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そう語るのは、製作、配給、興行と映画に関わるあらゆる仕事に携わり、それぞれの場から映画を見つめ続けてきた越川道夫監督です。50歳のとき、映画『アレノ』(2015)で監督デビューして以降、映画監督としてコンスタントに映画をつくり続けています。
なぜ「映画」をつくるのか?
― 越川監督はこれまで劇場勤務、映写技師、配給、宣伝、プロデューサー、そして映画監督を務めてきました。「映画に関わる仕事の分野としては、ほぼすべて経験した」と言ってもいいほどではないでしょうか。
越川 : その話をすると長くなっちゃうんですが(笑)。映画のゆりかごから墓場までやりましたね。もういい加減、長いことこの世界にいるので。
― 過去のお話を聞くたび、越川監督の脳のメモリーの容量にびっくりします。何一つ忘れていない感じがして。
越川 : 多分ね、それだけ面白かったんですよね。その頃の東京とか、映画業界とかって。たとえば僕は1980年代に、俳優座シネマテンと、池袋の「文芸坐」という名画座でフィルム映写の仕事をしていて。今の新文芸坐になる前の、“旧”文芸坐です。
東映のスタジオでの助監督を辞めて、「バイトしなきゃ」と思っていたら、「映写やらない?」と声がかかって。今はだいぶ変わったけど、当時の館内には映画専門書店や喫茶店があったり、地下に文芸坐1と文芸坐2(※当初、2は「文芸坐地下劇場」と呼ばれていた)があったり。
それから、地下に「ル・ピリエ」っていう芝居小屋もあった。ボイラー室を改装したから、舞台のツラに大きな柱が二本立っていて、天井がものすごく高い独特な空間だった。そこでは演劇をやったり、落語会があったり、16ミリで市川雷蔵の映画を上映したり。当時は大映がフィルムの貸し出しで金を生んでいた時代で。僕は文芸坐の映写と同時にその劇場の小屋付きもしていたんです。
― ル・ピリエはオープンなイベントスペースだったんですね。
越川 : 演劇でいえば、自転車キンクリート(※1982年に設立された劇団)や坂手洋二さんの燐光群(※1983年に設立された劇団)が来たり。彼が作・演出の『犬の生活』という芝居で、音楽をやったのが大友良英さんで、音響をやったのがSachiko Mさんだったと思います。
毎年、年末になると、歌手の浅川マキさんが1週間ぶっ通しで公演するんです。で、大みそかに全部の公演が終わると、マキさんが僕ら劇場のスタッフにお年玉をくれるという。
― それが恒例の行事だったんですね。
越川 : そうです。僕は「俳優座シネマテン」でも映写の仕事をしていて。運営母体が映画配給会社のシネマ・キャッツになったことで、のちに俳優座トーキーナイトって名前に変わるんですけど。
― 俳優座シネマテン、のちの俳優座トーキーナイトは、1981~2003年まで六本木に存在した映画館です。俳優座劇場(※現存するが、2025年4月末日の閉館が発表された)内の一室を利用し、開映は決まって午後10時。ヨーロッパ映画の上映が多かったそうですね。
越川 : 俳優座シネマテンと、文芸坐の仕事を同時に掛け持ちしていたわけです。文芸坐では土曜日にオールナイト上映があって。その頃の池袋のあたりは、ヤクザの人たちもいたし、事件もあったし、どこかから銃声が聞こえたり、あと文芸坐の中には裏動線があったんですけど、そこを何かの犯人が駆け抜けていったとかで、警察が検証に来たりしていた。
それから、当時、あの辺りには週末、女装をした男娼の人も立っていました。まるでパリのブローニュの森のように、セックスワーカーが客をとるエリアだったんでしょうか。僕が一晩中映写室にいて、「疲れたな」と思って気分転換に窓を開けると、男娼たちの姿が見える。「こんな夜中に働いてるのは、俺とあんたたちだけか……」と思っていると、向こうから車がやってくる。すると、男娼がヘッドライトの前に、いかにもたおやかに歩み出るんです。で、相手が客だと、そのまま車に乗っていく……。
