山田家には、ちょっと変わったルールがあった。
たとえば私は子どもの頃、歯磨きをするときに歯磨き粉というものを使ったことがない。山田家の洗面台には粗塩が盛ってあってそれをつけて磨くのだ。ものすごくしょっぱいし、ときどき血だって出る。母に言わせると「昔の人はみんな塩で磨いていたのよ」ということだった。でも、保育園の他の子たちが持っていたメロン味やイチゴ味の歯磨き粉を使わせてもらったとき、「こんなお菓子みたいので磨いてるんだ!」と驚いたのを覚えている。
それから、私は小学生の頃からテレビをほとんど観ずに育った。観ていい番組というのが二つか三つくらいあって、それ以外は基本ダメだった。だから「ドリフ」も「北の国から」もよく知らない。クラスメイトが物真似していた田中邦衛は、大人になってから「この人が『ホタルゥ』の人か」と本物を知った。流行歌は、なぜか嘉門達夫の替え歌テープで覚えていたので、友だちと一緒に歌っていると私だけ途中から歌詞が違ってきて「なにそれ~」と大爆笑になったりした。
中学生のとき、お弁当の時間に「なにその茶色いご飯。洗ってないの?」と驚かれたことがある。山田家ではお米といえば玄米だった。今みたいにマクロビオティックが流行るだいぶ前だったので、白いお米しか見たことのない子はびっくりしたのだと思う。でも、私にとってはその茶色いお米が日常だった。
こんなふうに小さい頃から人と違うことはよくあったけれど、それを「恥ずかしい」とも思わなかったし、みんなと仲良く過ごしていた。それは両親のお陰もあるかもしれない。山田家ではもう一つ、両親が決してしないことがあった。それは「人と比べる」ということだ。私には三つ上の兄と七つ下の妹がいるけれど、兄や妹と比較されたこともないし、「誰々ちゃんみたいにもっと頑張りなさい」ということを言われたこともない。そんなわけで、私は「比較をする」という感覚なく育った。そして比較に付随する誰かへの嫉妬も、自分に対するコンプレックスも一度も持ったことがない。そこにあるのは上下や勝ち負けではなく、個性の違い、世界の見方の違いだったからだ。
でも私も大人になり、山田家から出てぐるりと周りを見て驚いた。世の中はこんなにも比較や競争でいっぱいだったのか……。仕事では常に誰かと比べられ、勝ち負けを突きつけられる。だんだん「あの人に負けないようにしなくちゃ」とか「あの人はこうなのに自分は駄目だ」とか思い始め、気づいたら毎日が競争に変わっていった。
そんなふうにして、私は二十代後半になって初めて自分と他人を比べ始めた。私は自分自身であることを恥じ、無い物ねだりをし続け、自分以外の誰かになろうとし続けた。その努力はまるでパンジーがヒマワリに憧れ、ヒマワリがユリに憧れ、ユリがオオイヌノフグリに憧れるくらい無謀なものだった。何年か経つと、私は自分のことがすっかり嫌いになっていた。
どうやってその悪循環から抜け出せたのか思い出せない。でも、その辛い時期にずっと考えていたのはこんなことだった。「人はみんな違うのに、どうしてこんなに比較したり競争ばかりしてしまうんだろう」「全然違う人間が違ったまま、それぞれ堂々と自分のままいるにはどうしたらいいんだろう」。
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その問いの答えを、ついこの間「見つけた」と思った。
『ホーホケキョ となりの山田くん』というアニメ映画がある。この映画が公開されたとき大学生だった私は、「まだ早いような気がする」と思ってなんとなく観なかった。自分が成熟しないと出会えない作品というのがある。物事のいろんな深みを感じ取れるようにならないと、その本当の凄さや面白みがわからないというような。それは映画に限らず、本や人との出会いも同じかもしれない。
