小学生の時、「子ども部屋」として私が過ごしたのは両親の小さな書斎だった。四畳半の北向きの部屋で、両側の壁には天井まで本がいっぱいに詰まっている本棚があり、西日の差し込んでくる窓からは大きなモミの木の枝が見えた。その窓の下にベッドを置き、その脇に小さな木の机と椅子、そして洋服箪笥を置くと、あとはもう子どもが一人体育座りできるくらいのスペースしか残らなかった。家には他にもっと広い部屋や日当たりの良い部屋もあったけれど、私はその四畳半の部屋を愛した。
父と母が小学校の教師だったこともあり、本棚には『赤毛のアン』『秘密の花園』『ハイジ』のような古典童話シリーズ、手塚治虫や石ノ森章太郎の漫画、日本の歴史や教材用の写真集や画集なんかが沢山あった。それらの本たちの背表紙を眺めては、目が合った一冊を手にとり、夜ベッドに潜り込んで眠くなるまで本の世界に浸るのだった。
その頃、本というのは分厚ければ分厚いほど良かった。『ハイジ』なんて確か辞書くらいの厚さがある上に、小さな文字が二段組でぎっしり詰め込まれていたから、「読んでも読んでも終わらないや」とワクワクしたのを思い出す。筋はほとんど忘れてしまったけれど、ハイジとおじいさんの山小屋での食事のことだけは覚えている(子どもはいつもどうでもいいことばかり覚えている)。夏は硬いパンとチーズをちぎって食べ、搾りたての山羊のミルクを飲む。冬は硬いパンとチーズに温めたミルクを飲む。なんて魅力的な食事なんだろう……と私は憧れでいっぱいになった。実際こんなのが毎日続いたらつらいだろうと思うけど、この質素な食事が最高の食事に思えたのだ。そしてそんな時、私の小さな部屋はハイジの暮らす山小屋だった。
この部屋の本棚の中に『やかまし村の子どもたち』という本があった。この本の背表紙とは何度も目が合ったのだけれど、結局一度も開くことはなかった。でも私は映画を通してこの作品を知ることになる。本に比べたら数少ない映画のビデオコレクションの中に、『やかまし村の子どもたち』とその続編『やかまし村の春・夏・秋・冬』はあったからだ。インターネットもレンタルショップもない時代、両親がテレビで録画した映画がすべてであり、私はこの『やかまし村』シリーズが好きで繰り返し観た。
最近、この二つの映画を久しぶりに観てみた。
スウェーデン語の原題「Alla vi barn i Bullerbyn」を直訳すると「騒々しい村の子どもたち」となるようだけど、改めて面白いタイトルだと思う。なぜって、騒々しいどころか森の近くの草原にこぢんまりした家が三軒しかないのだ。登場人物といえば、そこに住んでいる六人の子どもたち、その親たち、動物たちくらい。でも、その小さな村の日常が、子どもたちの目線からじつに“賑やか”に描かれている。
学校からの帰り道も、この六人の子どもたちにかかるとただでは済まない。「だいたいさ、道しか歩いちゃいけないなんて誰が決めたの?」「きっとどこかの大人が考え出したのよ」と土ぼこりの立つ道を歩かずに、わざわざ道沿いの木の柵にしがみつくように歩く。「人に好かれるものときらわれるものがあるって誰が決めたの?」その質問に答えるように“反対ごっこ”が生み出される。皆が嫌がるものを「いい」と言い、皆が褒めるものを「きらい」と言うのである。「土ぼこりは素晴らしい!…ごほごほ」「太陽なんかきらい!」「鳥なんかきらい!」と、楽しめる限りいつまでも続く。私も一緒に“反対ごっこ”をやってみた。「溜め息は素晴らしい!」「白髪って素敵!」。すると不思議と笑えてきて、なんだか伸び伸びとした気持ちになった。
今観ると、「大人はよくあんな不味いもの食べられるな」と子どもたちが言う「ニシンのサラダ」はなかなか美味しそうだと思うし、皆から恐れられている一人暮らしの靴屋のスネルおじさんの孤独も分かるのだけれど、観終わって少しホッとした。なんというか、この子たちと一緒に楽しめるうちはまだ大丈夫だと思える。やかまし村の子どもたちの魅力が判らなくなってしまった時、自分は何か大切なものを失ってしまったのだと淋しくなるかもしれない。
大人になって忙しい毎日を送っていると、つい自分の役に立つものとそうでないものを分けるようになってくる。時間の無駄だと思うと、はなから手を出さない。本だって気づけば仕事関係のものが多くなったし、5~6冊をいっきに読み飛ばして「これ使えるな」なんてメモしたり、線を引っ張っている自分がいる。そんな私を見たら、やかまし村の子どもたちはなんて言うだろう。くすくす笑いながらこう叫ぶかもしれない。「無駄は素晴らしい!」「役に立たないもの万歳!」。
かつての私もそうだったように、彼らにとって一番大切なのは、「どうしたらこの楽しい時間がいつまでも続けられるか」ということだった。いろんな遊びが生み出され、日常は冒険になる。外から見れば “小さな何もない村” でも、彼らにとっては海賊船にも宝の島にもなる。そしてそれは「もう寝る時間よ」という優しい声が聞こえるまで永遠に続くのだ。
あの小さな子ども部屋での終わらない読書や、両親が録画してくれたビデオを飽きもせず繰り返し観た時間は、役に立つかどうかなんておかまいなしだった。またあの頃のように、「あー、楽しかった!」それでおしまい、そんな何のためでもないただの読書や映画を観ることを心ゆくまでしてみたい。秋だし。
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