― まるでその記憶自体が映画のような……。
越川 : 池袋西口公園にはホームレスの人たちが寝泊まりしていて。彼らは日雇い労働で暮らしているんだけど、雨が降ると仕事がない。すると、みんなおそらくなけなしのお金で雨宿りがてら、文芸坐に映画を観に来るんです。勝新(太郎)の映画が人気だったと思います。高齢の人も多かったから、ときには映画を観ながら亡くなってしまうことさえありました。
あるいは「映画を観ながら死にたい」って、自殺未遂した若い子たちもいた。だからか、劇場内には幽霊が出ると言われていて。僕は霊感がないのでわからないんだけど、頭をたたかれたっていう人もいて。ハレとケでいえば、映画館ってケの場所だから、やっぱり集まってきちゃうのか……。
― 昨今のシネコンだと綺麗に整備されているぶん、なかなかそういった気配のようなものはないですね。
越川 : そういえば、「東京流れ者おじさん」と呼ばれている名物のお客さんもいました。鈴木清順監督の『東京流れ者』(1966)をかけると、最後の方で白いスーツを着た渡哲也が「女と一緒じゃ歩けねぇんだ」と松原智恵子を振り切り、フレームアウトするじゃないですか。すると一番前の列に座っている、真っ白いスーツのおじさんが、スッと立つんですよ。で、渡哲也と一緒にいなくなる(笑)。
越川 : 古い世代だからかもしれないけど、実はシネコンの感じが、自分になかなか馴染まないんです。以前の映画館はもうちょっと、「ダメな場所」だったでしょ。孤独で行き場所がないはぐれ者たちのために、映画ってあったから。映画館に行って、そこで声を掛け合うわけではないけど、暗闇の中である一つの時間を一緒に過ごし、また散っていく。それが映画館だと僕は思っていたので。
― 越川監督は、その後、シネカノン(※1989〜2010年まで存在した、日本の独立系映画会社。映画制作、映画配給、映画館運営を手がけ、代表作に『パッチギ!』(2004)、『フラガール』(2006)など)で映画館シネ・アミューズ立ち上げに関わられますね。
越川 : シネ・アミューズの立ち上げをやり、配給会社ビターズ・エンドを手伝った後に、家で寝ていたら、アテネ・フランセ文化センターの松本(正道)さんから「アモス・ギタイの映画祭をやるから、宣伝を手伝ってくれない?」と言われ、そこから宣伝や配給の仕事がずっと続いていきます。
― 越川監督って、ライターもしていましたよね?
越川 : 最初はシネマ・キャッツにいるとき、田畑裕美さんという『エスクァイア』の優秀な編集者・ライターの方から電話があって、サム・ペキンパー監督の『ガルシアの首』(1974)の映画評を初めて書きました。当時。田畑さんはわりと新しい書き手を探していたのではないでしょうか。青山真治や中原昌也も書いていました。
越川 : そうこうしてたら、のちに小説家になった松久淳さんという編集者から「日本映画特集をやるから、ちょっと来てくれ」と呼ばれたり、河出書房新社の『文藝』でインタビューをしたり、あとキネ旬の「フィルムメーカーズ」というムックシリーズで、北野武監督を特集した号があって、淀川長治さんと武さんの対談の司会をしたりしました。
― シネマ・キャッツでの勤務と、ライター仕事の、二足のわらじだったということですか?
越川 : そうですね。昼間に配給・宣伝やって、夜中に原稿書いてた。シネマ・キャッツでは、劇場の仕事ならなんでもしました。たとえば、「劇場宣伝」。当時は配給の行う宣伝だけじゃなく、上映館も一緒になって映画を宣伝していたんです。ギャスパー・ノエ監督の長編デビュー作『カルネ』(1991)とか。
― プロデューサー、そして監督の仕事をする前に、これだけ映画に関わるバラエティに富んだキャリアを積んでいる方も珍しいのではないでしょうか?
