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当事者にとって「嘘がない」作品
― 今作において、ミヤタ廉さんとSeigoさんがそれぞれ担った「LGBTQ+inclusive director(インクルーシブ・ディレクター)」、「intimacy choreographer(インティマシー・コレオグラファー)」という役割は、多くの人にとって聞き馴染みのないものだと思います。
― まず、ミヤタ廉さんが「LGBTQ+inclusive director」として、Seigoさんが「intimacy choreographer」として、今作に参加されることになった経緯について、教えてください。
松永 : ミヤタさんとは、僕が2018年に『アジア三面鏡2018:Journey』(※)というプロジェクトに参加して、ミャンマーで短編映画『碧朱』を撮った時にご一緒させていただいたんです。
ミヤタ : はい、その時はヘアメイクとして参加させていただきました。それと、私は以前から鈴木亮平さんのヘアメイクを担当させていただいており、ある時、亮平さんから「こういう作品への出演依頼があるんですけど」と相談を受けて。それが『エゴイスト』だったんです。偶然、原作の小説を手元に持っていたので読んでみたんですけど、なんとも胸に刺さって。
― 原作の、どのような部分が胸に刺さったのでしょうか?
ミヤタ : 原作者の高山真さんは、僕より少しだけ上の世代であり、原作自体が10年前に発売されたものなんですけど、なんとなく当時の匂いみたいなものが伝わってきたんです。この作品は、「主人公のセクシュアリティがゲイであること」を前提に始まるんですが、その点も含めてすべての描写がリアルでした。
あと、母親との関係性が描かれていたことも大きかったです。やっぱり母親という存在は、私にとっても特別であり大きな存在だったので。
― 主人公の浩輔は、自分がゲイであることを隠していた思春期の頃に、病気で母を亡くしています。物語の後半では、恋人である龍太の母親を彼が慕い、支えていく姿も描かれていましたね。
ミヤタ : 原作で浩輔が、ただ優しいだけじゃなくて、新宿二丁目によくいるような「ちょっと“いけ好かない”キャラクター」だったことも魅力的でした。「あーいるわ、こういうやつ」って(笑)。とても身近に感じられたんです。「亮平さんの演じる浩輔にすごく興味がある」と伝えました。
そしてあまりに原作が自分の胸を打ったので、映画の現場はヘアメイクとしても積極的に入らないのですが、初めて自ら「参加したいです」と申し出ました。
― 最初はヘアメイクとして参加予定だったミヤタさんですが、その後「LGBTQ+inclusive director」というポジションを担うことになりました。新たに、その立場をつくったのには、どういう理由があったのでしょう?
松永 : 今という時代に、主人公がセクシュアルマイノリティーである映画を撮るということには、責任があります。
― はい。
松永 : 当事者が観ても、「嘘がない」と感じてもらえる作品にしたいと思っていました。そのために、脚本を書き進める中でアドバイスをいただいたり、当事者であるゲイの方を紹介していただいて一緒に取材に行ったりと、ミヤタさんに関わっていただく場面がどんどん増えていったんです。
その中で、今作には全ての場面においてセクシュアルマイノリティーに関することについて監修が必要だと判断し、ミヤタさんからプロデューサーに提案してもらい「LGBTQ+inclusive director」というポジションを、クランクイン前につくってもらいました。
― 「LGBTQ+inclusive director」という肩書きは、アメリカでは存在していると聞きましたが、日本映画の現場ではおそらく初めてですよね。
