目次
ポジティブなエネルギーが、
自由なものづくりには必要不可欠
― 現在、HIKARI監督はアメリカを拠点に、山口さんは日本を拠点にしていますが、マライア・キャリーやマドンナなどのミュージックビデオ作品やギャスパー・ノエ監督の作品など、海外アーティストとの仕事を多く手がけていらっしゃいます。日本と海外、どちらのものづくりも知っているお二人から見て、ズバリ最大の違いは何だと思われますか?
山口 : 自由であることを大事にしていて、モノづくりに対しての意識も環境も「窮屈な感じがしない」ということですね。僕は2005年の準備段階から、ギャスパー・ノエ監督の『エンター・ザ・ボイド』(2009)という作品にユニットプロダクションマネージャー(制作の管理とコストの調整をする役割)として関わらせて頂いたのですが、色んな常識を覆されました。
山口 : とにかく、作り方のアプローチが窮屈じゃない。監督やプロデューサーが本当に「自由に」映画をつくっているように感じたんです。日本でこの感覚はなかなか得られないものだと強く感じた瞬間でした。
― 『エンター・ザ・ボイド』は“TOKYO”を舞台にした作品で、実際、東京新宿歌舞伎町で撮影されました。ギャスパー・ノエは、「鬼才」として刺激的な作風で有名な監督ですが…。
山口 : 当然、振り回されました(笑)。数々のトラブルにも巻き込まれるし、「なんでこんなことをやらなきゃいけないんだ?」というジレンマもいっぱいありました。でも、「こんなに自由に映画をつくっていいんだ!」という発見が一番大きかった。何よりもクリエイティブを追求することが最優先されるといいますか。アメリカやフランス、その他多くの国々は、業界全体がクリエイティブな人材を伸ばしていこうという風土を感じます。
HIKARI : 環境の違いはありますよね。アメリカを拠点に制作していますが、脚本家や監督に対して、すごくリスペクトしてくれます。特に今はオリジナル作品をハリウッドが求めているというのもあって、私のようなアーティストを尊重してくれるんです。ハリウッドは、自分たちがつくってきた映画が売れなくなってきて「何が間違ってんのやろ?」と焦っているので(笑)。新しいアーティストをどんどん発掘しています。
山口 : 確かに、脚本家や監督が地位として認められているということはあると思います。アメリカではフィルムメーカーの地位が確立されているから、ユニオン(労働組合)やそのための法律があったり、給料の最低保証があったりして、環境が整っているからこそクリエイティブを追求できるという面がある。日本では、一握りの監督や脚本家しか、そういうイメージがないじゃないですか。
― アメリカに比べると、日本ではアーティストを尊重する空気が薄いと。
HIKARI : もちろん現場ではリスペクトしてくれるんだけど、どこか歯車が合っていない、どこか上から目線なところがある、と思う瞬間がたまにあって。だから、こうやってすごく不思議なプロデューサーが出てくると、ラッキーです(笑)。
― お二人がタッグを組んだ『37セカンズ』は、世界三大映画祭のひとつ「第69回ベルリン国際映画祭」にて映画祭初となる「パノラマ観客賞」と「国際アートシネマ連盟(CICAE)賞」をW受賞し、世界に届く作品となりました。この作品を“不思議なプロデューサー”である山口さんとつくろうと思ったのには、何か理由がありましたか?
