「人生はチョコレートの箱のようなもの」って、フォレスト・ガンプのお母さんは言った。開けてみなければわからない。食べてみなければわからない。そんなチョコレートの箱のようだと。
映画『フォレスト・ガンプ』を何回みただろう。はじめてみた中学生の時から数えて10回はくだらない。何回みてもいつも新しい発見があることに驚く。こんなシーンあったっけ? と気の利いた小道具や台詞にワクワクする。甘くも苦いピースがそこらかしこに、まるでチョコレートがばら撒かれたかのように散らばる。そのピースを拾いながら、衣装や景色や言葉の意味を考えてみ進める楽しさがこの作品にはある。
ついこの間みた時も新しく気づいたことがあった。オープニングで舞う一枚の羽をフォレストが拾い、そっと本の間に挟むシーン。そしてエンディングでは、同じ本のあいだから羽がスルリと落ちて、また風に舞い上る。その羽は「鳥になりたい」と願ったフォレストの妻、ジェニーの姿を投影したものだったのかもしれないと。
「死は人生の一部」という言葉もこの映画から教わった。私はこれまで無自覚に死を恐れていた。いや、今でもやっぱり死は怖い。自分の死を感じたり、たいせつな人の死を目の当たりにしたりすると、悲しみや恐怖に支配されそうになる。そんな時は、この言葉を頭に浮かべ、だれにでも訪れる死という運命を、楽しみに待ってやろうと、今をたいせつに生きなきゃと思う。そうこれは、私を宥める大切な言葉の一つ。
人生は選択の連続だ。毎日を無意識の選択の中で生きている。時には、意識的に大事な選択もする。仕事や人間関係だけでなく、今日のごはん、ファッション、交通手段、どの道を歩いて行くかまでも、選択して生きていかなければならない。その先のことは、選んでみないとわからないことばかり。ときには難しい選択になることもある。
私は「選択」に悩んだとき、「人生はチョコレートの箱のようなもの」という言葉を思い出す。選択するもの=チョコレート と考えてみれば、箱を開けるたびに心が躍り、そこから摘まみ上げる一粒にときめく。味のわからない一粒を選ぶことは、スリリングではあるけれど、贅沢な時間にも思えてくる。
このチョコレートはどんな味なんだろうと想像する。香ばしいナッツのプラリネや爽やかなフルーツのガナッシュ、異国な味のマジパン、溶けるようなキャラメル、刺激的なスパイスに芳しいリキュール… ああなんて魅惑の選択なのだろう。茶色のつやっとした鎧に包まれたその先の味を想像し、口に入れた瞬間には、その想像と現実を照らし合わせることもまた楽しい。わからないことを想像する作業は、人生の中でそんなに多くはないのだから、楽しまなくてはもったいない。
ふと、子供の頃はわからない楽しさにワクワクしていたことを思い出した。虫の味を知りたくて、蝉をくわえたり、蟻をかじったこともあった。わからないことがたくさんあるから毎日の時間が豊かだった。最近では、歳を重ねたこともあって、わからないことはだいぶ少なくなってきたような気もするし、まわりに在るものを見渡すと、どれもこれもがわかりやすく説明されすぎているような感じもある。
人が死を恐れる一つの理由として、それがわからないことだから、というのもあるかもしれない。わからない=恐れ ではなく、わからない=楽しいの入り口 になるような人生を目指して、今日もチョコレートの蓋を開けてみる。チョコレートの味を想像してみる。 その味が好きでも嫌いでも、甘くても苦くても、きっとどれも人生をとろりと豊かなものにしてくれる、一つのピースであることに変わりはないと信じて。