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暴力にどう向き合うのか?
塚本晋也『野火』『斬、』
かれこれ約40年生きてきた中で、私は凄惨な暴力に遭遇したこともなければ、実際に目撃したこともありません。もちろん、これは私が幸運だったということに他なりませんが、現代の日本で、私のような人間は珍しくないでしょう。でも、映画やテレビの世界では、頻繁に暴力が登場します。
とはいえ、身近に暴力の影を感じたことが全くないかといえば、そういうわけでもありません。私は湘南の海岸沿いで育ったのですが、20年ほど前までは暴走族が家の前を走っていましたし、今でも夏場になると酔っ払いが海岸周辺をフラフラと歩いています。酒が入っていなくても、海に来てテンションが上がってしまった若者は気が大きくなって突飛な行動を取りがちです。すれ違いざまに突然大きな声で脅かされたり、コンビニの前で睨まれたりしたことは1度や2度ではありません。そんな瞬間は本能的に「何かひとつ行動を間違えたら殴られるかもしれない」と感じ、身体が固まってしまうほどの恐怖に襲われます。ほんの一瞬ではあるものの、そんな暴力の気配と想像が心身に与えるダメージは絶大で、数日間は恐怖の余韻みたいなものが消えません。
その恐怖は、テレビや映画で暴力を目撃したときに感じる感覚とは決定的に違います。私には7歳になる息子がいますが、少し前まで彼は戦隊モノや仮面ライダーにハマっていました。すっかり少年らしくなった今は、スパイダーマンになりきって私の目には見えない敵と日々闘っています。こうやって子供の頃から画面を通して暴力を目にしていても、暴力による実際の恐怖や痛みを知ることは決してできない……私はずっとそう思っていました。塚本晋也監督による『野火』と『斬、』の主人公に出会うまでは。
『野火』で狂った伍長が笑いながら自分の身体を指して、「俺が死んだらここ食べてもいいよ」と主人公に言うシーンでは心の底からゾッとし、『斬、』で斬られた腕から血を流す浪人の姿を見て、私も腕の痛みを感じました。そしてなによりも、作中で常に暴力に晒されている両作品の主人公たちの感情や感覚が、自分の身体に流れ込んできた気がしたのです。
『野火』も『斬、』も、死と隣り合わせの極限状態を描いた作品です。実際に暴力を目撃・体験したことがない私の環境からは、ほど遠いと言わざるを得ません。しかし、私は暴力を前に戸惑い立ちすくむ2人の主人公の姿に自分を重ねながら鑑賞し、最後には彼らが暴力に対する躊躇を捨てた瞬間を目撃しました。そして、自分にもその瞬間が訪れる可能性があることを、この映画を観ることで自分の身体を通して痛感したのです。両作品で容赦なく描かれている暴力は、到底他人事などと思えるものではありませんでした。
太平洋戦争末期のレイテ島での極限状態を描いた『野火』。主人公・田村一等兵の目の前では兵士たちの肉体が吹っ飛び、臓物が飛び散り、すぐ隣にいる死体に蛆が湧きます。終わることのない地獄絵図。絶え間なく繰り広げられる暴力描写は、圧倒的な恐怖を呼び起こします。
そして終盤にさしかかったころ、突如としてある身体的反応が私を襲いました。孤独と飢えの末に幻覚を見て倒れた田村は、他の兵士から「猿の肉」をもらって生き延びるのですが、それが「猿の肉」などではないことは明白でした。それが人肉だと確信した田村は、ある兵士から手榴弾による襲撃を受け、肩を負傷してしまいます。そして次の瞬間、彼は吹き飛ばされた自分の肉片を何のためらいもなく口に放り込みました。
その行為が目に飛び込んできた刹那、私の口の中には血なまぐさい匂いが広がり、にわかに吐き気が込み上げてきました。田村が味わった人肉の味を身体が想像してしまったのでしょう。頭が追いつくよりも先に、身体が暴力を想像してしまうという感覚は初めてで、一瞬、本当に自分が人肉を食べたのではないかと錯覚してしまうほどのショックを受けました。
『野火』公開から3年後に製作された『斬、』の舞台は江戸時代末期。主人公の浪人・都築杢之進が身を寄せていた農村に、荒くれ者たちがやってきます。そして、村の平安は壊されて行くのでした。衝突を避けようとする杢之進の努力も虚しく、世話になった村人は虐殺され、想い人は強姦されます。逃げるならば殺すと追い詰められた杢之進に与えられた選択肢は、自ら死ぬか、殺すかのみ……。
村にやってくる乱暴者たちのイメージは、どこか湘南にいる酔った若者たちと重なります。荒くれ者を前に怯み続ける杢之進に大いに感情移入していた私でしたが、苦しみ抜いた彼が選択するのは自死ではないことを、最後には確信していました。
『野火』と『斬、』の主人公には数多くの共通点があります。徹底して主人公である彼らの目線で物語が綴られていく点、生きているのが、一定の平穏な年月の後に訪れた動乱の世である点、周囲で苛烈な暴力が巻き起こる点などが挙げられますが、私が最も印象的だったのは、彼らが暴力の行使を躊躇するが故に苦しむ点です。
成り行きで現地の女性を撃ってしまった田村一等兵は、フラフラと彷徨った末に銃を捨てます。その後に遭遇した日本兵から再び銃を渡されたとき、彼は驚いたような、諦めたような表情を浮かべました。また、どうしても人を斬ることができないまま追い詰められた杢之進は、「私も斬りたい、人を斬れるようになりたい」ともがき苦しみます。魂は暴力の行使を全力で拒否しているのに、暴力を奮わなければいけない。彼らの姿は、これこそが究極の地獄なのだと示しているようでした。
私は、両作品の主人公たちの視線を通じて暴力を目撃し、共感というレベルを超えた反応を覚えると同時に、凄まじい恐怖と絶望を味わいました。そこには暴力の被害者になってしまう恐怖だけでなく、それまで想像したことすらなかった、加害者になってしまう絶望までもが異様なリアリティを持って描かれていたのです。私もきっと、最後には彼らと同じように人を殺してしまうだろう……残念ですが、そう確信せざるを得ません。
暴力とは圧倒的な恐怖と痛みを伴うものであり、極限状態に置かれれば誰もが暴力を行使する可能性があるのですが、私たちの多くはリアルな暴力を知らないから、想像するには限界があります。しかしこの2作品は、暴力の気配と自らの加害性を身体レベルで想像させてくれました。両作品が与えてくれるメッセージはどこまでも重く、社会にとってどんどん重要性を増しているような気がします。いま世界中に蔓延しているのは、不寛容な空気です。このままエスカレートしていけば、いつかきっと何かが起こるでしょう。そんな未来は全力で避けなければ。私は、暴力を受ける恐怖も、暴力を奮う絶望も現実に味わいたくありません。
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