HIKARI : 同じ空気かな。私はハッキリと意見を言う人間ですが、彼も自分の意志を強く持ち、自ら制作会社を設立して自分のやりたいものづくりをやっています。そして、彼が手がけた作品もすごく好きなんです。
― 山口さんが設立された株式会社ノックオンウッドは、国と人種と言語、またジャンルや予算の有る無しにとらわれないボーダレスな映像プロダクションを目指されていますね。
HIKARI : 彼が海外のものづくりを経験しているというのが、私にとって居心地が良いんです。今回の作品は日本のチームと海外のスタッフが共存していたので、やはり難しい面もありました。
― 今作には世界で活躍するスタッフがたくさん参加されています。サウンドはポン・ジュノ監督など韓国の監督の作品を多く手がけるサンロック・チョイ、編集にはHIKARI監督の初作品『TSUYAKO』(2011)などでも一緒にお仕事されているトーマス・A・クルーガー、撮影もLAを拠点に活動するスティーヴン・ブレイハットなど。そこに日本のスタッフも加わり、ワールドワイドなチームとなっています。
HIKARI : プロデューサーである彼が海外の仕事をベースの部分でわかっているから、色々な問題が発生しても、最終的には「絶対に理解してくれる」という安心感を持つことができました。日本のルールだけで進めるのは、私には無理だったと思います。
山口 : HIKARI監督は……とにかくエネルギーがありますよね(笑)。もちろん、どんな監督も情熱を持って自分の作品を生み出すわけですからエネルギッシュなんですけど、HIKARI監督からはポジティブなエネルギーしか感じないんです。
僕は、ポジティブさってものづくりをする上で、絶対に必要なものだと思っていて。監督からネガティブなことを言われてしまうと、けっこう興ざめしちゃうところがあるんです。逆に、プロデューサーがネガティブなことを言って、監督に興ざめされちゃうことは多いと思うんですけど(笑)。
― ものづくりをする上での、「ポジティブなエネルギー」が重要と。
山口 : あと、彼女の作品のほとんどは日本が舞台なんですが、そこにある彼女なりの日本を見つめる客観的な目線が、僕にとってはすごく面白くて。
― HIAKRI監督がずっと日本の外で活動していたからこその、客観的視点ということですか?
山口 : はい。彼女の目線はグローバルスタンダードになり得るから、そこにチャンスがあると考えています。日本人としてアメリカで活動してきて、外側から日本を見つめてきた彼女の目線で描いた作品って、間違いなく世界に出ていくチャンスになると思うんです。だから、プロデューサーである僕がそのチャンスを掴みにいくのは当然ですよね。
自分が「壁」だと思っていたものが、
ボーダーを越えていく突破口となる
― HIKARI監督も山口さんも若くしてアメリカに渡られましたが、そもそも何がきっかけだったんですか?
HIKARI : 私は、「自分が知らない世界が、外にはあるはずだ!」と、それが気になって仕方がない子供だったんです。でも、一番大きいきっかけは、中学生時代に友達から仲間はずれにされてしまったことですね。中学校50周年目に私が初の女性生徒会長になったんですけど、ある時、周りと喧嘩して。それまで生徒会長として接してくれていた先生も、その子たちの味方になっちゃって、大人も信用できなくなりました。「この社会が無理!」となったんです。
そんなある日、「英語が喋れたら何億人と友達になれる」って書いてある英会話教室の宣伝ポスターを見かけたんです。で、向こうのカルチャーを学びたいと思って、テストを受けて、高校3年生の時にアメリカのハイスクールに転入しました。
― 高校卒業を待たずして、渡米されたんですね!
HIKARI : 「日本人のいないところに行きたい!」と希望したので、ユタ州に行くことになりました(笑)。本当にアジア人には出会わなかったですね。
― ユタ州は、『37セカンズ』が選出された、世界のインディーズ作家の登竜門「サンダンス映画祭」の開催地でもあります。
HIKARI : その後、日本の大学に行こうかとも思ったんですけど、州立大学なら学費も安いですし、英語だけは喋れるようになるだろうと思って、ユタ州の大学へ進みシアターを専攻して、ダンスと美術を副専科にしました。だから、大学では寝ても覚めても踊ったり歌ったりダンスしたりペイントしたり、舞台の衣装をつくったりっていう生活で。
― 最初から映画を学ばれた訳ではなかったんですね。
HIKARI : 私は子供の頃から合唱団に所属していて、ミュージカルやオペラに出演していたんですが、やっぱりパフォーミングアーツが好きで、その自由な空気が楽しくて仕方なかったんです。その後は、そのまま活動を続けながら、色々な仕事をしましたね。女優やモデルのオーディションは、週に2~30回受けました。受からなければ仕事はゲットできないので、空いてる時間にはスチールカメラマンもやっていました、おじいちゃんからもらったカメラで(笑)。
― それから、アメリカのトップレベルの映画学校であるUSC(南カリフォルニア大学)の大学院でカメラマンと監督について学ばれ、卒業制作として作った戦後のレズビアンをテーマにしたラブストーリー『TSUYAKO』がDGA・米国監督協会で最優秀女学生監督賞を含む合計50賞を受賞し、現在の道へと繋がりますね。
HIKARI : 『TSUYAKO』は、100ほどの映画祭に出品して、20くらいの映画祭をまわりました。レズビアンの話だったんですけど、泣くところはどの国も一緒。終わった後に観客が感想をお話してくれるんですが、「映画のパワーってこういうことなんだ」と、そういう時に私が映画をつくる意味を感じました。
当時は、もし私が日本に帰って何かをするとしたら、絶対に世界的に有名になってからだと思いました。世界に認めてもらってから日本に帰ってきた方が話が早いなと。とりあえずアメリカで成功するまで頑張ろうと思っていました。でも、気が付いたらアメリカが本拠地になっていて。
― 山口さんも若くしてアメリカに渡られましたが、そのきっかけは?