最近、この映画を観て私は驚いた。日本のどこにでもいそうな家族の飾らない日常が淡々と描かれているのだけど、そこには人生をポジティブに生きていくヒントが、家族という他者と生きていくためのヒントが、はては世界平和へのヒントが、ぎゅうぎゅうに詰まっていた。こんなに凄い作品だったのか……。公開から二十年の月日を経て、私はやっと「となりの山田くん」に出会えたわけだ。
何が凄いかって、まず絵のタッチに驚いた。登場人物たちは、どこかその辺のノートに色鉛筆でサラサラと描いた落書きのよう。まるで完成途中の下書きみたいで、「あ、間違えた」と思っても消しゴムで消せばすぐにでも描き直せそうな雰囲気。背景に至っては余白だらけ。というか、ほとんど白い。かと思えばハッと息を呑むほどリアルに描き込まれているシーンも出てくる。描こうと思えばどこまでも上手に描ける人たちが、わざと肩の力を抜いて「適当に」描いているとしか思えない。でも観ているうちに、そよ風が通り抜けられそうな「軽やかさ」そのものが、この映画のテーマなんだと分かってくる。
『となりの山田くん』の登場人物たちは、誰ひとり自分自身であることを反省しない。都合のいいときだけ大黒柱の父、山田たかし。家事をさぼる主婦、まつ子。いつもパンクで我が道を行くばあちゃん、しげ。何をやっても平均点の中学生、のぼる。底抜けにポジティブな小学生、のの子。そして愛想のない愛犬のポチ……。
「我が家が平和なのはどうしてかわかったよ。みなさんが三人とも変で、どっちもどっちだからなんだ!」とのぼるが言うように、おのおのが堂々と自分の主張をし、あーだこーだ言いながらも一緒に暮らしている。
この映画を観ていると、価値観も世界の見方もてんでバラバラな人たちが一緒に一つの場所で暮すということについて深く考えさせられる。家族もそうだし、この地球上のいろんな国の人たちもそう。人だけじゃなくて動物や自然も共存している。生まれ育った環境が違えば、信じるものも、好きな食べものも違う。もし誰かひとりが「これこそ真実だ!」と理想を掲げて他の人達を従わせようとしたらエライことになる。「そら、あんたにとっての真実やろが」と、しげばあちゃんからのツッコミも入るだろう。
小学生のとき、国語の教科書にこんな詩が載っていたっけ。
「みんなちがって、みんないい」
これは平和の一つの姿だとは私は思うけれど、「となりの山田くん」ふうに言うとこうなる。
「みんなちがうんだから、しゃーないやないか」
映画の最後の方に、父ののぼるが結婚式の慣れない祝辞で汗をかきかきこんなことを口走る。「人生あきらめが肝心です。『仕方がない』『しゃーない』というのは決して消極的なだけの言葉じゃない。これが絶対に必要なんです! 人生を前向きに乗り切っていくには」。
この言葉を聞いていて思い出した。そうだ。たぶん私はあの辛かった日々のどこかで居直ったのだ。何度も何度もこんなふうに自分に言い聞かせてきたんだ。「まあ、しょうがないじゃないか。私は私なんだし」と。この開き直りの精神が私を救ってくれたんだと思う。
「しゃーないやないか」とポジティブに受容できる世の中がいい。人は完璧じゃないんだから間違いだってする、ロボットじゃないんだから歳だってとるし、いつかは死んで行く。今はなかなか「しゃーないやないか」と言えない世の中だ。がむしゃらに闘い続け、周りと競い続け、もっともっとと無茶な理想を追い求め続ける。その耳にはきっと「ホーホケキョ」と鳴くウグイスの声は響いてこない。世界にはぜひとも余白が必要なんだ。人の心にユーモアや自分と違う価値観が入り込んで来られる隙間がなくなったとき、争いは起こるのだから。
『ホーホケキョ となりの山田くん』が世界を救う。と、私は密かに思っている。そんなわけで「となりの山田くん」、いよいよ出番です。
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