけることにします。そしてようやく帰宅できたと思った矢先、あまりにも辛い報告が待っていたのでした。
つい数時間前まで元気だった家族が、あっという間にいなくなってしまったという事実はあまりに惨く、パオラはベッドでひたすら泣き崩れ、イレーネは感情をコントロールできずにバスケの試合中に喧嘩騒ぎを起こしてしまいます。ジョバンニもこれまでのように冷静に患者に対応することができなくなります。
本作はジョバンニの視点から描かれており、観客はジョバンニの苦しみや後悔を共有するように設計されていますが、運命の日の後のスクリーンを支配しているのは、亡くなったアンドレアの「不在」に他なりません。画面のどこにもアンドレアは存在せず、彼がいないことが家の中の雰囲気を決定的に変えてしまっています。彩り豊かだった食卓の上は、どこか雑然として素気なくなり、家族が再び笑顔を取り戻す日など、永遠に来ないのではないかというほどの喪失感が彼らを覆います。
それでも、少しずつ日常を取り戻していくパオラとイレーネに対して、ジョバンニはいつまでも暗闇から抜け出せません。「もし、あの朝に電話がかかってこなければ……」「もし、あの日アンドレアと一緒にジョギングに出かけていれば……」と、運命の日の「if」ばかりを考えてしまうジョバンニは、息子の痕跡を求めて街を彷徨います。特に、レコード店で「息子の友達に渡すから」と嘘をついて息子が好きそうな曲をかけてもらうシーンは印象的です。店員がチョイスしたのはブライアン・イーノの『By This River』。ひとつの場所に留まったまま動かずにいる「君」と「僕」の様子を詩的に歌ったこの曲は、喪失の苦しみに立ち止まったままのジョバンニの状況とリンクし、アンドレアの「不在」が、暗闇の中に立つジョバンニを包み込んでいるかのように聴こえます。
しかし、最終的にジョバンニは前を見て歩き出すことになります。そのきっかけもまた、アンドレアでした。家族の喪失を支配していたのはアンドレアの「不在」でしたが、家族の再生を促したのは、不意に外の世界からもたらされた、家族にとって「未知」であったアンドレアの姿です。
家族の「再生」を促した
未知の息子の姿
突然ですが、以前Twitterで「葬儀の受付にノートを置いておくといい」というお坊さんのアドバイスを見かけたことがあります。弔問に訪れる人に故人について自由に書いてもらうことで、大切な人が外ではどんな人間だったのかを知ることができるから、というのが理由でした。誰もが家庭の顔、職場の顔、友人間の顔と、少しずつ違う顔を持っています。関り合った人の数だけ故人に対する印象や想い出は違うはずで、それを知ることは残された家族にとって新たな発見になるでしょう。Tweet内のイラストに添えられていた「人は、人との関わり合いを感じることで、心が安らぎます」という一文がとても印象に残っています。
家族にとって「未知」のアンドレアを教えてくれたのが誰だったのかは、実際に映画を観ていただきたいのですが、物静かで真面目でお父さん子のアンドレアとは少し違う、まだ出会ったことがないアンドレアの姿をジョバンニは知ることになります。その人物が見せてくれたアンドレアの写真を見たジョバンニの微笑は、まさに「人は、人との関わり合いを感じることで、心が安らぎます」を体現していると私は感じました。もう息子はいないけれど、他の人物と息子との関わりを知ることで、息子が生きていたという実感を取り戻したともいえるかもしれません。
本作の序盤で「アンドレアが化石を盗んだりするはずがない」と信じて疑わなかったジョバンニは、自分が知らないアンドレアの姿に思いを馳せることができませんでした。しかし死後1カ月が経ってようやく、「未知」の息子を知り受け入れることができたのです。
家族に「未知」のアンドレアを教えてくれた人物の時間は、確実に前に進んでいました。そのことを目の当たりにすることで、ジョバンニたちもようやく家族3人で笑いあうことができるようになります。
アンドレアの「不在」が支配する喪失と、「未知」のアンドレアがもたらしてくれた再生のきっかけ。物語の途中で退場するアンドレアの存在を通して、本作は家族の喪失と再生を雄弁に語っています。人間は誰かの記憶の中にずっと生き続けることができる、とはよく聞く言葉ですが、自分が知っていたのとは違う故人の姿を知ることは、故人との新たな出会いだともいえるのではないでしょうか。生きていく上で避けられない別れと喪失に耐えられなくなったとき、「人は、人との関わり合いを感じることで、心が安らぎます」という言葉と本作を思い出し、大切な人の「未知」の姿に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
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