山口 : 僕がアメリカに渡ったのは社会人になってからで、在住期間も3年弱くらいなんです。渡米前はまだ20代で、当時は広告制作会社に勤めていました。日本のルールの範囲で仕事をしていく中で、「このまま日本だけで、ものづくりをしていたらとっても窮屈だろうな。このままでいたら知らずにいることも多くて損をするな」と単純に直感して、突然アメリカに渡ることにしたんです。
― その頃からすでに、日本でのものづくりが“窮屈”と感じられていたと。
山口 : 向こうに行ってから最初の1年は、紹介してもらったカメラマンのアシスタントをやっていました。ほとんど給料なしで。翌年から少しずつ映像の仕事の現場を紹介してもらえるようになって、フリーランスで雑用みたいなことをしながら、徐々に現場に行く機会をもらい、少しずつお金がもらえるようになったんです。
― 山口さんも、最初から映画のお仕事を目指されていた訳ではないんですね。
山口 : それで、ちょうどビザを更新しないといけない時期に、アメリカ同時多発テロ事件が起きたんです。
HIKARI : ちょうどあの頃と重なってたんだ。
山口 : そう。ビザ発行が全部シャットアウトされてしまって、弁護士に問い合わせてもいつになるかわからないと言われてしまいました。それで、日本に帰ることに。そのときにちょうど『ロスト・イン・トランスレーション』(2003)が全世界的に大ヒットして、あの作品を観た世界中のクリエイターたちがこぞって日本での撮影を希望するというブームが起きたんです。
― ソフィア・コッポラ監督の『ロスト・イン・トランスレーション』は、日本を訪れたハリウッドスターと有名写真家の妻との出会いと別れを描いた作品で、新宿など色々な日本の場所が出てきます。
山口 : あの映画を観て「あんな場所で撮りたい」と思うクリエイターが続出したから、僕も含めた周りの皆に海外からのオファーが押し寄せました。あの映画には、カラオケボックスとか新宿歌舞伎町のネオン群とか、海外から見るとユニークなロケ場所がいっぱい出てきますから。
その波に乗っかってオファーを受けるうちに、日本にいれば、世界中から仕事の話がきて、さまざまな国やカルチャーの人と映像の仕事ができるなと思ったんです。アメリカにいればいつかは“ハリウッドメジャー”みたいな仕事ができたかもしれませんが、そこに辿りつくまでのハードルも果てしなく高い。それに、アメリカは多国籍とはいえ、アメリカベースの仕事以外に触れる機会はほぼありません。
― アメリカでの経験を経て、「日本でこそボーダレスに仕事ができる」と発見したんですか。
山口 : 『ロスト・イン・トランスレーション』がすべてを変えましたね。「日本撮影できるじゃん!ポップな場所もトラディショナルな場所もたくさんあるんだ!」って(笑) 。それまでは、『ブラック・レイン』(1989)のときに広まった「日本は撮影しにくい」というイメージが根強く残っていたんです。日本との合作映画も少なかったし。
HIKARI : 結果的に、『ロスト・イン・トランスレーション』で日本へのオファーが爆発したタイミングと、帰国のタイミングが重なったことが大きかったんだね。
― その後、お二人はLEXUS SHORT FILMS(世界中の意欲的なクリエイターが、国際舞台でショートフィルムを披露するチャンスを得られる若手支援プログラム)の第1回に、HIKARI監督が選出されたことをきっかけに、出会うことになります。
