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私が私を奮い立たせる
私に圧倒的に足りていない、動物的な衝動に殴られるような鋭さを味わい、しばらく放心状態になった。
こうなりたいとは思わないけれど、私は「生き足りてない」と、虚しくなった。私も、カナの恋人であるハヤシのように逃げてばっかりだ。近しい人とぶつかることは怖くて、相手の本音に深く切り込みたいのに傷つけたくなくて、傷つきたくなくて、なんとなくおさまりのいい話で着地させてしまう。怒ることに力を使えなくなってしまった。違和感を感じても、流してしまう方が楽だと思うようになってしまった。
生きづらいだろうけれど、四苦八苦しながら怒りを爆発させている人を見ると、チャーミングだなあって大好きになる。だから、私はカナが大好きだ。医学的な側面から見れば、彼女の抱えるものをカワイイなんて言葉で簡単に片付けてはいけないけれど、私が映画を観終えていちばんに思ったことは、カナへの愛しさだった。
『あみこ』やオムニバス映画『21世紀の女の子』の『回転てん子とどりーむ母ちゃん』など作品数はかぎられているが、その自由でパワフルな描写で大きなインパクトを残している山中瑶子監督の長編映画第一作である『ナミビアの砂漠』。第77回カンヌ国際映画祭 国際映画批評家連盟賞を受賞し、彼女の才能と存在は世界も魅了した。
主人公・カナは、美容脱毛サロンで働く21歳。やり場のない感情を持て余したまま、決まった仕事をこなし、優しいけれど退屈な恋人・ホンダと同棲生活を送っていた。尽くしてくれると、逆に存在がぞんざいになっていくのかもしれない。ホンダとの関係が退屈になってきたカナは、自信家の映像クリエイター・ハヤシに乗り換えて、新生活をはじめる。鼻にはピアスを開けて、彼氏は自分が描いたイルカのタトゥーを身体にきざんで、刺激的な毎日がはじまるはずだった。しかし、少しずつカナとハヤシの歯車が噛み合わなくなり、退屈する世の中と自分に追い詰められていく。
映画を観終えてしばらく、カナは私の心に棲み着いた。冒頭でも書いたが、こうなりたいとは思わないけれど、無性に惹かれる。カナのように生きることは面倒で、うまくいかないことのほうがきっと多い。他人に怒るのは体力がいるし、私は話すのが上手ではないからうまく言い返す自信がない。しかし、心ないひと言をハハって受け流したり、自分が我慢すれば大丈夫と思ってしまったり、感情を殺すたびにカナのハヤシとの取っ組み合いを思い出した。なに諦めてんだよ、自分って思う。何度も何度も、思ってきた。
この映画は、連載のテーマである女同士の共闘みたいなものは主軸に描かれていないけれど、どうしても書きたかった。私にとって、闘うときの在り方、みたいなものが描かれている気がしたからだ。しかし、私は何故こんなにも惹かれるのか……原稿が止まったとき、編集長の小原さんから「羽佐田さんは“内なるカナ”と共闘したのではないでしょうか」と言われて、ものすごく腑に落ちた。
私の、内なるカナ。自分を大事に、目の前の相手に不満があればぶつかって、不器用だけれど素直な人。器用にそつなくこなして、円満に事を進めようとするのが今の私だけれど、小学校高学年くらいの私はカナみたいな時期があって、生徒に媚びへつらう先生が大嫌いで学級委員になって意見書を書いていたなと、ふと思い出した。許せないことに立ち向かっていたあの頃の私、すごくカッコよかった。
カナにとっても、内なる存在がいたのかもしれないと、小原さんと話した。映画の中でシーンは僅かだが、焚き火を囲んだ隣人の女性・遠山ひかり(唐田えりか)の存在が頭から離れないことを伝えると、「内なる隣人かもしれないですね」と言われ想像が膨らんだ。
偶然、森の中で隣人に出会い、声をかけられたカナ。「なんか大変そうだね」その言葉から、彼女はもしかしたらずっと、隣から聞こえてくる大きな音とカナに心配していたのかもしれないと思わされる。
カナと適切な距離を探りながら、伝えたかったことを吐き出す彼女。「大丈夫だよ」という言葉が、ものすごく力強かった。それは、すべてが理解できなくてもカナにとって確実にうれしいひと言であり、カナが見せたなんともいえない人間らしい表情にホッとした。彼女の心が解放されていることがよくわかったし、カナにとって「理解された」という感覚が何よりも必要だったのだと思う。カナにとって心安らげる存在で、彼女と「キャンプだホイ」というボーイスカウトでは定番の童謡を歌い舞う姿が、どこかの民族の祈りのダンスのように綺麗だった。
私が私を奮い立たせる。数十年後の私が私を見たときに、一生懸命生きててかっこいいじゃんって思ってもらえる存在でありたい。忘れかけていた大切な感情が呼び起こされて、大事なんだからとっておきなさいって、カナに言われたみたいだった。
きっとこれからも私自身は大きく変わらないし、声を上げることに足踏みしてしまうかもしれないけれど、この出会いが私のなかに棲み着いて、何度も思い出すことで、手放しそうになった何かを大事にできそうな気がする。