松永 : はい。自分が知る限り、これまでにないことだと思います。しかしこのテーマを描く以上、制作体制を整えて、責任を持って臨みたかったんです。
ミヤタ : 脚本の段階から、撮影現場も含めて、セクシュアルマイノリティーに関するセリフや所作、キャスティングなどの監修をさせていただきました。同時に、ヘアメイクデザイン(※宮田靖士名義)として、亮平さんや、宮沢氷魚さんのヘアスタイルやメイクのデザインも担っています。
― 「intimacy choreographer」として参加されているSeigoさんは、ミヤタさんからのお声がけで、今作に携わることになったそうですね。
ミヤタ : 宮沢氷魚さん演じる龍太は、病気の母親の生活を支えるために“売り”をしているという設定だったので、現場にも、インティマシーシーンの所作などを監修者が必要だと思っていました。 特に龍太が働く姿を描くインティマシーシーンは性風俗やセックスワーカーに対しても誠意をもって作るべきと思っていましたし、何より松永監督が敬意を表する姿勢で取材を重ねていたので、私が以前から親交があり、人としても信頼し、尊敬しているSeigoさんにオファーさせていただきました。
印象的だったのは、どの働くシーンでも龍太がつらい表情や浩輔を思い浮かべるような表情を提案するようなことは一切せず、プロフェッショナルな姿勢でお客様と向き合っている姿のみをきちんと捉えていたこと。そこにSeigoが携わった意味、そして監督の敬意が本物であったことを強く感じました。
― Seigoさんは、映画の現場に入ることは今回が初めてだとお聞きしました。
Seigo : 正直、センシティブなシーンに携わることになりますし、最初は迷いもありました。話を聞いて、違和感を持ったらやめておこうと思っていたんです。でも、原作を読ませていただいたら素晴らしくて。生まれて初めて、本を読んで泣いたんです。
そして、松永監督も実際にお会いしたら誠実に話を聞いてくださり、僕が伝えられることをすべてお話ししました。とても自然な流れで、お手伝いさせていただくことになったんです。
松永 : ミヤタさんからSeigoさんを紹介していただいたのは、撮影に入る1ヶ月半前くらいだったんですけど、自分の中で映画の輪郭がはっきりしてきた時期でした。軸のようなものはあったのですが、映画のディテールは、Seigoさん含め、当事者への取材を毎日行っていく中で、どんどん出来上がっていったのです。
― 今作は、プロデューサーの明石直弓さんと、脚本家の狗飼恭子さんでつくり上げた脚本をもとに、松永監督が数年かけて推敲を重ねたとお聞きしました。徹底したリサーチを行ったそうですね。
松永 : そうですね。本当にギリギリまで書いていました。なんなら、撮影現場まで持ち越しましたし(笑)。原作が自伝に近い内容で、浩輔にも高山さんのパーソナリティが投影されているので、高山さんのエッセイを読んだり、生前の高山さんをよく知る人に取材をしたりしながら、ご本人のエピソードを浩輔のキャラクターに足していきました。
― 映画に描かれていた、ちあきなおみさんの「夜へ急ぐ人」を熱唱するシーンや、パティスリー「イデミスギノ」で友人たちとケーキを食べるシーンなども、高山さんが愛していたものとして、松永監督が取り入れた部分だったのでしょうか?
松永 : そうですね。その二つは最初から決めていました。でも脚本に関しては、決定稿がどれかわからないくらい日々進化していました。撮影に入ってからも、ミヤタさんとSeigoさんと話して、その場で変わっていくこともよくありましたね。
松永監督の隣にある「二つの脳みそ」
― 撮影現場では、お二人はどのように関わっていかれたのでしょうか?
