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家から大量に見つかった映画のパンフレット
― 今日は、タキシード姿がきまっていますね。(このインタビューは映画『億男』完成披露試写会の前に行われたため、大友監督はタキシード姿でした)
大友 : インチキマジシャンみたいになってない? 着せられている感じしない? 大丈夫?
― 大丈夫です(笑)。
大友 : すごいお客様でしたね、4000人だっけ?
― 自身が監督した作品を、一度にこれだけの大人数が観るというのは、どういうお気持ちですか?
大友 : なかなかないことですよね、4000人のリアクションを感じることができる機会なんて。今日みたいなことが体験できるから、僕は映画監督の道を選んだのかなとも思います。でも、振り返ってみると、自分は映画は好きだけど、「映画監督になる」という意識はまるでないまま生きてきたんですよね。
― そうなんですか!?
大友 : たまたまNHKに就職して、ドラマを制作し、たまたまいろんな出会いがあって映画監督になって、現在に至るというだけ。
― どんな少年時代だったんですか?
大友 : 僕は野球少年だったんです。でも、ひざを痛めて高校で野球ができなくなった。その後も他のクラブ活動で頑張ろうとしたけど、気持ちが続かない。そういう時期に一人で映画館へ行き、ずいぶん映画を観るようになりましたね。で、大学は何となく弁護士を志望して法学部へ入った。映画を観るのが好きだったけど、当時は映像をつくりたいと思ったことはなかったし、ましてや現在やっているような映画監督を想像したことなど一度もなかったですね。
― 趣味のひとつが、映画鑑賞だった。
大友 : それでいうと、最近引っ越したばかりなんだけど、家に異常なほどの量の映画パンフレットがあるのを発見してしまって。
― 異常な量(笑)。それは、引越しが大変ですね。
大友 : 「えっ、こんなにあるの!?」と、自分でも驚いてしまうぐらい(笑)。しかも小学生くらいの頃から大事にしていたコレクションも捨ててなくて。今手元にあるってことは、大学に入って東京に来た時も、就職して最初の勤務地である秋田へ赴任した時にも持って行っていたし、また東京へ戻った時も、結婚してからもずっと自分のそばにとってあるってことなんですよね。ここ十数年、忙しくてその存在を忘れてました(笑)。倉庫の奥に全部ありますよ。で、まあそういうパンフレットやチラシとかを見始めちゃって、引っ越しが進まない。
― (笑)。久しぶりに見直して、どうでしたか?
大友 : 「こんなのも観てたのか」とか「ああ、こういう映画に夢中だったなあ」って。『サタデー・ナイト・フィーバー』(1977)とか『タワーリング・インフェルノ』(1974)とか『オーメン』(1976)とか、女優のナスターシャ・キンスキー好きだったんで『テス』(1979)とか、ポール・シュレイダー監督の『キャット・ピープル』(1981)とか、野村芳太郎監督の『震える舌』(1980)とか衝撃的だったし、松田優作さんの『遊戯』シリーズ(1978、1979)や角川映画とか、相米慎二監督だったら『魚影の群れ』(1983)とか、すごいランダム。あ、今思いついたのでいうと…(※…ここから様々な映画タイトルが大友さんの口から語られる)。ミニシアター系の映画館で上映されるような映画のパンフレットが多かったな。
自分が大学生の頃はバブルの時代で、東京にミニシアターの映画館がたくさんありました。レオス・カラックス監督とかジャン=ジャック・ベネックス監督のような人たち(ヌーヴェル・ヴァーグ以後のフランス映画界に「新しい波」をもたらした監督たち)が新しい映画を創り始めているタイミングでしたね。その都度、新しい映画が観れるって、心密かに興奮していました。アキ・カウリスマキ監督の『マッチ工場の乙女』(1990)とか衝撃的だった。ジム・ジャームッシュ監督の『ストレンジャー・ザン・パラダイス』(1984)を観て、劇中で使われた曲を歌っていたスクリーミン・ジェイ・ホーキンスのCDを買いに行ったこともありましたね。「こんなものが、あるのか!」と驚いた。そういう映画がすごい好きだったわけですよ。
― 本当に映画がお好きなんですね。思いが溢れています(笑)。
大友 : そうやって、かつて自分が映画からどんな刺激を受けたかを思い出しまして。自分でも驚くくらいの量の映画を観ていたみたい(笑)。当時は純粋にお客として映画を観ていました。
作家性と組織の狭間で見えてきたこと
― 就職されてからは、ドキュメンタリーやドラマなど様々なテレビ番組に携わった後、ロサンゼルスに留学されたんですよね。
大友 : 留学したのは、1997年なので30歳手前の頃です。会社の「次の時代はハイビジョン。画面も大きくなり、テレビと映画の境界も無くなっていくから、映画の勉強を誰かにさせなくては」という意向で、モルモットみたいな感じでアメリカへ(笑)。
― (笑)。大友さんに白羽の矢が立ったというわけですね。そこでは何を学んだのでしょうか?
