名前のない世界のこと
今日は病院に行って、シビレの治らない右肩を見てもらいました。時々、ビリビリッと電気が通ったみたいになるのです。先生に症状を伝えようとしたら、“電気”という言葉が思い出せなくて「ほら、ビリビリするあれですよ」なんて何度も言って、先生を困らせてしまいました。この間は“石鹸”という言葉をぽっかり忘れてしまいました。白くて、泡がいっぱい立って、体を洗うときに使うもの……何だっけ? 最近はこんな調子で、どんどんものの名前を忘れていくみたい。
帰りのバスの中で、ふと「名前のついてないものって世界にどのくらいあるのかしら」と考えました。あれは“雲”、あれは“夕日”、あれは“川”、あれは“橋”……窓から外を眺めながら、私は世界にはあふれるほどの言葉があるということに驚きました。これは“手”、これは“鉛筆”、これは“コップ”、これは“風”の音、これは“雨”の音……。周りを見渡してみても、ほら、名前のないものを探す方が難しいでしょう。私にだってちゃんと“ミジャ”という名前があります。もちろん、あなたにも。
そう考えると、あらゆるものにはもう名前がついていて(誰か名づけた人がいるんでしょうね)、私たちはその言葉の海の中に生まれてきたのね。すごいことだと思いませんか? いちばん最初、まだ私が赤ん坊のころ、そこは名前のない世界だった。でも、手を伸ばして触れたりしながら「これ」が何かを理解していったのね。この優しいのは“お母さん”、この安心するのは“お父さん”、この柔らかくていい匂いのするのは“お花”、このふかふかですり寄ってくるのは“猫”……。そんなふうに、生まれてこの方(六十六年が経ちます!)沢山のものを見て、その名前を覚えてきたんです。これから私はそれらをまた一つひとつ忘れていくのでしょう。まるで両掌から水がすべり落ちて、大きな海に戻っていくみたいに。名前のない世界に戻っていくってどんな気分かしらね。
いま、私はこうしてあなたに手紙を書いています。私がこれまでに出会った言葉(そして幸運にもまだ覚えている言葉)を使って。言葉があるというのはありがたいこと。だって、一冊の本を読んだら「私もそう思う」って共感したり、好きな箇所をあなたと語り合ったりできるし、最近こんなことがあってこんなことを思いましたよって伝えられますから。きっと、私たちはお互いのことをわかり合いたい生き物なのですね。それではまた、手紙を書きますね。
(6月5日)
まだ知らないりんご
暑い日が続きますね。元気に過ごしていますか? 私はあいかわらず元気にやっています。介護のアルバイトも続けています。会長のいる三階の部屋まで階段で上がるのはなかなかいい運動になります。
そうそう、あなたにお知らせがあります。最近、詩の市民講座に通い始めたのです。健忘症の私が詩を習うのはおかしいですか? でも、とてもいい先生なんです。あなただって一度会えば、きっと詩を書いてみたくなるはず。
今日は先生がポケットからりんごをひょいと取り出して、「みなさんは、これまでにりんごを何回見たことがありますか?」と私たちに質問しました。りんごなんていつも八百屋で見かけるし、千回も万回も見ていると言うと、先生はこんなことを言うのです。「いいえ。一度も見ていません。私たちはりんごを知っていると思っている。でも本当はまだ知らないのです」。
その夜、私は自分の部屋の真ん中に立ってぐるりと眺めてみました。台所の流し、冷蔵庫、テーブル、その上のりんご。どれも見慣れたものばかりですが、それらをまるで初めて目にするつもりで見てみました。ここはまだ名前のない世界です。私の目の前に、赤くて、丸いものがあります。触れるとひんやりと冷たい。“それ”にいろいろ質問してみます。「いまどんな気分?」「ここに来る前はどうしていたの?」(鼻を近づけてみる)「いい匂いですね」……うーん、なかなか返事は返ってきません。私は見ることをあきらめ、ナイフで剥いて一切れ食べました。と、口の中に甘くてみずみずしいものがいっぱいに広がりました。外から見ているだけではわからなかったことが、齧ってみて初めて深く理解できたような感じがしました。ムシャムシャムシャ。りんごは見るより食べる方がいいです。
追伸:孫のジョンウクは元気ですよ。でも反抗期なのかしら、だいたいテレビを見ているか、部屋に閉じこもってます。私が話しかけても、こちらも“りんご”並みに返事が返ってきません。脱ぎっぱなし、食べっぱなし。中学生とはいっても、まだ子供なのね。相変わらず小さな王様みたいです。
(7月20日)
アグネスのこと
川が流れています。黒くて深い川です。
そこにゆっくりと一人の少女が流れてきます。うつぶせで髪もスカートも水に浮かんでいて表情は見えません。声も聞こえません。ただ静かに水の上にいつまでも浮いています。今朝はこんな夢を見て目が覚めました。
つい最近のことですが、橋の上から川に身を投げて命を絶った女の子がいました。孫のジョンウクと同じ学年の子です。誰にも何も言わず、手紙も残さずに、真っ暗な川に飛び降りたのです。
女の子の名前はアグネスといいます。
彼女の日記から、同級生の男の子たちに性的暴力を受けていたことが分かりました。そこには、ジョンウクの名前もありました。
ああ、アグネス。一体あなたはどんな気持ちでその橋まで一人で歩いて行ったのでしょう? 橋の欄干に足をかけたとき、どんな風景を思い出していたのでしょう?
好きな人はいたのでしょうか。将来の夢は何だったのでしょうか。……いくら質問をしても答えは返ってきません。
私は、アグネスの立っていた場所から世界を見ようと思います。彼女の立っていた場所へ行き、そこから何を見て何を感じていたのか、耳をすませようと思います。もしも、かすかな声が聞こえてきたら、その後ろをついて行くつもりです。その声が私をどこへ連れていくのかわからないまま。
(8月20日)
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最近、『ポエトリー/アグネスの詩』という映画を観た。とても不思議な作品で、冒頭シーンから私の心の深いところに真っ直ぐに入って来て、いつまでもそこにとどまった。この魅力は何だろう?と思って繰り返し観たのだけれど、観れば観るほど奥の方で溶け合ってしまい、上手く言葉にならなくなってしまった。
何が心をつかんで離さないのかというと、たぶん主人公のヤン・ミジャさんがやろうとしていることが、私がずっと「難しい」と思ってきたことだからかもしれない。それは、たとえばこんなこと。
聞こえない声に耳をすますこと。見えないものを想像してみること。「わかりきっている」と思っていたものを新鮮な気持ちで見直すこと。自分以外の誰かのことを我がことのように想うこと。
映画の最後に、彼女は亡くなった女の子の気持ちに寄り添おうとして「アグネスの詩(うた)」という一片の詩を書く。それは女の子と自分自身がまじり合った手紙のような、祈りのような詩だった。ミジャさんがアグネスになって世界を見ようとしたように、私もミジャさんになって手紙を書くことで、少しでも自分以外の誰かの心の声に耳をすますことができたらと思った。
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