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素直な感情で踊りたい、無理して笑わなくたっていいんだ
― これがタップシューズですか?
熊谷 : そうですね。(音を鳴らす)
― わあ……。生で聴くと、より自分の身体にタップの音が響き渡る感じがしますね。以前、熊谷さんがインドの打楽器のタブラ奏者であるU-zhaan(ユザーン)さんとセッションされたライブを見る機会がありました。時に激しく、時に寂しく、時に喜びに満ちる、そんな喜怒哀楽が垣間見える熊谷さんのタップは、今までのタップの概念を打ち破るものでした。テレビ番組『情熱大陸』(TBS系)で、熊谷さんのスタイルを“魂の踊り”と表現していましたが、まさしくその通りだと感じました。
― 15歳で本格的にタップダンスを始められたきっかけは?
熊谷 : グレゴリー・ハインズが主演する映画『タップ』(1989年)を観たのが大きなきっかけのひとつです。
― タップダンサーの神様であるグレゴリー・ハインズが、一人のタップダンサーの生涯を演じる作品ですね。浮き沈みの激しいエンターテイメントという世界で、タップで戦おうと奮起する姿や、刑務所でタップの情熱を再び燃え上がらせる姿が、とてもリアルでした。
熊谷 : 割とリアルなタップダンサーの生き様が、描かれていると思います。実際に、アメリカには獄中でタップを学んだプロダンサーもいます。オーディションを受けたダンサーが上手すぎて落とされるというシーンのように、本物のタップダンサーであればあるほどエンターテイメントの世界では仕事を得ることが困難であるという「ショービジネスの矛盾」も描かれていて、共感できます。
― 映画の中の世界は、やはり現実に近かったんですね。
熊谷 : 「本物」が差別される描かれ方も印象深いですよね。人種差別が今でも続いている状況が、タップの世界にはあります。アフリカ系アメリカ人の歴史的な背景からつくり出されたタップとは、どういったものなのか。この映画からは、その系譜が見えるんですよ。そういう点でも歴史に残る作品だと思います。タップダンスの一般的なイメージは『雨に唄えば』(1952年)のようなミュージカル映画の印象が強いですが、タップそのものの本質に迫る作品は少ないんです。
いちばん印象に残っているのは、主役のグレゴリーがブロードウェイ・ミュージカルのオーディションを受けるシーン。監督に「もっと笑って」と言われて、それに従えず怒ってしまい、オーディションに落ちてタップシューズを捨てるシーンがあります。あのシーンはとても象徴的でした。例えば、現在でも子どものタップの発表会などを観ると、みんな「笑顔」で踊ることを指導されます。自分の感情に関係なく、ただハッピーに見えることを要求されるんです。映画の中で描かれる「もっと素直な感情で踊っていいのではないか」というグレゴリーのメッセージが、当時15歳だった自分にすごく刺さりました。自分は自分のままでいいんだと。
― そう言われてみると、舞台上のエンターテイナーが「意味なく笑顔」という光景を見かけることは多いですね。
熊谷 : 現在でも多くのミュージカルの中で、タップダンサーは「とにかく笑顔でタップダンスを踊っている」イメージが強いですね。なんとなく能天気なイメージというか。そのルーツをたどれば、1980年代から始まったミンストレルショウの中の「ブラックフェイス」という歴史にあります。黒人が舞台上に立つとき、顔をことさら真っ黒に塗って唇を赤く塗るという化粧をしなければ、舞台に立ってはいけない時代があったのです。
― 黒人は、舞台上でひとさまに素顔を見せてはいけない、という時代があったということでしょうか?
熊谷 : それは奴隷を解放されても一部の白人たちによって、黒人たちのイメージが間抜けなイメージとしてつくり上げられたのだと思います。それを打ち破ったのがビル・ボージャングル・ロビンソンというタップダンサーでした。黒人で初めて素顔で舞台で踊った人です。みんな彼を見て「なぜ黒人が素顔?」と驚いたそうです。今ではビヨンセなど、アフリカ系アメリカ人がエンターテイメントのメインストリームにいるのは当たり前だけれど、それはビル・ボージャングルをはじめ、ルイ・アームストロングやサミー・デイビス・ジュニアなど偉大なアーティストたちがアートの力で道を切り開いたからでしょう。
― 自分は自分のままでいいんだと、ビル・ボージャングルは行動でしめしたと。
熊谷 : 実際、ブラックフェイスのピエロ的なイメージは、タップダンスに今なお強く残っているのではないかと思っています。タップダンスの持つリズムや音楽性といった芸術性は、まだアメリカでも正当には認められていないのではないでしょうか。
ただ、グレゴリーはそのイメージを確実に変えた一人でした。彼のダンスは、ただひたすら床に向かって自分のリズムを歌うようだった。自分の感情をリズムとして芸術的に表現したんです。それは衝撃的な革命であり、現代的なタップダンスのスタイルの基盤を創ったと思います。本来の姿がきっとそうであったように、ブルースやジャズといったアドリブ重視の音楽表現と同様、タップダンスは「自由な表現」になり得たのです。それは元々自由に足を踏み鳴らし、感情を生活の中で表現していたアフリカへのルーツの回帰でもあったように思います。
