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次に撮る映画が決まってないと、
生きていられないんだ!
― わたしたちは「PINTSCOPE」というWebマガジンです。松竹の運営になりまして、今日は木村監督の…
木村 : 松竹か! 俺と山田洋次監督とは通っている蕎麦屋が同じらしいんだよ。そこに、山田監督と俺の映画のポスターが飾ってあってだな、山田監督は俺のポスターをじっと見ていることがあるらしいんだ。
― …はぁ…。
木村 : でも、山田監督のポスターはそこに2枚貼ってある。でも俺のは1枚しかない。悔しいよな!
『散り椿』スタッフ : いや、まだ木村監督の監督作品は、3作しかないじゃないですか…
木村 : もっとやりたいよ! 山田監督は毎年撮ってるじゃないか?
― 監督作は4年に1本では少ないくらい、ということでしょうか?
木村 : まあ正直、ペースとしては3年に1本くらいでいいやって思っているんだけど、次が決まらないと、人生、生きていられないんだ! 「次にこういう映画をやる」というのが決まっていれば生きられるけど。
― 「新しい映画をつくりたい」という覇気をばんばん感じます! 木村監督は、1958年に東宝へ入社されて以降、映画に携わり続けられているわけですが、いまのようにずっと映画への情熱を燃やし続けられてきたんですか。
木村 : 情熱というか、勢いだけは同じかな。18歳で東宝に入社して、その頃から先輩諸氏に向かってこんな調子だったよ。だから、“ものすごい生意気でどうしようもねえ奴”っていうのが俺の評価だった。まあ、10代当時からこんな感じだったよね。で、喧嘩しても、対抗している学校に勝つ。そうやって、その頃からトップの番長だった。……まあ、元気だったってことだね。
― 学生の時も、映画界に足を踏み入れた時も、キャメラマンになっても、監督になっても、ずっとその「勢い」は変わらないということですね。
木村 : でも、そういう中でも「自分の腹を切ろうか」という状況は何度か経験してきた(笑)。それが何とかなったから今も生き残っている…実は一番行ってみたい時代が戦国時代。かの時代だったらひとかどの武将になっている気もするんだよな(笑)。
― ひとかどの武将ですか! 確かに…(笑)。映画界に入る前のトップ番長の時代から、映画には親しまれていたのですか。
木村 : 地元、葛飾区の立石にあった映画館で『七人の侍』(1954年)を中学2年の時に見て「すごい映画だなあ」って思ったことはある。あと、映画としては中村錦之助が主演の『新諸国物語 紅孔雀』(第一集1954年、第二集1955年)とかね。今でいえば劇画とかアニメ映画だよな。そういうのは観ていたけど、まさか自分が映画界に入ってキャメラマンになろうだの監督になろうだの、考えちゃいなかった。
木村 : 東宝に入ったのは、就職のため。その前に11社受けているもの。職工さんとか営業とかいろいろな職種を受けたね。もしその道に行っていたら、60代で定年か…。当然、“いま”なんか無いわけだよな。そんな中で東宝が俺を入れてくれて、撮影所の撮影助手係っていうのになった。当時、東宝一社の撮影助手だけで60人いたからね。
― 規模感がいまと比べて壮大ですね。当時は、監督含めたスタッフがすべて映画会社と専属契約して、監督ごとにスタッフが決まっている「撮影所システム」でしたよね。
木村 : 照明と助手だけで150人はいたよ。撮影所全体で2000人くらいいたわけだから。まあもう、その頃の生き残りで、現役で映画つくっているのは、それこそ山田洋次と降旗康男と、俺と…もうそのぐらいしかいないんじゃないのかな。
― そのように映画制作を撮影所システムの時代から続けられ、キャメラマンを経た後、「監督をしよう」と考えるにいたるきっかけは、何だったのでしょうか?