大友 : もちろん演出や脚本について勉強しに行ったんですが、何しろ一番驚いたのが、とにかく映画産業を志す若者が多くて、業界自体に活気があること。つまり、“ビジネスとしての拡がり”というか、“エンターテイメントの基盤の強さ”というか。
― スケールの大きさを、学生として体感されたと。
大友 : 最新の機材や考え方が、次々と現場から教育現場にすら流れ込んでくる。まさに産学共同みたいな土壌があるように思えたんですよね。自分が知らない類の「巨大な産業」として、手の届かない大きな歯車が動いている。ハリウッド映画っていうのはその力を借りて、あくまでビジネス主導で動いているかのように見えて。
一方で、「自分のやりたいことをやるんだ! 予算なんか関係ない、好きなことやろうぜ!」という気概を持った作品もある。そして“後世に残る作品”とは、むしろそういう中で生まれてくるのだということも感じました。そういう類の日本映画にもこの期間に触れることができたんですよね。
― アメリカで、ですか?
大友 : 最初に通っていたUSC(南カリフォルニア大学)の映画学科、そこの学長の部屋には黒澤明監督と小津安二郎監督の作品のパネルが飾ってあって、映画を学ぶ者の必修映画で小津監督の『東京物語』(1953)とか数々の日本映画が選ばれていてね。僕もライブラリーから借りて、小津、成瀬巳喜男、大島渚などの作品を観まくって。とりわけ60〜70年代につくられた映画のちょっと尖った感じや、ATG(日本アートシアターギルド)に惹かれましたね。寺山修司さんの映画とか高橋伴明さんの『TATTOO<刺青>あり』(1982)とか、アメリカで日本映画を観まくっていたという。まあ、ホームシックもあったのかもしれませんけどね(笑)。
― 海外に出て、初めて出会った日本映画があったんですね。
大友 : 本当にそうなんですよね。アメリカにいた時期に黒澤明さんが亡くなられて、ひとりで追悼週間を開催して、部屋にこもって黒澤作品を全部観まくったり。そのうち今度は伊丹十三監督の全作品を制覇したり、とか。気づけばますます「あれ、俺はアメリカ行って何しているんだろう」という状態に(笑)。
― 大人になると、なかなか映画をまとめて観る時間をつくれないことが多いので、それは貴重な時間ですね。
大友 : 当時僕が観ていた日本映画の中には、“どうやって自らの作家性を生かした映画を、自由に創っていくか”ということを模索していた痕跡が垣間見られたように思います。同じころ、LAで『仁義なき戦い』(1973)の上映会があり、そこに足を運んだのをきっかけに深作監督の作品も改めて観まくりました。『蒲田行進曲』(1982)などの娯楽大作を手がける一方で、僕が大好きな作品なんですが、『火宅の人』(1986)みたいな、すごくエモーショナルな文芸作品も手がけられている。そのオールジャンルぶりに驚きました。
あ、そうそう当時のパンフレット、これも見つけたんですが、森谷司朗監督の『八甲田山』(1977)とかも時々観直してはいつも勇気をもらうけれど、あれだって高倉健さんのような方の掛け声もあって、あんな過酷な環境で撮影することができたと伺いました。高倉さんが雪の中で「雪が積もるのを待とう」って言ったらもうみんな待つしかない(笑)。
― それは、どんな勇気ですか?
大友 : それくらい映画に賭けていた人たちがいた、ということでしょうか。あえて困難に足を突っ込んで映画を撮る、というか。そういうものに触れると、シンプルに「自分も、もう少し頑張ろう」と思います。
覚悟を決めて、ボロボロになって進んだ先に、
新しい風景が見えてきた
― 留学先で、映画の新たな側面に触れたわけですね。
大友 : 留学を経て、どうやってそれらを自分に生かすかということは、徐々に実践の場で挑戦していきました。というか、組織の内外に関わらず、自分の好きなことをやろうとしたら、「必要なことすべてはやる」と覚悟を決めるしかない。かっこいい理屈なんてひとつもない、もうボロボロですよ。
99年に帰国後『ちゅらさん』などの連続テレビ小説で場数を踏み、2007年の『ハゲタカ』くらいからやっと、少しずつ自分がやりたい演出方法などの挑戦を試せるようになったという感じです。「思い切り画面上で陰影をつけちゃえ!」とかね。そういう演出は、当時のNHKではあまり好まれていなかった。だからそれを大河ドラマ『龍馬伝』でやった時には、まあ、予想通り色々反響がありましたよね、ポジティブもネガティブも含めて。でも、それがいいことか悪いことかはわからないけれども、“評価は観てくれた人に問う”というスタンスで、覚悟を決めて進めてましたね。
― 『ハゲタカ』は映画化もされました。
大友 : 『ハゲタカ』(2009)で、「映画館で観る快感」ではなく、自分で創ったものを「映画館で観てもらう快感」を味わったのは大きかったかもしれない。「やっぱり映画っていいな」ていう。視聴環境がテレビとは違いますから、集中して観てもらえる。でも、映画監督になって今僕が撮っている映画が、自分が大好きで子どもの頃から観ていた映画に近いかっていうと、そんなことはなくて。でも、語弊がないように言っておくと、それは今の自分が好きではないものを撮っているというわけでもなくて。
― と、言いますと?