HIKARI : 私は日本で活動していたわけではなかったので、日本の制作会社を全然知りませんでした。それで、メインのプロデューサーの方に山口さんを紹介してもらったんです。その後、私は3作目の短編も東京で撮影したんですが、その時に彼から「次の作品を手伝いたいから何でも言って」と声をかけてもらって。アメリカで制作した4作目の短編『Where We Begin』で、色々と作業工程をサポートしてもらいました。そういうわけで、今回 『37セカンズ』の脚本を書きあげたとき、すぐに彼に電話しました(笑)、「やれへん?」って。
― HIKARI監督の作品『TSUYAKO』や『Where We Begin』などで、監督だけでなくプロデューサーも務められています。『37セカンズ』も山口さんと共同でプロデューサーを担当されていますね。
HIKARI : これまで、企業からお金をもらってない作品に関してプロデュースも自分で担当 してきたので、『37セカンズ』も自分でプロデュースするのは自然なことだったんです。今回も脚本を書きながらお金を集めたり、声をかけたり。アメリカではファウンディングやピッチ(投資家などに対する短時間のプレゼンテーション)をできる場所がいろいろあって、NYやLAで数百作の自主映画の中の10本に選ばれました。LA では3日間の間に60社とかと話をするんです。
― 60社ですか!?
HIKARI : セールスエージェント、ディストリビューター、事務所、キャスティングディレクターなどいろんな人が来るんですけど、15分話して5分休憩、というのを10セット午前中にやって、また午後に10セットやる、ということを続けました。でも お金を出してくれるところは見つからなかったんです。
次のNYで300社程の中から20社と話しましたがお金は集まらず。1年近くは頑張ってたんですけど、「脚本は面白い」と言ってくれても、アメリカでは設定が日本で、しかも日本語というのも壁のひとつになっちゃうんですよね。もう自分で東京でやるしかないと思って、アメリカの家を空っぽにして、倉庫に全部荷物を詰めて、 2017年の12月に一人で東京に帰ったんです。
― で、山口さんに「やれへん?」と声をかけたと。
山口 : でも、そのときはまったくのゼロベースで。とりあえず始めた、という段階でしたね。日本でも1番の壁は、脚本を見せても手を挙げてくれる人がなかなかいなかったことです。日本だけじゃなくて海外でも「女性監督」「初長編」というだけで3割、4割減という感じでした。
HIKARI : 男性だけじゃなくて女性プロデューサーも言うんですよ!? 女性監督、初長編、障害者の女の子が主人公、そして無名……「あ、無理です。いいです」って。
― 『37セカンズ』は、脳性麻痺により手足が自由に動かない女性・ユマが主人公です。そのことも壁になっていたと。
山口 : 日本はもちろん、アジア、ヨーロッパ、アメリカで色々な人に脚本を見せましたが、なかなか受け入れてもらえなくて。
― 主演の佳山明さんは実際に脳性麻痺を抱えていて、演技も未経験でした。
HIKARI : 主役は誰にする? となったときに、「健常者の俳優が、障害者のヒロインを演じることには違和感がある」と主張したんです。どうしても見つからなければ仕方がないけれどと。
山口 : 製作段階ではそれが第一の壁になりました。今振り返ると、「あの時は自分で壁をつくったな」と反省している部分でもあるんですが、そのときはまずリスクを考えてしまって。でも一方で、「この役に本気で向き合える健常者の俳優がいるのかな?」という疑念もあって。
― それは、なぜでしょうか?