ミヤタ : ヘアメイクという私の普段の仕事では、監督の横に常に並んでモニターを見るということが多くはない環境だったので、まずそのことに慣れるまでに時間がかかりました。スタッフのみなさんも、最初は僕にどう接していいか迷ったと思います。でも、そういう状況も、自分からどんどん開いていかないといけない、という意識でいました。
― 鈴木亮平さんや宮沢氷魚さんも、「現場にミヤタさんとSeigoさんがいてくれたことが、とても支えになった」とコメントされていましたね。
ミヤタ : 亮平さんは、「自分がゲイとして映っているかどうかではなく、浩輔として映っているかどうか」を、とても気にされていました。ワンシーンごとに、僕のところに質問に来ていた印象があります。
ミヤタ : いわゆるステレオタイプの表現にならないように、「浩輔ならどう動くか」ということを、手の動きやセリフも含めて、松永監督と一緒に考えていきました。でも、なんでもかんでも提案するわけではなく、様子を確認しながら距離感は大切にしていましたね。
― 距離感ですか。
ミヤタ : 浩輔が友人たちと飲み屋でわいわい話しているような、楽しいシーンは撮影の前半に集中していて、後半は、浩輔が葛藤するような、本当にピリピリするシーンが続いていたので、そういう時は、自分からはなるべく近寄らない方がいいかなと。
― 映画の後半では、浩輔が「龍太への愛のかたち」について、“ただの自己満足なのではないか”と自問自答するようになっていきます。
ミヤタ : 例えば、“売り”をしている龍太を浩輔がホテルに呼び出すシーンは、二人の関係が大きく動き出すところで、現場にも高い緊張感が張り詰めていました。
そんな時は、松永監督と亮平さんと氷魚くん、三人の呼吸を邪魔しないようにと、気を張っていました。それはヘアメイクとして常に心がけてきたことでもあったのですが、今回は初めてこういう立場で参加しているので、特に気にしました。
― 相談された時はぐっと寄り添いながらも、役として集中に入った時にはそっと距離を取られるなど、そうした「LGBTQ+inclusive director」の在り方に気を遣われたんですね。
ミヤタ : 例えば、私よりLGBTQ+について詳しい専門家の方はたくさんいます。それでも私がこの肩書きで現場に立つ以上、必要性はきちんと提示しなければいけない。なのでヘアメイクでの経験を最大限に活かし、距離感を含め、どうすれば役者が本番に余計な不安を感じることなく役になりきることだけに集中していけるか?を探り続けていました。
あとは私のアドバイスにより、キャラクターを「記号的」にしてしまわぬよう、自身の考え方に柔軟性を持ち続けることは強く意識しました。
― 先ほど松永監督が、お二人からの助言を受けて、現場で脚本や演出が変わっていく場面もあったとおっしゃっていましたが、提案された部分で、特に覚えているシーンはありますか?
Seigo : 龍太がセックスワーカーとして男性に会うシーンでは、例えば、ホテルで客に会う前にエチケットとしてガムを噛んでいる、というような、何気ない所作も意識的に提案しました。あと僕が主に監修させていただいたのは、セックスシーンなどのインティマシーシーンですが、脚本には、具体的には何も書いていないんです。
松永 : 繊細なシーンなので、撮影前に1日かけてリハーサルをして、カメラワークも考えて、そのイメージを現場でSeigoさんにお伝えするんです。
松永 : その時に、僕が「このシーンの二人は、こういう気持ちの位置関係です」と伝えると、「じゃあ最初に龍太が上になって、その後に浩輔が上になる動きにしましょう」と提案してくれる。その身体の動きによって、浩輔が龍太を自分のものにしたいという感情が現れてくるんですよね。
― 二人の感情や関係性に沿って、Seigoさんが身体の動きで提案してくれるのですね。
松永 : はい。僕は、インティマシーシーンにも「人間が現れる」「感情が描ける」と思っていて。ここまで描く必要があるのか、という声もあるかもしれないけど、この映画には絶対必要なシーンでした。
