昨年の秋、アメリカのアイオワ州にあるアイオワ大学という大学に招かれて、三か月ほどアメリカに滞在した。アメリカにいるあいだに、合わせて三回『シャイニング』を観た。
私はホラーやサスペンスはあまり好きではなくて、この映画もそれまで一度もちゃんと観たことがなかった。いろんなところで言及されることの多い作品だから、おおまかな筋や印象的ないくつかの場面は知っていたけれど、すすんで観ようとは思わなかった。
そういうわけで、こんな機会にでも観てみようかと思い、一回めはアメリカに向かう飛行機のなかで観た。アメリカの航空会社だったから日本語字幕のタイトルがなく、それでもどうにか理解できそうな映画を選んだ、という理由もあった。
二回めは、滞在中にホテルの部屋で観た。私が招かれたのはいろんな国から作家が集まって三か月ほど滞在するプログラムで、同じプログラムに参加していたリトアニアの詩人が、古道具屋で『シャイニング』のDVDを買ったからみんなで観よう、と言ってほかのライターたちと一緒に酒やスナックを持って夜中に私の部屋に押しかけてきたのだった。私は正直迷惑で、眠いし、ホラーは好きじゃないし、その映画飛行機で観たし、と言ってみたのだが、結局最後まで一緒に観た。私の隣の部屋が237号室なんだよね、とリトアニアの詩人は言った。その部屋には、インドネシアのライターが泊まっていた。
三回めは、日本に帰る飛行機のなかで観た。やはり字幕はなし。三か月の滞在と、一緒に過ごして親しくなったライターたちのことを思い出しながら、私は当然のようにその映画を選び、観た。
私はそれまで海外旅行もほとんど行ったことがなく、その三か月のアメリカ滞在は言うまでもなく貴重で特別な経験で、なぜかそのあいだに三度も観ることになった『シャイニング』という映画も、その忘れがたい日々の大切な一部になった。
観るたびに、怖いというよりは、映像の美しさや、ジャック・ニコルソン演じるジャックら登場人物の表情を楽しむ方に見方は変わっていった。
けれども何度観てもいちばん印象的な場面は同じで、それはジャックがホテルのホールで、壁にテニスボールを投げつけて壁当てをしているところだ。
山中にある冬季休業中のホテルの管理を任されたジャックは、誰もいないだだっ広いホテルに妻と子と三人きりで冬を過ごす。『シャイニング』では、不協和音を多用した音楽も効果的に使われているが、下界から閉ざされた無人のホテルの不気味さを演出し、やがて訪れる怪奇現象をそこに呼びこむのは、音楽のないホテルの静けさを映す場面だと思う。広いホールの豊かな反響は、そこに誰もおらず、静かであればあるほど、小さな音を大きく響かせる。
小説家であるジャックはなぜかそのホールで仕事をしている。彼のタイプライターの音も、ホールに大きく響く。そしてまだ映画の序盤の、このホテルとこの映画の不気味さの正体がまだはっきりとはわからないあたりで、捗らない仕事の気晴らしなのか憂さ晴らしなのか、ジャックが吹き抜けのホールの壁にテニスボールを投げつけ、壁当てをしている場面が映される。
客がいるわけでもないから別に誰の迷惑になるわけではないし、テニスボールくらいならそうそう壁を傷めることもないだろう。が、やはり異様だ。まして映画のなかで、なんの説明もなく登場人物がそんな行動をとるのは、もしかしたら現実よりも奇妙だ。彼は見るからに全力で、跳ね返ってきたボールを掴み、また目一杯壁に投げつける。壁にボールが当たる音が何度も、大きくホールに反響する。
ところでアメリカでは三回とも英語で観た。そのため、作品冒頭でジャックがホテル管理の仕事を得るために受けた面接の場面の会話を私は全然理解していなかった。そこでは後々ホテルでジャック一家が巻き込まれる怪奇現象の伏線がしっかり引かれているわけだが、それを知らずに観た私は三回とも、あの双子の姉妹も237号室の女もなんのことだかわからずに観た。最初の伏線を理解していないと、映画のなかのあらゆる怪奇現象は、ただただ唐突で不条理な現象で、怖かった。
今回この原稿を書くために日本語字幕版を観て、はじめて物語の全体像を理解した。なるほど、と思いはするが、知って意味づけがなされると怖さが半減するような気もする。
しかしあのテニスボールの音だけは、いま見ても、何度見ても変わらずに怖い。あの場面のジャックの行動は、映画のなかでは説明されない。ジャックは、映画の途中から明らかに正気を失ってしまうのだが、まだ正気を失っていないように見えるあの壁当ての場面と、ホールに響くその音が、解釈から取り残されたみたいに不気味で怖いまま残る。