山口 : この作品はずっと主役・ユマの視点で描かれますし、障害を持つひとりの女性として精神的に自立し成長するまでの変化を、リアリティを持って表現できなければいけません。プロデューサーとしては“役者でやりたい”、監督としては“リアリティを追求したい”、「でも演じられる人はいるの?」ということで、健常者の俳優という可能性を残しつつも実際に障害を抱える方々のオーディションを行いました。
― そのオーディションで佳山さんを見つけたんですね。
山口 : はい。今作は、「サンダンス映画祭」と「NHK/サンダンス・インスティテュート」のNHK推薦作品だったので、NHKの土屋勝裕さんに佳山さんを撮影したオーディションビデオを見せたら、数週間後にはNHK内での承認を集めてくれたんです(土屋勝裕さんは本作のシニアプロデューサーを務めている)。
― 最初は壁だったはずの「主役を演技未経験の障害者が演じる」という選択が、結果的に企画を進めるきっかけになったと。
山口 : はい。彼女を見つけたことが、これはやり切らねばという大きな推進力に繋がりましたね。
環境にとらわれる必要はない。
あなたの隣には必ず理解者がいる
― お二人がタッグを組み、様々な壁を越えてつくられた『37セカンズ』は、世界中の映画祭で上映され、ベルリン国際映画祭ではW受賞しています。映画にボーダーはないことを証明されましたね。
HIKARI : ベルリン国際映画祭で受け入れられたという実感がありました。映画祭では私も1度は観客と一緒に作品を観るんですが、ドイツ、トロント、エジプト……どこの国の観客も、泣くところと笑うところは一緒でした。障害者の方もたくさん観に来てくださって。特にドイツは多かったです。日本語でも作り手の意志やメッセージがあれば、世界中どこでも認めてもらえるんだ!と強く感じましたね。
私は、「前向きになれた」「昨日よりも半歩でも前に進めた」と思える作品をつくっていきたいと思っています。苦労してこの映画を作って、結果的にベルリンで何千、何万人の方に観ていただけたことは、私たちのひとつのステップになりました。今はハリウッドをはじめ、世界からオファー頂いているので、「これでやっとスタート地点に立てた!」という感じです。
― HIKARI監督は、今後もマイケル・マン監督が総指揮するワーナー・ブラザースとHBO Maxとのテレビシリーズなど、話題となる企画の製作がすでに決まっていると伺いました。
山口 : この作品のテーマでもある「バリアをつくっちゃいけない」ということは、映画製作においても言えると思います。「映画づくりはこういうもの」とった先入観や偏見や常識にとらわれて仕事をするよりは、それを解き放った方が良い結果を生み出す確率が高いと思います。特に、世界的な評価を求めるのであれば重要です。日本式、海外式という壁ではなく「もっともっと自由に」。
HIKARI : 思考のバリアフリーと言いますか。バリアをつくっているのは自分自身なんですよね。「これできない!」って言ったらもうできないけれど、「難しそうだけど、こっちにチャレンジ」って言った瞬間、ちょっと前に進むことができる。だからこの作品を通じて、少しでも前に進んでいくことの大切さが皆さんに伝わったらいいなと思います。
― 『37セカンズ』をつくる上でポジティブに壁を乗り越えていったおふたりは、「自由」というキーワードで共鳴しているように感じます。
山口 : ギャスパー・ノエ監督と映画づくりをした際に得た「映画はもっと自由につくっていい!」ということを、この作品で少し実現できたような気がします。配信などの参入によって映画を取り巻く環境とプラットフォームがどんどん変わっていく中で、「日本orアメリカ」と言ってられない状況だと思うんですよね。それに対して、もっと作り方も自由になっていかないと。
HIKARI : 別に、日本人だから日本でやらなきゃダメということはないと思うんです。配信など媒体も大きく変化しているし、環境にとらわれる必要はまったくない。プロダクション会社なんてインターネットで調べればすぐに見つかるんだから、色んな場所で撮影すればいいし、「ここのこういう人たちとつくらないとダメ」というのは全部とっぱらっていいと思います。
― HIKARIさんにとって、映画をつくる上でプロデューサーの力というのはやはり大きいでしょうか?
