目次
「恥ずかしがり屋だったのは もうずっと前の出来事で
今じゃ 女の子に触れたって 何も感じなくなってる 」
BLANKEY JET CITY 「絶望という名の地下鉄」の歌詞ですが、この歌を聴くたびに「ああ、そうなんだよ、俺も擦れちまったな」と感じるんですよね。
思えば学生時代、女子と接するのが恥ずかしくて申し訳なくて(うまく言えないけど、申し訳ない、という気持ちがあった)遠巻きに女子を尊敬と畏怖の念をもって遠くから眺めるだけの俺だったんですけど、その分、女子に対して様々な気を遣える俺だったような気がするんですよね。
その頃の俺にとって女子っていうのは神格化されてる生き物ですから、粗相があっちゃいけない、無作法で接してはいけない、殿の、もう殿って言いますけど、殿のご様子をつぶさに観察しては、
「如何にすれば、殿のご機嫌を損ねずにいられるのか」
ということに邁進するんですが、自分が生来もっている「至らなさ」も自覚しているので、おそらくは「触れたら斬られる」ということを先回りして感知し
「近づかなけりゃいい」
という結論に達したのではないかと思うのです。
だけど、ああ、だけど最近の俺なんていう奴は、女子に対する畏怖の念も薄れ、いや、極端に意識して避けるのもアレですが、自分の平行線に組み込んで特別な意識もしない、という、つまりは女子と肩を組んでも自身の細胞が昼寝から起きないような残念な仕上がりになっております。
ああ、いやだいやだ。
そんな、ときめきやデリカシーを切望しつつも無味無臭な世界を鼻歌まじりで生きている私が今回見た恋愛映画はこちら!
『ブルーバレンタイン』
ライアン・ゴズリング演じるディーンと、ミシェル・ウィリアムズ演じるシンディーは結婚して子供もいるが夫婦仲は冷め切っている。
そんな夫婦の現在と、出会った当初の出会いから結婚までの風景を交錯しつつ描く物語、なんですけど、これはまあ、男性と女性で「この映画から見える風景」は全然違うんだろうなあと思うんですよね。 この映画から受ける印象として、簡単に言えば
「昔はあんなに愛し合った二人、今は妻が夫に冷めており、夫は妻の気持ちを取り返そうと必死になっている」という感じだと思うので、健気なディーンと受け入れないシンディー、という見え方になっちゃいますよね、うん、そうすると「シンディーって嫌な女だね」という感想を持ちそうになるんですが、特に男性諸君よ、ちょっと待ってほしい、ちょっと待つべきだ。
例えば、朝食を食べることを嫌がる娘に対して、夫であるディーンがテーブルにレーズンを置いて「獣のように食うべし」と娘を促し、それを夫と娘が喜びつつ「レーズンをすする」と、妻であるシンディーが「そういうのやめて」と軽くキレる、という描写があるんですけど、これねえ、すごい分かるんですよね。
男からすると、ちょっと待てと、何怒ってんだよと、ノリが悪いよと、俺たちが出会った頃、街中で俺がギター弾いてお前タップダンス踊ったよな? そういう突拍子もない場面を俺たちはケラケラと笑い合えたじゃないか、あの頃のお前はどこ行ったんだよ、であり、しかし妻からするとですね、
「みっともない」であり「娘が学校で真似したらどうすんの」であり
「お前は楽しいのかもしれないけど、テーブルを拭くのはあたし」
だと思うんですよ。
夫に見えているものは「昔、俺で笑っていたお前」であり、それをなぞってしまうのも分かるけど、妻に見えているものは「今、目の前にある現実と生活」なんですよね、これはもうね、男女の根本的なアレだから致し方ない、致し方ないんだ、男はいつまでも昔の積み木で遊べるけど、女は今ある積み木を組み立てて生きる生物なんだ、仕方ない、仕方ないんだけど、この場面の二人から見えてくるものは 「相手にも言い分があるということをお互いが忘れている」
というものなんですよね。
そのすれ違いって、時間を経て夫婦になって大きくなっていった、ようにも見えるので、そうなると「未だに健気なディーンがやっぱり可哀想」にも見えるんですけど、俺個人としては
「いや、そもそもこの二人は、すれ違った二人であった」
とも思うんですよ。
ある場面でシンディーが祖母に「人を愛するとは、どういうことなのか?」と尋ねます。
「いつか消える感情なんか、信じられる?」
その問いに対して祖母は
「愛を見つけるには感情を持ちなさい」
と答えます。
つまり、つまりだ、シンディーは「人を好きになるのがどういうことなのか、未だに分かっていない」のではないかと思うんですよ。
「結婚して子供までいるのに、それはおかしいよ」という人もいるかもしれませんが、祖母もまた、祖母のくせに(結婚して子供もいて孫までいるのに)
「あたしもまだ愛を見つけていない」
と答えています、そういうことだ、そういうことなんですよ。
シンディーとディーンが出会った頃、シンディーは傷心の中にいました。男の身勝手さと、大事にされない憤りに打ちひしがれている時に、まっすぐ誠実に気持ちを向けてくれるディーンに出会ったのです。
「この人が私に向けている感情が愛なのだとしたら、それに乗っかれば私も愛を掴めるかもしれない」と考えても不思議はない。
そしてディーンもまた、
「お前のお腹の中にいる、他人の子供でも俺は愛せる」
という決意を示すことが、シンディーを手に入れる最善の方法だと思ったとするならば、これはどうでしょう、
「シンディーは愛を求め、ディーンは人を求めた」
という「微妙にねじれたすれ違い」から出発した二人、という事にはならないでしょうか?
