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上海と『ラスト、コーション』
中国・上海へ行こうと決めたのは、カレーラーメンを食べてみたかったからだ。
中国にカレー文化があるという情報はあまり聞かない。全くないわけではないだろうが、カレー粉を料理の香りづけや臭みけしに応用することがある程度の情報しか知らなかった。その点でいえば、ラーメンにカレーのソースがドバッとかかった「ザ・カレーラーメン」があるとは期待していなかった。
訪れたのは、昨年2017年の1月2日。元旦の1日を浜松の実家で過ごし、翌日に名古屋の空港から上海へ飛んだ。現地で頼りにしていたのは、長年、上海に住んで食のライター・編集者として活動している森さんだった。僕は彼女に案内されるがままに街中を歩き、レストランで食事をした。彼女が行きつけにしているお店で焼き小籠包を食べたとき、牛肉のスープをにほんのりとカレーの香りがした。おっ! 思わず小さな声が出たが、メインの焼き小籠包があまりにおいしくて、食べ終わるころにはスープのことは忘れていた。
何軒かのカレーラーメンを食べ歩く。とはいえ、カレーラーメン専門店があるのではなく、麺屋さんに牛肉麺があり、それを頼むとカレー粉の香りがするといった、ずいぶん奥ゆかしい存在としてカレーラーメンは確かに存在していた。
どこで食べても、ほんのりとしか香らないカレー粉の香りは、店内にそよ風でも吹けば消し去られてしまいそうなほどはかない香りで、記憶に残るようなものではなかった。正直に言えば、「うまくもなく、まずくもなく」といった印象。
やっぱり、中国人にとってカレーという料理はそれほど大事なものではないのだろう。
印象の薄いカレーラーメンとは、うって変わって上海料理はおいしかった。それ以上に僕の頭に深く刻まれたのは、上海の“大都市感”である。具体的に象徴的な何かを目にしたわけではない。数日間、歩き回ってその圧倒的な活気と留まることのなさそうな勢い、ちょっとした未来感などをヒシヒシと感じた。都会が好きな僕の心に上海という街が刺さったのだ。衝撃を受けたついでに変なことも考えた。
「ああ、東京は上海に負けているんだな」
都市に勝ち負けなどない。どちらも魅力的に決まっている。でも、あのときに僕が受けた印象はそうだったから、そのままを森さんに伝えた。
「このままじゃ、日本は置いてけぼりになっちゃうかもね」
BARでカクテルを飲み、酔っていたせいか、少し大げさな言い回しになった。それでも彼女は同調してくれた。
「そうなんですよ! この現状が日本ではまだまだ知られていないの。だから、私はもっとこのことを伝えたい」
上海をこよなく愛する彼女は熱かった。
帰国後、森さんに映画のことを聞いてみた。
「上海が舞台になっている映画でオススメ、ない?」
「ラスト、コーション」
間髪を入れずに返事が来る。僕はその映画の名前すら知らなかった。
「恋愛映画は普段あまり興味ないのですが、これだけは好きです。なぜか」
そうコメントがあった。恋愛映画か。興味が湧かないな……。そう思いながらもDVDを入手。なかなか観る気分になれず、長いこと放置していたが、何ヶ月も経ってようやく観てみることに。
2時間40分という長編を観終わって、僕はぐったりしてしまった。1900年代半ば、抗日運動に身を投じた女子学生ワンと国家の要人イーとの禁断の愛、そして、サスペンス。テーマが重たいだけでなく、描かれたメッセージも難解だった。正直言って、彼女に薦められていなかったら、一生観ることはなかった映画だろう。僕が映画に求めるものは“娯楽”である。ドロドロした非現実ではなく、キラキラした“非日常”を味わいたい。仮にどこかの映画館でこの映画の予告編を観ていたとしたら、映画館を出た直後に記憶から消し去っていたかもしれない。でも、実際に観た僕の中には、この映画の残り香が漂い続けた。
印象に残ったシーンがふたつある。ひとつ目は、ワンがイーの前で踊りを踊るシーン。あのとき、ほんの少し、イーの表情が和らいだ。彼女に惹かれる彼の心の揺れを垣間見た。もうひとつは、いよいよ暗殺計画が佳境に迫った場面、宝石店でワンがイーにささやく。「逃げて」。こちらは非常にわかりやすい。彼女が葛藤の末、彼への愛情に勝てず、本来の目的を捨てた瞬間だ。ほんのちょっとの間の、ほんの一言である。そのちょっとした瞬間をチラ見せすることで、監督は、タイミングは違えども、ふたりの互いへの愛情を表現したのかもしれない。