子どもの時に見た星の輝きが、僕の表現の始まり。
― 熊谷さんのタップ人生は、グレゴリーの革命的なダンスを映画の中に見つけたことから始まったんですね。
熊谷 : 実は映画以外にもうひとつ、タップを始めた大きなきっかけがあります。偶然テレビで、グレゴリーと共にサミー・デイビス・ジュニアというアーティストが踊る姿を見たことです。それは、サミー・デイビス・ジュニアの生誕60年を記念する番組だったんですが、死期が近くてもうほとんど歩けない状態の彼が、タップシューズを履いたらそれまでが嘘のように踊ったんです。サミー・デイビス・ジュニアは、僕が当時好きだったマイケル・ジャクソンの尊敬するアーティストの一人でした。
― マイケル・ジャクソンがお好きだったんですか。
熊谷 : 大好きでしたね。家で、親が録画してくれたマイケル・ジャクソンの映像ばかり観ていました。
― ダンスを始める前の幼少期は、病弱だったとお伺いしました。
熊谷 : 「病弱」というのは、すこし誇張されていますけどね(笑)。喘息持ちだったので、夜中に発症して病院に運ばれることがよくあったんです。今は喘息の薬も進歩していますが、当時は薬がなかったので応急処置ができなくて。その頃は本当に辛かったですね。だから、小学生の頃は学校を休みがちでした。友だちとも遊べなかったので、マイケル・ジャクソンの映像を見て踊る真似をしていました。
― マイケル・ジャクソンのどんなところに惹かれたのですか?
熊谷 : 同じ人間なのに、身体ひとつであれだけの大観衆を熱狂させる表現ができることですね。スーパーヒーローだと思いました。あそこまでストイックに高みを目指して、すべての精神をエンターテイメントに捧げて前に進んでいる表現者は、今でもいないんじゃないかな。でも、彼は孤独でもあったはず。その孤独感が、いつも家にこもって友だちのいない自分と重なって、自分とマイケルはどこかでつながっているように感じていました。だから、彼に関する悪いニュースが流れると悲しくなりましたね。
― 「孤独」という部分に、マイケルとご自身を重ねて見ていたんですね。
熊谷 : そういう時間があったから、いろいろ考えることができました。その時間の中で、感性みたいなものが形成されていったと思います。夜中に喘息の発作が出て、親に担がれて病院に運ばれるときに見た星空の輝きを、今でもよく覚えているんです。意識が朦朧としていましたが、星の輝きが普段よりも、ものすごく美しく見えて、その輝きが今思えば生命の輝きだったような気がしているんです。
呼吸が苦しい中で見たあの風景が、自分の表現のルーツだと思います。言葉にするのは難しいんだけど、自分にとって表現することは、精一杯生きること、そして「命と光」というものをポジティブに共鳴させたいということなのかなと…。
― 「命と光」とは、どういうことでしょうか。
熊谷 : 「表現」は、視覚で捉えられる世界を表すだけではなく、イメージする世界や無意識の世界をアウトプットすることでもあると思うんです。単純に目に見えていることだけではなくて、心の中で見えているもの、聴こえていることをどのようにタップを通して、リズムを通して伝えるかということを考えています。自ら湧き出るエネルギーを出すことが「表現」だとすると、そのエネルギーはポジティブにもネガティブにもなり得ます。僕自身はタップダンスに出会ったことで運よく、自分のエネルギーをポジティブにアートとして表現することができるようになったのではないでしょうか。タップダンスに救われたのでしょう。
アメリカにおいても、楽器やダンス、バスケットボールは、ギャングの道から遠ざけるための手段であるとも言います。人のエネルギーは矛先によって、「アート」にも「犯罪」にもなる。
― アートになるか犯罪になるか、その差は紙一重だと。
熊谷 : 「命」についても、その「生と死」、両方の強さがエネルギーの源となって、表現に生まれ変わるのだと思ってるんです。だから、死にたいと思っている人こそ、何かのきっかけで「生」の方にエネルギーを向けたら、ものすごく強い光を放つことができるはずです。「影がなければ光もない」という言葉が好きですが、一見ネガティブであると思うことも、ポジティブな光を放つためにはとても必要なエネルギーなんです。黒人たちが辛い境遇からアートという光を生み出したように。
僕は15歳で本格的にタップダンスを始めてから、幸運にも好きなことに出会い、一人でニューヨークへ渡り、自分でも想像もしなかったような出会いも経験してこれまでやってきました。ただそれまでのしんどかった事も、今思えば自分が成長するためには必要な糧であったなと思えます。
― 引きこもりがちだった熊谷さんは、15歳のときにグレゴリーやサミー・デイビス・ジュニアのタップに出会われてからエネルギーが「生」、つまり「光」の方に向かわれたということですね。そして、それを表現していると。
熊谷 : 映画の中のグレゴリーやサミー・デイビス・ジュニア、そして多くのマスターと呼ばれるタップダンサーの姿は、僕の生き方に光を与えてくれました。僕はこういう人たちのように、タップを死ぬまでやり続けたいんです。
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