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「昔の映画」だからこそ、救われることがある
一時期、あまりうまく眠れなくなってしまったことがあります。
夜中の2時、一人ぼっちの東京。その日は、新卒で就職した会社を辞めるかどうか悩んでいて、適応障害の診断を受ける寸前でした。
眠ろうとしても、目を閉じると頭の中には色々な悩みや考えがぐるぐるとしてしまいます。思考はどんどん飛躍していって「今この世界で、こんなに孤独なのは私だけじゃないだろうか」と絶望し、さらに眠りは遠ざかっていきます。
そんな時には、現実世界とリンクするようなテレビやSNSを見るのもしんどくなるもの。現実世界から私を引き剥がしてくれる娯楽で、気を紛らわせたい……と思い観たのが、映画『雨に唄えば(原題:Singin’ in the Rain)』(1952)でした。確か、その夜は雨が降っていたこともあり、選んだ記憶があります。
『雨に唄えば』は、1953年に公開されたMGM(※)ミュージカル黄金期の金字塔的作品。サイレントからトーキーに移行しはじめた時代のハリウッドを舞台に、人気スターのドン(ジーン・ケリー)とリナ( ジーン・ヘイゲン)、そして駆け出し女優キャシーの三角関係と、ショービジネスの裏側を描いた物語です。2006年にアメリカ映画協会が発表した「ミュージカル映画ベスト」(AFI’s Greatest Movie Musicals)の第1位に輝くなど、映画史に残る名作として知られています。
※「メトロ・ゴールドウィン・メイヤー・スタジオ」(Metro-Goldwyn-Mayer Studios Inc.)。アメリカの老舗映画制作・配給会社のひとつ。
数年前に大学の授業で観たことがあったのですが、正直あまり内容を覚えていなかったので、「寝落ちできればいいな」という半分邪な気持ちで観始めました。
しかし、作品が始まるやいなや、私は画面に釘付けになりました。当時のミュージカル映画は当然のことながら、CGなどは使われておらず、華やかなセットと俳優の一発撮りのダンスが光ります。監督・主演を務めたジーン・ケリーをはじめとする、当時のトップ俳優たちが繰り広げるダンスや歌は「圧巻」の一言では表現しきれないほど。
特にコズモ(ドナルド・オコーナー)が仕事や恋愛に悩んでいる主人公ドンを励ます『Make ‘em Laugh』の曲には思わず顔が綻びます。みんなは笑いを欲しがっている、役者たるもの、ただ人々を笑わせるんだ! と歌いながらスタジオ中を飛んだり跳ねたり。マネキンや壁、ソファなどの舞台セットを駆使して一発撮りとは思えない身体能力を発揮しながら陽気に歌うシーンに笑顔になります。それと同時に、純粋な「人々を笑わせる」という使命を持った彼らに自分自身の姿を重ねたのでした。「自分自身は本来、何をすべきなのだろう?」「最近の私は身近にいる大事な人を笑顔にできていただろうか?」と。
やはり当時の映画は、美術セットにかけるお金もスタッフの数も相当なもの。これだけの作品を作り上げる情熱とその努力には脱帽です。「人を元気づけること」「人を笑顔にさせること」。これこそがエンターテインメントなのだ、と映画の真髄を知ったようでした。
『雨に唄えば』は約70年前の映画なので、主演のジーン・ケリーはもちろん、出演者やスタッフはほぼもうこの世にいない人々です。さらに、公開当時に映画館を訪れた人々もほぼ亡くなっているであろう今ーー。映画という娯楽が生まれて100年以上経ってもあまり変わることなく、21世紀を生きる私たちも同じようにその文化を楽しめているという事実に、そして未だに人の心を揺さぶる力を持っているという事実に、映画の持つ無限大のパワーを感じざるを得ませんでした。
そして、そんな当時の人々が作り出したこの大作を夜中に観ていると、自分が会社の中で感じていた悩みもちっぽけに思えてきて、押し潰されそうだった自分の心がふっと軽くなるのを感じました。今はこの世にいない彼らの歌声が誰よりも私の心に寄り添ってくれて、「彼らがいるから大丈夫。この世界で自分は一人じゃないんだ」と、心強く感じすらしたのです。
遠い過去に作られた、遠い世界の、架空のファンタジー。そして、その中で繰り広げられる華々しいショー。当時、会社という小さな世界で悩んでいた私の状況を、今は亡き人々の情熱と昔のハリウッド映画という全く異なる世界の力が打ち破ってくれたのです。