男女の悲哀や感情の機微を際立たせるために、わざわざ激しい濡れ場や派手な暴行シーンを用意したのだろうか。鈍感な僕にでもわかるくらいギャップのある表現だと受け止めた。
大事なことは見つけにくいけれど、そこにある。ささやかなサインをキャッチできるかどうかが運命の分かれ道なのかもしれない。大雑把に生きている自分にとって、『ラスト、コーション』は、わかりやすい手引きを与えてくれた。
そう考えながら、上海での数日間を思い起こす。そうか、あのカレーラーメンのはかなく消え入ってしまいそうなほのかな香り……。もしかしたら、あそこに「スパイスとはこう使うのだよ」という大切なメッセージが込められているんじゃないだろうか。
僕はもう一度、上海へ行って確かめたくなった。
タイミングがいいことに、この秋、唐辛子と山椒を取材するために四川省へ行く予定があった。成都市での日程を1日早め、僕は上海に寄ることにした。もう一度、あのピンとこないカレーラーメンを食べてみるために。
過去に訪れた店を1軒、さらに新たに調べた店を2軒、食べ歩いてみた。ささやかなサインを見逃すまいと意識をして味見をしたせいか、2年前よりもカレーの香りの奥にいくつかの特徴的なスパイスを感じることができた。八角やクローブなどのクスリっぽい香りである。それが中国のカレー粉の特徴であることは察しがついた。だからといって、カレーラーメンが抜群にうまく感じたかと言えばそうはいかない。やはり、可もなく不可もない料理だったのだ。
気を取り直して、夜、上海蟹を食べに行く。偶然、現地を旅していた友人夫婦と現地在住のメンバーと5人でガヤガヤと酒を飲んだ。5種類の紹興酒を飲み比べし、蟹を食べ、その後も次々と運ばれてくる料理の数々を旺盛に口に運んだ。最後に頼んだ鴨肉を丸ごと煮込んだ鍋には、つるっとしてコシのある麺が入っている。小鉢に取り分けて、「まずは……」とスープをすすったとき、「ん!?」となった。後味に微かにカレー粉を感じたからだ。なんだこれ! うまい!
長時間煮込んだ鴨から濃厚な出汁が抽出され、ほろほろになった肉と絡み合う。塩気とは別に何かの発酵調味料のようなうま味がある。油のコクと麺の滑らかな食感。これでもか! と襲ってくる「おいしい攻撃」の奥のほうに、ほんのりとカレー粉の香りが顔をのぞかせる。そんな気がする、という程度のささやかさだが、『ラスト、コーション』のイーが、すっと表情をやわらげたあのシーンがオーバーラップした。
やった、ついにキャッチしたぜ、カレーのサインを。
中国料理におけるカレー粉は、脇役中の脇役だ。仮にそうだとしても、帰国して2週間が経とうとしている僕の脳裏には、まだあの鴨鍋の風味がこびりついて離れない。いつかもう一度、あの香りを確かめに行きたいと思う。そうか、きっとまた僕は、上海に行くことになるんだろうな。
映画をオススメしてくれた森さんに、お礼がてら聞いてみた。
「『ラスト、コーション』、どんなところが好きなの?」
軽い調子で、深く重たい返事がかえってきた。
「女心をえぐられるところです。男女のどうにもならなさがあの時代の上海の情景や文化とぴったり合って、魔都だなあと思うんですよね」
女心は難解だ。カレーの香りをキャッチして嬉々としている男心とはレベルが違いすぎる。僕はまだ彼女のように魔都・上海の魅力を味わえているとは言えないのだろう。
都会好きの僕が上海でキャッチした魅力は、目にもとまらぬスピードで発展していく景色の中に垣間見える、素朴な街並みやそこで暮らす人々の空気である。それは、カレーラーメンの香りのようにほのかに感じる程度のものだ。それは上海の情景の表層にすぎなかったのかもしれない。
もし男心もえぐられる上海があるのだとしたら、いつか僕は感じることができるだろうか。近いうちにまた行かなくちゃいけないな。
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