前略
言い訳ではないのですが、あの日、私はほとほと疲れていたのです。何の間違いか連続ドラマが3本も重なってしまい(こんなことは女優人生始まって以来のことですが)、朝はご飯をムシャムシャ食べながら他人の人生相談にうなずき、昼は校庭の真ん中で好きな人に想いの丈を告白し、夜は編集者に追われながら原稿を書きまくるというように、あっちこっちへ飛び回わる毎日でした。朝目が覚めると「とにかく今日一日のことだけ考えよう」と決意して家を出て、一日が終ると「とにかく明日のことだけ考えよう」と自分に言い聞かせながらベッドに倒れ込むのです。まさに毎日が“命日”のようでした。3日後のことや1ヶ月後のことは考えられません。“火事場の馬鹿力”じゃないですが、今日自分が死ぬかもしれないと思うと、なんとか一日を乗り切ることができました。
そんなわけで、久しぶりにあなたのアトリエに遊びに行った時、脳みそはふやけて思考停止し、絞っても何も出ないボロ雑巾のようでした。あの日、私たちはいつものようにお喋りをし、ふと会話が途切れた瞬間、気づくと私の右手はあなたの右手を握っていました。私は目をつぶったまま「ありがとうございました。感謝しています」と繰り返し言いました。なんだか今生の別れみたいで可笑しいですが、「今日が命日」が口癖のような日々を送っていたので、これだけは伝えておかなくてはと必死だったのかもしれません。
いつか「恋愛は命がけの跳躍だ」という話をしてくれましたね。自分の「好き」という気持ちが相手にどう届くのか分からないまま飛ぶことだと。崖の向う岸があるのかどうかも分からない、あったとしてもふかふかの野原なのか、それとも棘だらけの荒野なのかも分からない。それでも勇気を出して飛ぶことだと。まさしく、私の右手は机を飛び越えてあなたの右手へバンジージャンプしたのです! 橋がかかりました。10分くらい(もしかするともっと永い間)そうしていました。そのうち、「こっちへおいで」という声がしました。私は目を閉じたまま立ち上がり、向こう岸へと歩いていきました。そして私達は初めてお互いを抱擁しました。帰るとき、ドアを出る瞬間まで私の目は閉じられていました。
あの日を境に、私の合言葉は「今日が命日」ではなくなりました。なんだか目に映るもの、手に触れるものすべてが輝きだして、新しいのです。
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今日、川原を一緒に歩いた時にあなたが勧めてくれた『バベットの晩餐会』、さっそくレンタルショップで借りてきて夜一人で観ました。20代の頃にもこの映画を観たことがあったのですが、内容をすっかり忘れていました。今改めて観ると、どの場面も今の自分に向けられたメッセージのようで不思議です。
フランスから亡命してきた料理人バベットは、辺境の小さな村の人達に、海亀のスープやらウズラの丸焼きパイやら、そんなもの見たことも聞いたこともない彼らに、自国の料理を味わってもらおうと奮闘していました。バベットにもどうしても伝えたいことがあったのですね。その文字ではない彼女の“恋文”を、はじめ恐る恐る集まった村の人々は、愛しい誰かと接吻するように一口一口受け止め、コーヒーを飲む頃には、「今夜、私は知りました。この美しい世界では、すべてが可能だと」と言うのです。彼女の料理を食べた人達の顔はみんな恋をしていました……。すべての食事を出し終わったあと、台所で一人、疲れてクタクタだけれど嬉しそうに顔を洗っているバベットの姿がいつまでも目に残りました。
最近、仕事がなくてソワソワと遠くばかりを見ていたせいか、隣を歩いているあなたに肩をポンと優しく押さえられましたね。「もっとゆっくり歩きなさいな、大丈夫だから」と言われたようでした。ああ、私もバベットのように日々を過ごしたい。目の前の人を喜ばせたい。気持ちは募るばかりですが、今日はこの辺で寝ることにします。素敵な映画を教えてくれてありがとう。
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