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人はどうして想像力を必要とするのだろう?
喪失が空想を生み、空想が生きる道を作る
― 今作のタイトル「ファンシー(Fancy)」は「空想」や「幻想」を意味する言葉です。そのタイトルどおり、この物語は、人が誰かに対して自分勝手に抱く“空想や幻想”を軸に動いていくように感じられました。
永瀬 : ちょっと目線を変えると、ペンギンの存在自体も鷹巣の妄想かもしれない……だって、ペンギンですよ?(笑)
― ペンギンは今作で窪田正孝さんが演じた、家の中を極寒にし、生魚を食べて暮らしている詩人“南十字星ペンギン”のことですね。永瀬さん演じる“鷹巣”は、ペンギンのもとへ「妻になりたい」と押しかけてくる若い女性“月夜の星”(小西桜子)を挟み、ペンギンと三角関係を織りなす郵便配達員、兼、彫師です。ペンギンにファンレターを届けることを日課としています。
永瀬 : 鷹巣は捉えどころのない、不思議な男ですよね。
― はい。終始サングラスをかけていますし…(笑)。
永瀬 : ただ彼は、子どもの頃、彫師だった父親(宇崎竜童)が失踪したときからずっと心に傷を抱えてきたんだと思います。そういう重いものを抱えているからこそ、周りの思いを察せるし、自己犠牲もできるというか。
― 廣田正興監督は映画化に当たり、原作にはなかったその鷹巣のバックグラウンドを物語に加えたんですよね。鷹巣は一見ぶっきらぼうだけど、不器用なペンギンのことを思いやっているようでもあり、どこか優しさも感じさせます。
永瀬 : “彼なり”の優しさ、ですけどね。
― たしかに世間一般でいう”優しさ”ではないかもしれません。『ファンシー』は、エロティックかつ先鋭的な表現で知られる漫画家・山本直樹さんによる短編漫画を原作としています。漫画の中でペンギンは、人間ではなく本物の動物のペンギン、として描かれていますよね。
永瀬 : そう。だから山本さんが書かれた原作は深いんですけど、そういう空想や妄想みたいなものは、一見冷静な鷹巣の中にもあるかもしれないと思いますね。
― 鷹巣の妄想がこの物語の世界に紛れ込んでいる、だけではなく、この世界そのものが鷹巣の作り出した幻だという可能性もある…。
永瀬 : 鷹巣は幼い頃に父を失っただけでなく、妻と離婚し、最愛の娘とも離れて暮らしています。そういう“失った人への思い”というのが、彼が抱えている“ファンシー”の中心なのかもしれないですね。
― 映画では、鷹巣が失踪した父親の面影をしのぶ回想シーンが、頻繁に登場します。強迫観念的でさえありました。
永瀬 : 鷹巣はおそらく父親を一生超えられないんですよね。なぜならもう目の前にいないから。でも超えたいと思って、必死に追いかけている存在です。自分の背中にも父親の手で刺青が刻まれていて、親父の作品を文字どおり背負わされているわけです。
― そんな“失った人”が彼に残した傷の一つひとつが、“ファンシー”を作り出している、と。
永瀬 : そんな鷹巣だから、女性に対してどうしても……、言い方は悪いですけど、刺青を彫るための“キャンバス”として見てしまう、という面もある。最高のキャンバスを探し出して、父親を超えたいんでしょうね。
― 鷹巣は郵便配達員と彫師、二足のわらじを履いていますが、永瀬さんご自身も、俳優以外に写真家としての顔をお持ちです。おじいさまが写真の仕事をされていたそうですね。
永瀬 : 僕がポートレイトをちゃんと撮りたいと思ったきっかけは、まさに祖父なんです。あるとき実家の倉庫から、祖父が付けていた写真の研究ノートが出てきて。
彼はアーティストではなく写真館のおやじだったので、たとえば「大勢の記念写真を撮るとき、全員の顔をきれいに撮るには」「影の付け方はアメリカ式とヨーロッパ式、どちらが日本人に合うのか」みたいなことが熱心に書き付けてありました。でもある出来事によって、写真の仕事を中断せざるをえなかったそうで。
― 何があったんですか?
永瀬 : 戦後の日本が貧しかった時代に、家族を養うため知り合いにカメラを質入れしたら、そのまま持ち逃げされてしまったらしいんです。食料と交換してもらい、後から買い戻す約束だったそうなんですが、その食料ももらえず、裏切られてしまったんですよね。
― それ以降、おじいさまが写真を撮る機会はあったのでしょうか?