そのすれ違いが時を重ね、大きくなっていき、修復不可能なところまで到達しただけであって、そもそも「形の違うネジ」をはめたテーブルがいつか崩れるのは必然であって、突然の悲劇ではないですよね。
物語が進むにつれて、感想としては
「お互いのすれ違う気持ちが切ない」
と、ムカムカしながらも悲しい気持ちにもなるんですが、ちょっと待てと、先ほど述べた前提と、お互いの言動を加味していくとですね、「これは切ない物語じゃなくて、どっちのエゴが勝つかの戦争物語なんじゃないか?」と思えてくるのですよ、俺には。
だってね、ディーンが妻の気持ちを取り戻そうとラブホテルを予約して色々頑張る、というシーンがあるんですけど、うん、そこだけを切り取れば「健気だなあ」とも思うんですけど、冷静になって考えてみれば
「完全に気持ちが離れてる事が分かっていて、この状態でラブホに行っても喜ばないことも分かっている」
のに誘うって事はですよ、愛を取り戻そうというよりも、自ら嫌われに行ってるって思われてもおかしくないじゃないですか。
表向きのディーンの言い分とすれば、いや、また一緒にお前と笑いたいから頑張る、なのかもしれないですけど、ディーンもどこかで「それは無理だろうな」ということも分かってるような気がするんですよ、いや、分かるでしょ、あんな顔されてんだから、わからないのがおかしい。
「わざわざ嫌われに行くのなんて、意味不明」と思うかもしれないですけど、この二人って、劇中で「殴れ」「殴らない」っていうやりとりを散々繰り返すんですよね。それって、つまるところ
「殴ったら離婚」であり、「殴られた方がそれを切り出せる」ってことを二人とも分かっており、それをお互いに求めている、ということなんじゃないかと思う訳です。
そう考えると、シンディーとディーンのお互いに対する挑発的な言動も、表情も、ああ、そういうことなのかと理解できるんですよね。
「別れたいけど、別れるべき決定的な事象がない」
「別れたいけど、自分から別れたいと言ったら人でなしになる」
「だから別れるなら、お前のせいで別れたい」
そういう考えって分かります? 俺はすげえ分かります。
加害者としてその場を去るよりも、被害者としてその場を去りたいじゃないですか、その方が何故だか、心の平穏が保てるもんです。
だからシンディーもディーンも、決定的な事はなに一つ提示せずに、遠回しに、でも何か一番効果的であるのかを探りながら、相手に自分を殴らせようとする訳ですよ。
「きたねえ奴らだな」
この映画を観ての結果的な感想として、俺個人としてはそこに行き着いちゃうんですけど、勿論、自分もそうであるんですよね、だって、身につまされるって事は、そういうことなんだから。
この映画を観ている最中、ほんとにですね、なんでこんなものを見せつけられなくちゃいけねえんだ、という気持ちになっていたんですけど、見終わった瞬間は、本当に心の底から
「相手にも感情があって、そこを起点にその人は生きている」
ということを心に留めながら生きていこうと思いました。
長い時間接していると、なあなあになって、勝手に自分と同じ平行線に組み込んで、相手にも独自の感情があるということを忘れがちになるけれど、隣にいても「あなたは私の一部ではなくて、あなた自身である」ということを忘れずに、俺以外の意見を持っているということを尊重して、尊敬して、畏怖して、お前にいちいちビクビクしてドキドキしたいな、と思いました。
人間が出来ていないので、すべての人には無理かもしれないけど、お前だけにはそうでありたいと、結果的にこんな、公の場でラブレターを書かされる事になるような、僕にとってこの映画はそういう映画でした。
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