大友 : 「自分が好きで観る映画」と「自分が撮る映画」っていうのを、どこか意識の中で線引きしているという、そういう感覚があるんですよね。
それはテレビからキャリアをスタートさせた自分が、より多くの人が楽しめるエンターテイメントを求めてドラマや映像に関わってきた習性なのかもしれませんが。どんな仕事でもそうだと思うけれど、自分の好きなことだけをやっていられるわけではないし、それが「仕事」っていうだけのことなのかもしれないけど。
― 映画監督になっても、悩みは尽きないということですか。
大友 : フリーになってからはさらに、「監督がビジネスについて知らないとだめだ」と、より真剣に考えるようになりましたね。実写化したいとすら思った『黒澤明監督VSハリウッド』というドキュメント本があります。そこに描かれているハリウッド映画のシステムの中で、黒澤監督が当時苦しんだようなことと似たようなことは、現場では日常茶飯事として起こってますからね。
― ドラマで枠を壊し、今度は映画で枠を壊されていると。
大友 : 枠を壊すというのは大げさですけど、とにかく忙しいことは間違いない(笑)。納得いかないことがあると、どうしても首を突っ込んじゃいますから。ひとつひとつの仕事を一人で戦っていると、やらないといけないことがたくさん増えすぎてしまって。まあ自分自身の人生を考えると、クリエイティブにとにかく集中したい、ビジネスの側面は誰かにお任せして、と思うようになりました。
実は、その一歩として、去年自分で会社をつくり、『億男』の撮影が終わった直後、その会社で企画した映画をこの夏に1本撮り終えました。僕的には今まで自分がやっていた仕事と真逆のタイプの作品で、意欲的実験作という位置付け、というか。まだ発表できないのが残念ですが、ただ、この作品の撮影を通して新しい風景が見えたことは確かです。
― では、これからがまた新たなチャレンジですね。
大友 : まあ今まで通りですが、ひとつの方向性に決めるのではなく、柔軟に、ね。映画監督という仕事は、好きなことを好きにやれって言われたら、滅茶苦茶になっちゃう面もある。映画は多くの人が関わる総合芸術だから、自分一人では成り立たない。そういうある種の不自由をどう受け入れるか。と同時に、そういう不自由をどう減らしていくかも探らないといけない。
― 試行錯誤は続きますね。これから「こういう映画が撮りたい」とイメージする映画はありますか?
大友 : 難しいんですよね……、でも『1900年』(1976)『暗殺の森』(1970)『ラストエンペラー』(1987)[いずれもベルナルド・ベルトルッチ監督作品]みたいな、歴史とか時間の流れそのものに踏み込んだような映画は、いつか自分でもできないかなあとは思ってますけどね。
― なるほど……! 「観たことのない」映画、ですね。
大友 : 例えば、スティーブン・スピルバーグ監督の『プライベート・ライアン』(1998)などを観ると、約20分間にもおよぶノルマンディー上陸作戦を描く冒頭のシーンがあるのですが、ああいうことを平気で突破していっている。しかも映画自体、あのクオリティで60日で撮り終えてるって、信じられない!! 「じゃあなんでスピルバーグにできて、俺にはできないの? 同じ人間なのに!」って。そこから始まるんですよね、なぜあんな凄いことを60日で出来たのかっていう、その理由を知りたいっていうか。
― 自分を鼓舞し、走り続けるための秘策があれば教えてください。
大友 : 秘策なんか何にもなくて、「そういう風にどこかで思っていないとやばい」っていう危機感だけですよね。その都度とにかく必死なだけです。今日のような『億男』の完成披露試写会ともなれば、4000人もの人が一堂に会して観てくれる。そういう方々を前に言い訳できないですよ。
映画をつくり続けるのはやはり大変なことです。でも、最近『るろうに剣心』のVFXに感銘を受けてこの世界に入ってきてくれた若いスタッフと仕事したんだけど、そういうことがあるだけで物凄く頑張れる。まあ、僕も僕のスタッフもどこか頭のネジが緩んでますから(笑)、そういう嬉しいことがひとつあるだけで、いろんな苦労を忘れて「またやろうか!」という気持ちになってしまう。ってことは、きっとそれだけこの仕事が「面白い」ってことでもあるんですけどね。
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