Seigo : よく覚えているのは、最初の撮影となったインティマシーシーンの撮影後、松永監督に「どうですか?」って聞かれたんですが、すぐには自身の考えを伝えられなくて。
正直言うと少し嘘っぽい動きに見えたんです。言った方がいいのか迷いがあったので、ミヤタさんに「もうちょっと良くできますよね…?」と聞いたら、「できます」と即答してくださって。そこから僕も、遠慮しないで言おうと思えました。
松永 : 「大丈夫です、Seigoさんがいてくれる意味は、イエスかノーか僕に教えてくれることです」とお伝えしたのを覚えてます。
― 現場としても、初めての試みであったことが伝わってくるエピソードですね。
Seigo : 松永監督は、僕が伝えた動きを、どう表現して撮影していくのか、瞬間的に判断していくんです。現場でモニターを見ていて、思わずのけぞるくらい、役者や監督、スタッフを含めた現場の集中力とエネルギーが凄まじくて。あの空間を味わえたことは、一生の思い出になりました。…と僕は思ってます(笑)。
ミヤタ : 撮影を思い出しますね。
松永 : ずーっと三人で、狭いユニットバスに座りながらモニター見て(笑)。
Seigo : いましたね(笑)。
松永 : ずっと僕の両側にいてくれて、もう二人を離したくなかった(笑)。僕の横に二つの脳みそがいてくれたと思っていて。「嘘がない表現とは?」を一緒に考え、提案してくれるミヤタさんと、異性間と同性間での違いも含めて、それを身体的な見せ方として提案してくれるSeigoさんの存在はとても大きなものでした。
二人が「NO」ということは絶対したくなかったし、現場のチームも二人をリスペクトしてくれているのがわかりました。全スタッフ、キャストを含めて、誰一人欠けても作れない映画だったけど、特に二人の存在は大きかったです。いなかったらと思うと、ゾッとするくらい。
「インクルーシブな作品」にするため、
「作品づくり」だけでなく「届け方」にも気を配る
― 今作で特に印象的だったのは、前半に多く描かれていた、浩輔が友人たちと楽しそうに過ごす姿でした。仲間内でのシーンには、当事者をキャスティングしたいという松永監督の思いを受けて、ミヤタさんがキャスティングに入られたそうですね。
ミヤタ : そうです。ドラァグクイーンのドリアン・ロロブリジーダさん以外は、芝居経験のない人たちがほとんどでしたが、とても自然でいいシーンでしたよね。
― クランクイン前から、鈴木亮平さんと食事会を催すなどして、チームワークを築いていったとお聞きしましたが、映画『Wの悲劇』(1984)について語り合ったり、夜の路上で踊ったりする様子は、気心の知れた関係性に見えました。
松永 : あの距離感や会話が撮れるかどうかが、この作品では肝だと思っていて。彼氏の愚痴を言うとか、なんてことないような、でも切実な話をしているんです。僕も楽しみながら見ていました(笑)。
Seigo : もう、僕らのありのままがあそこにある、と思いました(笑)。
― 私も、観ていて「混ざりたい!」と思いました。
松永 : あ、それはすごく嬉しいですね。というのも、セクシュアルマイノリティーの人を描く時に、「可哀想」とか「辛い」という側面だけで捉えられるようにはしたくなくて。僕は、ゲイやレズビアンの友人も周りにいますが、キラキラした時間を過ごす姿もたくさん見てきたんです。
だから、この映画を観た人たちにも、浩輔たちのグループに混ざってみたいとか、一緒に話してみたいと思ってもらえるような存在として描きたかった。そう考えながら、居酒屋のシーンなどは撮っていました。
― これまで、セクシュアルマイノリティーの人物が登場する作品では、生きづらさや孤独など、「対社会」の部分を見せる作品が多かった印象があります。しかし、今作では「仲間内で楽しく話す」など、暮らしを謳歌する浩輔たちの姿が描かれ、彼らのパーソナリティがより身近なものとして感じられました。
ミヤタ : 現場では、ゲイ当事者やセクシュアルマイノリティーの人たちがこの映画をどう観るか、ということだけではなく、ヘテロセクシュアル(異性愛者)の人がどう観るか、という視点も常に考えていました。
― 具体的にはどのようなことを意識されましたか?
