子供の頃なぜか水中都市に憧れていた。時間が止まり全てが水に封じられたように見える都市。この街がこのままずっと在って欲しいという人間の強い希望や欲望が美しく表現されたイメージだと思った。
映画『シェイプ・オブ・ウォーター』を観たとき、その憧れの水中世界をはじめて実写で見たような気がした。映画のはじまりの水に浸かったインテリアの映像に心が留まる。それはまるでゼリー越しに見る世界のようにも見えた。
物語は、アマゾンの川から無理矢理連れてこられた不思議な生きもの半魚人と女性が恋に落ちるラブロマンスかと思いきや、主人公は発話に障害のある白人女性で、親友は黒人女性とゲイの男性、おまけに上司は白人男性で嫌なヤツという関係性からも見て取れる強い政治的メッセージが含まれている上に、半魚人のモンスター性や野蛮性、それに伴うバイオレンスも容赦ない。主人公と親友の男性がいつも見ているテレビからは1930年〜40年代の様々なハリウッドミュージカル映画が流れていて、それらが指し示す意味合いも大きい。
あまりに多くの要素が詰め込まれた物語に収束はあるのだろうかと、観ているこちらもハラハラとするが、それらをうまく繋ぐものがこの映画にはある。水分だ。観ているうちに自分も頭から水を被ったような気分になるくらい、物語のところかしこに水分が登場する。あるときはバスタブに貯められたお湯で、あるときは倒されたコップからこぼれ落ちる水、あるときは卵を茹で沸かすお湯であり、あるときはドシャ振りの雨、そしてあるときは手のひらのお皿の上にのったゼリーのパイだったり。
ゼリーにはちょっとした保存機能があると考えている。フレッシュな果物は皮をむいて仕舞えば日持ちに期待はできないものだが、ゼリー生地で封じ冷やし固めることで少し長く楽しむことができるようになる。その一手間が、ただフルーツを食べるのとは違う、すこし新しい味わいをもたらしてくれるのだ。
映画に登場するゼリー「キーライムパイ」は、まるで海の底を切り取り、封じたようなブルーグリーンのゼリー生地をパイ生地に流し込み、上にふわりとクリームをのせたものだ。パクリと一口食べると、残りは冷蔵庫へ… 冷蔵庫を覗けば食べ残したキーライムパイが溢れている。そんなシーンから、キーライムパイは見た目に美しいがあまり美味しくはないことが伺える。なぜそれが美味しくない設定なのか考えてみたが、おそらく、みんなの悲しみを内包してしまっているから。人に理解されない悲しみ、誰にもわからない寂しさ、伝えられない不器用な愛情、マイノリティを排除しようとする社会、そんな現実をゼリーが捉え留めてしまったからなのかもしれない。
私たちは往々にしてゼリーにそれほどの美味しさを期待していない。それよりも、ゼリーが包み込む保存された小さな世界を見たくて、いつもとは違うフルーツや味の景色を見たくて手にするのだろう。
映画の中で、あまり美味しくないキーライムパイを何個も何個も買いに出かけてしまうのも、きっと悲しみに隣り合わせの美しさを眺めたいから。悲しみや苦しみを知った者だけが見つけられるこの世に残された美しい欠片を探し求めて、すべてを繋いで離さないあの弾力を求めて、おなかではなく、心を満たすために手にする。そしてゼリー越しの景色を手に入れたあとはまたその景色を自分の中にこっそりと保存するかのように口に運ぶのだ。