木村 : 監督を目指していたわけじゃ全然なかったよね。気づいたら重鎮になりすぎたのか、3年に1本くらいしかキャメラマンの仕事がこなくなったんだよ。高倉健さんが主演だったら俺に声がかかる、降旗監督だったら俺に声がかかる、とかそういう限られたところでしか撮影ができなくなってきた。あとは、吉永小百合を撮れるのは俺しかいないっていうことで、『北のカナリアたち』(2012年)も撮ったけれど。
…なかなか俺のところに仕事持って来る監督、いないんだよ! もっと、撮影で俺を使えって話なんだよ!!(笑)。
― 若い監督も、もっと俺を使っていいというわけですね(笑)。
木村 : 「これじゃあもう引退か」と思ったんだけど、67歳の時にやっぱり「映画って面白いから、映画界に残り続けたい。そのためには、どうしたらいいんだろう?」と考えた。それで、「そうだ! 企画を考えりゃいいんだ」と思いついた。それで考えたのが『劒岳 点の記』だった。いま思えば、あんな企画ありえないよね。山ん中2年間も、ほっつき歩いて撮るっていうね……。
でも、どこかにやってもらわなきゃいけないから、自分でプロデュサーもやったんだよ。一応ね、その頃からもう各社の社長も、俺が会いたいって言ったら会うには会うよ。でも、企画提出しても体よく断られることもたくさんある。よく撮れたなと思うよ。
本物を見ておくことが大事!!
― 『散り椿』は、オールロケーション撮影での時代劇ということでも話題ですが、本作の中でも、岡田准一さん演じる主人公の瓜生新兵衛が、亡き妻と昔暮らしていた藩に一人で歩き戻る並木道のシーンは、とても美しく荘厳でした。あのような圧倒されるほどの美しい景色は、どうやって見つけているのでしょうか。
木村 : あの並木道、300メートルあってね。“国境(くにざかい)”って感じがものすごく出しやすいじゃない? “あの先が外の国、こっち側がうちの国”って。この場所は、『劒岳 点の記』の時の10年前に発見している。でも劒岳では使えなかった。だからとってあったんだよ。
木村 : 『劒岳 点の記』以来、「この作品では使えなくても、これならばはまるんじゃないか?」っていう場所がいろいろあるんだ。
― 木村監督の頭の引き出しには、様々な風景のストックがあるのですね。
木村 : 『劒岳 点の記』の撮影の合間で、山から降りて来たときは富山市の近辺をずっと見ていたよ。それは何に使うっていう目的じゃなくて、自分の将来の作品で何かいいところないかなって。しょっちゅういろんな場所を見て、探している。その時に見た風景がよければ、頭の中に記憶として残しておく。それを、新しいシナリオ読む時に「あそこだ」「これは、ここだ」って当てはめていくんだ。
― 監督が「ここだ!」と思う風景のポイントは、どこにあるのですか。
木村 : 俺は、国内だったら47都道府県全部周って、どこも2回ずつは見ている。映画のキャンペーンでいろいろ行ったりすることもあって、もう見てないところはないんだよ。離島もかなり行っている。
行く時は、自分と同い年の1939年製Arriflex 35mmのサイレントキャメラにフィルムを詰めてね。何のあてもなくひとりで旅行に行くんだ。だから、ロケハンと決め込んで行くわけでなく、たとえば、高速に差し掛かったときに「ちょっと北陸へ行ってみよう」とかね。
― 圧倒的な“見てきた量”にある、ということですね。
木村 : 自然のいいものを見ておくってことは、キャメラマンにとってものすごく大切なことだと思うよ。時間と多少のお金があればできることで、それを自分の中にためこんでおく。本物の刀をちゃんと見ておかないと、時代劇なんてできない、というのと同じで、常に“本物を見ておく”ってことだろうな。
― そういう旅行や、ロケハンは一人で行かれるんですか?
木村 : キャメラマンの時代から、ロケハンはだいたい一人で行くんだよ。『八甲田山』から『駅 STATION』から、もう全部ひとりで行って、しかもそれを写真に撮らない。見たものはみんな自分の頭の中に入れてくる。
木村 : 監督の了解をとるときは、喋りだけで説得する。そうやって自分の話術でまずは監督に伝えると「それはすごいところだね」となる。でね、後で監督を連れていくわけよ。1回だけね。そうすると、ロケハンが1日で済むんだよ。お金の倹約にもなるだろう?
― なんと! 経費削減でもある、と。
木村 : いやもうそれはね、事実。特に今は映画をつくるのに、潤沢な資金があるわけじゃないんだから。でも、自分が「ここだ!!」って決めたところは、これまで「違いますね」って言われたこと一度も無いよ。当然、監督になってからも俺がキャメラマンで「ここがいいですね」って言ったら、俺が「いいよ!」と言うだけ。ロケハンの速度は、より速くなっているよね(笑)。
― 木村監督は、なぜオールロケーション撮影にこだわられているんでしょうか。
木村 : 自然と人間が一緒になることから生まれるリアリティや、そこから生まれる情感を大切にしたいからなんだよ。
― 「自然の中にある本物」を見続けてこられたというわけですね。いつ頃からそういったことを意識されていましたか?