ミヤタ : もちろん、当事者の人たちが観た時に、そこに嘘があってはいけないし、共感してもらいたいということは前提にあります。一方で、今作は映画というエンターテイメントでもあるので、ヘテロセクシュアルの人たちが観た時の“心の置き場”も同時進行で考えた上で様々な提案をしていかなければ、インクルーシブディレクターである意味がないと思っていました。
松永 : (大きく頷く)
ミヤタ : 亮平さんや松永監督とよく話した「ステレオタイプな描写にしたくない」には、そういう意味もあります。浩輔として、龍太として、ちゃんとキャラクターのパーソナルな部分を大切に描いていけば、たとえ境遇が違う人が観ても、作品に入っていけると思うので。
― 現場でミヤタさんが提案された演出として、「浩輔が眉毛を描くシーン」があったとお聞きしましましたが、それもキャラクターの輪郭をつくる、一つの表現ですよね。ハイブランドの服を鎧にしているように、あれは、浩輔が自身を奮い立たせている仕草に見えました。
ミヤタ : そうですね。「ゲイっぽく見せる」のではなく、「ひとりの人間として、いかに嘘なく見せていくか」ということは常に意識してました。一方通行では伝わりにくくなってしまいますし、いかに『エゴイスト』をインクルーシブな作品にしていくか、それが私の役割だなと思っていましたので。
― 今作では、そうした“インクルーシブな作品にしたい”という製作側の思いが、映画完成後の発信の仕方においても、反映されていますね。
松永 : はい。宣伝や発信の仕方も、既存のやり方だけではなく、もう少しフレキシブルに動けたらいいなと感じていて。「届ける過程」でも間違った解釈が生まれないように、劇場用パンフレットに「LGBTQ用語集」を掲載しました。それは、ミヤタさんに紹介していただいた、『LGBTQ報道ガイドライン』の制作に携わっている松岡宗嗣さんの監修を通していて、宣伝や取材記事における文面のチェックもしていただいてます。
ポスタービジュアルも、最後の最後まで粘って美しいデザインにしていただきましたし、宣伝の方たちにも、たくさんの協力、そして挑戦をしてもらいました。
― より多くの人に届けたいという思いから開催された、ドリアンさんをはじめ、浩輔の友人役として出演した方々を招いての特別試写会では、ゲイコミュニティの方たちもたくさん観にきていたそうですね。また、ろう者のセクシュアルマイノリティーの方々を招待した、「手話上映試写会」も開催されました。
ミヤタ : 手話の指導や教材制作、情報発信を行う「手話フレンズ」の代表を務めるモンキー高野さんから知人を介し「ぜひ作品を観たい」という連絡をいただいて。
しかし予算の都合で日本語字幕をつけることができなかったので、試写会実現は難しい旨を一旦はお伝えし、理解を示していただいたのですが、あらためて「どうしても観たいです」と熱い思いをお伝えいただき、手話通訳という形で上映するのはどうかというご提案のもと、お互いでやれる形を模索し、なんとか実現に漕ぎつけました。
― 「音声字幕」については、PINTSCOPEでも取材したことがありますが、「手話上映」は初めての体験でした。映画好きなモンキー高野さんは、今作の予告を観た時から楽しみにされていて、手話通訳という形で味わうことができて感無量だとおっしゃっていました。
ミヤタ : 上映後に、松永監督からの提案で、上映に引き続き手話通訳の方のご協力のもと、観客のみなさんから松永監督へ感想や質問を伝えていただく時間を設けさせていただき、みなさんとても盛り上がってくれたことがとても嬉しかったです。
― 作品は「つくる」で終わりではなく、「届ける」までを考えなくては、伝わらないのだと、上映会の取材で改めて感じました。
ミヤタ : 私も、今回の作品では学ぶことしかなかったです。なにより宣伝のディレクションに松永監督が入るということもすごくいいと思いました。
松永 : 「いいものをつくりたい」という思いが、すべての根っこにあるんですよね。今作に携わったスタッフが「現場にも宣伝にもこだわった」という経験をもって、新たな作品に入ってもらえたら、日本映画の現場が変わるかなという思いがあります。こんなふうにPINTSCOPEさんと記事をつくる、ということも含めてですね。
松永大司監督、ミヤタ廉、Seigoの「心の一本」の映画
― 本日お話を伺って、『エゴイスト』をきっかけに、セクシュアルマイノリティーを描く際の姿勢、また日本映画製作の在り方や届け方など、「変わる」ことがあるのではないかと感じました。ミヤタさんとSeigoさんの今作での役割も、今後はあらゆるエンターテイメントや表現の分野で求められていくのではないか、と思います。
松永 : はい。
― そこでお聞きしたいのですが、今作の試みを通してみなさんが感じた、「映画だから表現できたこと」や「映画だから届けられると思ったこと」など、今実感していることがありますか?
ミヤタ : 映画は、濃縮された時間の中で物語を描くことができるので、理解しやすいし伝わりやすいですよね。作品に描かれた人物と同じような境遇の人でなくても、映画の世界を通して「知る」ことができる。そのことによって、例えば「同性婚が法律で許されていないと、こういう悩みが発生するんだ」など、身近に感じてもらうことができます。
ただ、伝え方を間違えると逆効果になってしまうので、そこは、きちんと監修していけたらと思っています。人によって声の上げ方は違うけど、私が今後担っていきたいと思うのは、映画など映像作品を通して発信をしていくことですね。
― Seigoさんはいかがですか?