映画を観た数日後に私は体調が悪化し、会社を辞めることになりますが、あの雨の夜に、私を孤独から救ってくれたのは、確かに『雨に唄えば』でした。
映画は「現実逃避の一つの方法」とも言われます。それでもいいと思うのです。
辛い時にあなたを救ってくれるのは、友人や家族などの身近な人でもなく、現実世界とは遠く離れた、ある一本の古い映画かもしれません。映画にはそんな不思議な力があると信じています。
- 介護の中、夢を捨てずにいられたのは、あいつの「ただいま」が希望に向かわせてくれたから。映画『大脱走』
- 眠れない夜に私を救ってくれたのは、70年前の名作ミュージカル映画だった 『雨に唄えば』
- ままならない家族への感情……それでも確かに愛してる。『シング・ストリート 未来へのうた』で描く私の夢
- 嘘の中の紛れもない「リアル」。 いつまでも彼の踊る姿を観たいと思った 『リトル・ダンサー』
- 「どんな自分も愛してあげよう」 肩の力を抜くことができた『HOMESTAY(ホームステイ)』
- 映画って、こんなに自由でいいんだ。そんなことを気づかせてくれた『はなればなれに』
- 日々の選択を、愛ある方へ。自分を大切にするための映画『パパが遺した物語』
- 大丈夫。あなたが私を忘れても、私があなたを思い出すから 『43年後のアイ・ラブ・ユー』
- どうしたら色気を醸し出せるのか!?核心を隠すことで見えてくる、エロティックな世界『江戸川乱歩の陰獣』
- 幸せになるには、まず「幸せに気づく」こと。こんな2020年を希望にかえて締めくくる『食堂かたつむり』
- 仕事も休めばいい、恋もなんとだってなる。人生の舵は、自分が握っているのだ『嗤う分身』
- 号泣したワンシーンが、思いを届けるきっかけになる『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』
- 「私の人生、まんざらでもないのかも」見過ごしていた“当たり前”に魔法がかかる『顔たち、ところどころ』
- 東京という大きな「生き物」が、 人生の岐路に立つ人を静かにつつんでくれる『珈琲時光』
- 狂気を殺さない!愛してみる。生きていく『逆噴射家族』
- 動き出さない夜を積み重ねて、たどり着く場所がきっとある『ナイト・オン・ザ・プラネット』
- 時代の寵児バンクシーの喜怒哀楽や煩悶を追体験!?観賞後スカッとするかしないかは自分次第… 『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』
- 「帰省」を疑似体験。離れて暮らす父親の素っ気なくも確かな愛情『息子』
- 90分でパリの100年を駆け抜ける!物足りない“現在”を笑って肯定しよう!!『ミッドナイト・イン・パリ』
- 映画の物語よりも、そこに流れる「時間」に没入する 『ビフォア・サンセット』
- 慣れない「新しい生活」のなかでも、人生に思いきり「イエス!」と言おう!『イエスマン “YES”は人生のパスワード』
- 夢や希望、生きる意味を見失った時、再び立ち上がる力をくれた映画『ライムライト』
- 人の目ばかり気にする日々にさようなら。ありのままの自分が歩む、第二の人生。 『キッズ・リターン』
- 人に嫌われるのが怖くて、自分を隠してしまうことがあるけれど。素直になりたい『トランスアメリカ』
- 成功は、競争に勝つことではない。 「今を楽しむ」ことを、教えてくれた映画『きっと、うまくいく』
- それぞれの場所で頑張る人たちへ 「声をあげよう」と伝えたい。その声が、社会を変える力につながるから『わたしは、ダニエル・ブレイク』
- 僕が笑うのは、君を守るため。 笑顔はお守りになることを知った映画『君を忘れない』
- 心に留めておきたい、母との時間 『それでも恋するバルセロナ』
- 「今振り返っても、社会人生活で一番辛い日々でした」あのときの僕に“楽園”の見つけ方を教えてくれた映画『ザ・ビーチ』
- “今すぐ”でなくていい。 “いつか”「ここじゃないどこか」へ行くときのために。 『ゴーストワールド』
- 極上のお酒を求めて街歩き。まだ知らなかった魅惑の世界へ導いてくれた『夜は短し歩けよ乙女』
- マイナスの感情を含む挑戦のその先には、良い事が待っている。『舟を編む』
- 不安になるたび、傷つくたび 逃げ込んだ映画の中のパリ。 『猫が行方不明』
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