木村 : 俺がキャメラマンになったのが、33歳。その当時は大体40過ぎないと映画のキャメラマンはできなかった。だから大抜擢なんだよね。とはいえ高校卒業して1958年に東宝に入社したものの、助手時代は不真面目だったからどうしようもなかったな。
でも、人から時々「こういうのを撮ってきてくれ」って言われることがあって、そういう時にセンスのあるものを撮ってきたことで、いろんな監督からだんだん“あいつ”って指名されるようになった。俺が撮ったものに、何か感性を感じたんじゃないのかな。
とにかく当時は隠れてひとりで撮りに行っちゃうんだよ。当時はキャメラもフィルムもいっぱいあったから。で、「こういうの撮ってきたんですけどどうですか」って見せて「え? おお、いいね、使おうよ」って。そういうケースがいくつかあって、それでキャメラマンになって。岡本喜八、須川栄三、森谷司郎とかああいう初期の頃にお世話になった人たちが、いろいろな実験をやっているのを見ていたのも大きいかもしれない。
今日、インスタを始める
― 木村監督は、1958年に映画界に入られてから、いろいろな監督の試行錯誤の現場で、ご自身も新しい手法を試し続けてきたのですね。
木村 : とにかく、キャメラマンになってからは、そうやって旅に出ては何か撮ってきてみるということをずっとやっているよ。監督になってからもずっとやってるな。今、79歳だから……
― 46年!
木村 : 46年間か。すごいねえ〜、自分でいやになっちゃう(笑)。もう46年キャメラマンとしてやってきているわけね。それで、初めて監督やったのが2009年に封切られた『剱岳 点の記』だから、そこからは兼業だけどね。ちなみに、46年やっているけれど、今日から初めて、インスタグラムを始めることになったんだよな。
― え、監督がインスタを!?
木村 : 俺のなかのロケハンのストックだとか、どれだけ人と会いどんなものを見ているのか、まあそれを世の中に出していくってわけだ。
― 監督の79歳になっても新しいものに挑戦し続ける姿勢や、映画で表現し続けたいという想いは、どこからきているのでしょうか?
木村 : 映画が人生だ、と思っているところがあるからな。……って、かっこよく言えばね(笑)? というか、よく考えたら他に何もないんだよ! 家族は、息子はひとりいるけど自立しているから、結局ひとりの生活。だから、映画しかないんだ。俺の家に来た人はみんなびっくりするんだよ。もう玄関から中まで、全部が映画の世界になっているから。壁は、額に入ったポスターとか、いろいろな過去の名場面とか。シングルベッドの横には、今は『散り椿』のデカいポスター2枚、そして『劒岳 点の記』のポスターも。もうそれだけで満杯なんだけどね。
毎日、寝て起きれば、部屋の中全部そういうものに囲まれている。座る場所の後ろには、映画化したい本が、ダーーーっと置いてある。今回も、俺が時代劇をやるんだったら“本物の場所で撮る時代劇”にこだわろうと、それに合う作品を探して時代小説を150冊くらい読んだよね。
― 日常生活全部が映画ってことですよね。それはもう映画界にはいってからずっとですか?
木村 : いや、入社してからキャメラマンになるまでは、もうサボってばっかりいた(笑)。女性ばかりを追っかけてた、どうしようもないね! でも、自分の撮りたいものを撮れるようになってからは、「映画は、こんなにおもしろいのか!」って。責任持ってやれる仕事ができてからは、そういうことになっているなあ。
この『散り椿』の中でも、主人公の新兵衛が「大切と思えるものに出会えれば、それだけで幸せだと思っております」と話すけれど、振り返ってみれば僕の人生観も同じ。映画を通して黒澤明監督や高倉健さんなど、大切な人と人生の節目で出会ったことで今の俺がある。
― 最後に、日常生活全てが映画になるぐらい、木村監督が映画に魅了され続けている理由を教えていただけますか?
木村 : だってね、映画ってとりかかるたびに、基本的にはゼロから始まるでしょ? そんな職業ってなかなかないよね。常に「これだったらどうしようか」って考えるわけでしょ? だからそういう未知のものに挑戦する面白さっていうかね。ゼロから段々出来上がってくると、「ざまあみろ!すごい映画だろ」って言えるしなあ(笑)。俺は、まだ誰も見たことのないものを、つくり続けたいんだよな。