Seigo : ここ数年で、セクシュアルマイノリティーに対する目線や見方は大きく変わったなと実感していて。例えば、今の若者たちは、僕らの時代に比べると、カミングアウトすることへのハードルが低くなっていると思います。そうした大きな変化がある「今」に、『エゴイスト』を公開することは、大きな意味を持っていると思うんです。
― この映画が、さらに大きな変化をもたらすのではないか、と。
Seigo : はい。ミヤタさんがおっしゃっていたように、作品に入り込むことで、自然とセクシュアルマイノリティーの人について知ることができるし、「隣にいる人がそうかもしれない」ということを考えるきっかけになる映画だと思うんです。
例えば「10年以上付き合っている恋人同士でも、病気で入院したら会いに行くことができない」というような、人生の最後にのしかかってくるような悩みが、リアルに伝わるんじゃないかと思います。
― 松永監督は、トランスジェンダーである友人を追い続けたドキュメンタリー映画『ピュ〜ぴる』を2011年に公開していましたが、あれから10年以上が経ち、今の時代に今作を公開することに、どのような実感や手応えを感じていますか?
松永 : 今、映画の在り方が配信も含めて大きく変わっていく中で、劇場で観てくれることを想定して、撮影の池田直矢さんと本当に近い距離感で二人を撮りました。“目の前で人が生きている”と、感じてもらえるんじゃないかと思います。
テレビくらいの画面だと、どうしてもそこに距離ができてしまうんですよね。吐息が聞こえるくらいの近さで浴びることでしか、描くことのできない痛さがあると思うんです。知らず知らずのうちに巻き込まれていって、一緒に苦しくなったり、ワクワクしたりしてほしいですし、それは映画館の大きなスクリーンと音の設計の中でしか体験できないと感じてます。
― 最後に、みなさんが映画館で出会った特別な作品、「心の一本」となる大切な映画について、教えてください。
ミヤタ : 散々迷ったのですが私は、『太陽と月に背いて』(1995)です。
― 詩人であるアンチュール・ランボーと、ポール・ヴェルレーヌの、破滅的な愛を描いた作品で、若き日のレオナルド・ディカプリオがランボーを演じています。
ミヤタ : 当時、渋谷Bunkamuraに何度も足を運んだ記憶があります。内容で「心の一本」になっているというより、自身を構築する要素を様々なカルチャーで取り込んでいた時期に、何度も鑑賞し、血肉となっている作品として印象深い一本となっています。
実は、この役のレオナルド・ディカプリオの天才的に美しいビジュアル雰囲気は、龍太のビジュアルデザインで参考にしています。
― 松永監督はいかがですか?
松永 : 僕は、黒澤明監督の『七人の侍』(1954)です。最初に観たのは学生の時かな。商業性と作家性のバランスもすごいですし、今の日本ではなかなかつくることができない映画だなと思います。
― 今でも観返すことはありますか?
松永 : あります、あります。何かしながら映像を流して、絵のパワーに救われることも。リュック・ベッソン監督の『グラン・ブルー』(1988)も好きなんですけど、好きな映画って、流してるだけでいろんな感情を与えてくれるんですよね。映画をつくりたいと思う気持ちも含めて。
― Seigoさんはいかがですか?
Seigo : 僕も今お話し聞きながらずっと考えてたんですけど、『エゴイスト』がそうだなって思って…それ以外が浮かんでこないんですよね…。
― まさに「出会ってしまった!」という一本でしたか。
Seigo : もう本当にそうです!
※『アジア三面鏡2018:Journey』:国際交流基金アジアセンターと東京国際映画祭の共同プロジェクトで、アジアの気鋭監督三名が、一つのテーマのもとにオムニバス映画を共同製作する「アジア三面鏡」シリーズ第2弾。「旅」をテーマにテグナー監督、松永大司監督、エドウィン監督がメガホンを取った。