永瀬 : いえ、一切カメラを持たなかったそうです。ふと、もし戦争が起きず、祖父がその裏切った知り合いとも出会わなかったら、彼はずっと写真を撮り続けたはずだし、僕も“写真館のおやじの孫”として育っていたはず、と考えるんです。
だから、ポートレイトを撮らせていただく機会があるたび、「おじいちゃんも写真をもっと撮りたかったんだろうな」と思うんですよね。DNAレベルでリベンジをしている気がするんです。
― おじいさんが失ってしまった、あったかもしれない“もう一つの人生”が脳裏によぎるんですね。
永瀬 : そうです。おじいちゃんは僕があまりにも幼い頃に亡くなったので、写真の話をしたことがないんですよね。だから今でも「写真の話、したかったな」と思います。鷹巣もそうだと思うのですが、“自分には失った何かがある”という感覚は、その後の人生に大きく影響する気がしますね。
永瀬正敏の「心の一本」の映画
― 空想や妄想は、行き過ぎると悪い方向に働くこともありますが、人が生きていく上で、なくてはならないものでもありますよね。
永瀬 : そう思います。本来、誰しもが想像力豊かで、クリエイティブなはずですよね。だって子ども撮った写真や発する言葉って、びっくりするものがあるじゃないですか。「これがなんで花なの!?」という表現で、花の絵を描いたりだとか。それってきっと彼らが想像力を制限せず、空想がおもむくままに描いているからで。
そんな無邪気な感性に触れるたび、「想像力があるって素敵だな。いつになっても持ち続けていたいな」と思います。それに僕はものづくりの商売をしているので、尚更そう思いますね。
― それは役者としても、ということでしょうか?
永瀬 : 役者が架空の人物を演じるにも、当然ながら想像力が必要です。40数年の間、永瀬正敏として生きた中で、ある短い期間を別人として生きる。そのためにはクランクインまでに“空想と妄想と実体験”とで、役を最大限に膨らませておくんです。
― 空想や妄想に実体験をミックスし、役を生きる準備をする、と。
永瀬 : 現場では膨らませたものを全部出すのではなく、どこか一部分でも出せたらいいんだろうなと思います。たとえば何度かご一緒した河瀨直美監督の現場では、カットもスタートもかからないんです。ということは、朝一番から終わるまで、その役を常にまとっていなければならない。永瀬としてテクニックでその役になろうとするのを、河瀨監督は嫌がるので。アドリブで何気なく水を飲んで、「その人はそういう飲み方しない」って言われたこともあります。
― カメラが回っている間は、どんなささいな瞬間も“その人物”でいられるよう、役について想像し、自分の経験とも照らし合わせながら、理解を深めておくということですね。
永瀬 : そうです。映画そのものが、空想で成り立っている芸術ですからね。監督の空想の世界を、カメラマンも照明も衣裳も役者もみんなで探す。そうして多くの人たちが、壮大なひとつの空想を作り上げていくんです。
― 永瀬さんにとって、映画の中の空想や幻想の在り方が印象的だった作品はありますか?
永瀬 : 2018年、なら国際映画祭の学生映画部門で審査員をしたときに出品されていた『オーファンズ・ブルース』という作品がとてもよかったです。主人公は若年性アルツハイマーの女性で、現実と幻想が混濁していく物語がとても上手に表現されていて、素晴らしかったですね。それに監督の工藤梨穂さんをはじめ、キャストやスタッフのみなさんが、チームとしてすごくまとまっていて、映画界の未来の可能性が詰まってるなとも思いました。
― 学生の作品から挙がるとは意外でした!
永瀬 : 学生の作品だからといって侮れないですよね。次回作もぜひ観たいです。他にも、長谷川和彦監督の『青春の殺人者』(1976)と『太陽を盗んだ男』(1979)が頭に浮かびます。いずれの主人公も、親や社会にある種のトラウマがあって、そこを超えようとするエネルギーに圧倒されるんです。
― 『青春の殺人者』は両親を殺害したことによって社会から疎外されていく主人公を水谷豊さんが演じ、『太陽を盗んだ男』は自宅で原子爆弾を作り上げ、国家に挑んでいく中学校教師を沢田研二さんが演じています。両作品とも、主人公を縛っている“家族”も“社会”も「所詮みんなが作り上げた幻想だ!」と訴えかけてくる作品ですね。
永瀬 : “映画を映画館で観る”という行為は、真っ暗闇の中で全くの他人同士が一斉に、強烈な他人の空想の世界を体感しているということでもあります。そういう体験って、他ではなかなか得がたく、そして人生において豊かな時間でもあると思います。映画界の一員である僕としては、空想がみなさんにとって、いつまでも大切なものであってほしいですね。