HIKARI : 監督とプロデューサーのバランスってチームワークなんですよね。私が「どうしてもやりたい」ということがあっても、プロデューサーが最終的にOKを出してくれなければ何もできないわけだから。監督にとってプロデューサーが最高の理解者じゃないと、最高のものはつくれないと思います。
私にはぶっとんだアイデアがあるわけではないけれど、やっぱりワガママを言うときはあります。今回の撮影でも、何度も何度もテイクを重ねましたし、キャストと激しくぶつかったこともありました。そこを丸め込もうとするのではなくて、「じゃあ、それをどうやったら実現できるかな?」と考えてくれるのがありがたいですよね。
山口 : 日本にも、世界スタンダードな仕事ができるクリエイターって多いんですよ。でも、それを世界に向けて伝えられるプロデューサーを育てられないから、せっかく才能ある人がいても、世界に出していけないという現状があると思います。そういう意味でのプロデュースの方法や、ビジネススキームの作り方を知らないんですよね。
映画業界に限らず、才能のあるクリエイターは日本にたくさんいますから、そういった日本独自のビジネススキームを変えていかないといけないと思います。それができる人材を、映画業界もテレビ業界も育てていかないといけませんよね。
HIKARI : 日本映画がビジネスとしても世界標準に近づけば、もっと作品が世界中で観られるようになるはずです。
― 最後に、「ボーダーは超えられる!」とお二人の背中を押してくれた映画を教えてください。
山口 : 何だろう…難しいな…。一番最初に背中を押してくれたという意味では、小学校時代に観た『グーニーズ』(1985)ですね。
― リチャード・ドナー監督の冒険映画ですね。少年たちが海賊の隠した財宝を探しに行く物語です。
山口 : 『グーニーズ』は幼いながらに「知る」という楽しさを教えてくれました。あとは、自分が多感で色々なことに巻き込まれていた時に観た『トゥルー・ロマンス』(1993)も、自分が映像の世界に入るきっかけをくれた作品です。あの映画を観たときに「脚本って、映画にとってこんなに大事なんだ」ってことに初めて気づいたんですよ。「なんだ? この脚本を書いている“タランティーノ”っていうやつは」ってなって(笑)
― 『トゥルー・ロマンス』は、クエンティン・タランティーノが脚本、トニー・スコットが監督を務めた、バイオレンスアクションですね。
山口 : そこからタランティーノを追いかけ始め、映画に本格的にフォーカスし始めることになるんです。
― HIKARI監督はいかがですか?
HIKARI : いっぱいあるけど、やっぱり『風の谷のナウシカ』(1984)かな。幼いながらに死ぬほど観たのを覚えていますね。
― いわずとしれた、宮崎駿原作のアニメ映画の傑作ですね! ナウシカも世界を切り拓いていくヒロインです。
HIKARI : 主人公のナウシカがすごくかっこよかったし、人間と自然が一体となっていて、それらを調和させるために奮闘するナウシカを見て、「あたしもナウシカになりたい! 絶対にナウシカになったんねん!」と思いましたね(笑)。あと、若い時に観た『典子は、今』(1981)という映画は、『37セカンズ』に繋がっている作品でもあると思います。
― サリドマイド児の辻典子さん本人が主演し、典子さんの日常を描いたセミドキュメンタリー映画ですね。
HIKARI : 映画の最後に、腕がない典子が新幹線に乗ってお弁当を食べようとするシーンが出てきます。自分ではお弁当の箱も開けられないし、手で食べることもできないから、隣の人に「すいません。お願いします」って頼むんです。そしたら、隣の男の人は「いいですよ」って介助してくれて、「おしぼりあけましょうか?」と聞いてくれる。で、典子は「食べさせてもらっていいですか?」と申し訳なさそうにお願いする。隣の人は食べさせてくれるんです。
― 典子がボーダーを自身で乗り越えていった瞬間ですね。
HIKARI : そのやりとりを見たときに、「例え孤独を感じたとしても、隣を見たら絶対に意気投合する人はいるんだ」って思ったんです。それは家族じゃなくて、他人かもしれません。人間と人間が手を繋いで生きていくって、こういうことなんだって思いました。
何十年かぶりに観たら、ビジュアルなど自分が初めてつくったショートフィルムに似ているものがあったりして驚きました。映画が、自分の中に響いて残っていたんだと思いますね。