越川 : 17歳のときに父の知り合いだった澤井信一郎監督(※『Wの悲劇』(1984)などで知られる映画監督)に会って、「映画の仕事がしたい」って伝えたんですよね。別に「監督になりたい」って思っていたわけじゃないんです。漠然と映画の仕事がしたいと思ったんですね。
― とにかく映画づくりに関わりたいと思っていたと。
越川 : 何かをつくっていることが好きだったんですよね。脚本を書くことも、演出をすることも、編集することも。だから配給・宣伝をやっていた時期も、「監督ができないから配給・宣伝をやっているんだ」なんて思ったことないんです。
だって、「同じ」だから。映画という一つの仕事において、職種が違うだけで、映画に対する基本的なスタンスは変わりません。だから逆に、50歳前後で監督をやるようになったとき、「あれ? そんなにやりたかったんだっけ」と少し戸惑いました。
越川 : どれも片手間にできない仕事だと思っていて。たとえば僕が今、もし宣伝をまたやることになったら、もう監督の仕事には戻ってこないと思います。そんなに甘い世界ではないと思います。
― 越川監督にとって、映画に携わる仕事はある意味で全部「同じ」とのことですが、ではその核にある共通項とは?
越川 : ……僕はね、人間のことがよくわからないんです。自分のことさえよくわからないから、他人なんてますますわからない。だからこそ、「人間が何ごとかを知覚して、それを認識する」とはどういうことなのかって考えるのが、面白くてしょうがないんです。答えの出ない問いなんですけど、僕は解けないパズルをダラダラといつまでも解いているのが好きなんですよ。
極論を言えば、別に仕事にする必要もないのかもしれないけど、要するに映画を通して、人間がどういう生きものなのかを知りたいのだと思います。
― では、小説などの他のメディアではなく、なぜ「映画」なのでしょう?
越川 : うーん、小説を読むのは好きなんですが、やっぱり、映画は視覚で聴覚であり、人間の知覚と深く関わっているのが面白いのだと思います。最近大学院で教えていても、そういうことについての話をします。あと、僕は言葉と仲が悪いんですよ。
映画をつくるというより
「傷」をつくっている
― 10代で映画の仕事を志し、澤井監督や浦岡敬一さん(※編集技師。小津安二郎監督作品などで編集助手を務め、1958年に小林正樹監督の『人間の條件』でデビュー)との面識があったとのこと。当時から、映画文化に触れる環境は整っていたんでしょうか?
越川 : いや、僕の基盤に映画はなくて、実はドラマなんです。僕は静岡県浜松市出身で、1970年代当時の地方の映画事情で言えば、ATG映画なんか上映されるはずもないし、映画産業自体がどんどん斜陽化していく時代だったわけです。だから、地方に回ってくる映画を観ても、さほど面白いとは思えなかった。
その代わり、テレビドラマがいい時代だったんです。向田邦子さん、倉本聰さん、山田太一さん、市川森一さん、早坂暁さんといった、錚々たる脚本家の人たちがバリバリ活躍していました。演出家としても、NHKに深町幸男さん、和田勉さんがいたり。TBSには高橋一郎さんがいて、少し前に亡くなってしまいましたけど、鴨下信一さんもいたわけだし。フジテレビの杉田成道さんとかも出てきた時代だったから。とにかくその頃のドラマは異常な面白さだった、と。
― 当時、特に夢中になったドラマは?
越川 : 『花神』という1977年放送の大河ドラマですね。日本近代軍制の創始者・大村益次郎を取り上げていて、視聴率としては悪かったらしいけど……。主演は中村梅之助さん、音楽は林光さん、脚本は大野靖子さん。当時は小学生でしたけど、これが面白かった。その後に、市川森一さん脚本の『黄金の日日』と、中島丈博さん脚本の『草燃える』が続くんですけれど。
越川 : そうやって、「シナリオ」っていう世界があるんだと知るわけです。シナリオってすごいな、面白いなと思い始めると、その向こうに「戯曲」っていう世界があった。
いわゆる小劇場の芝居は浜松にはなかなか来なかったので、演劇鑑賞協会に入り、新劇(※旧劇(=歌舞伎)などに対し、ヨーロッパ流の近代的な演劇を目指す日本の演劇)を毎月観ていました。当時は五月舎(※1971年設立の演劇企画集団)が井上ひさしさん作の『小林一茶』とか、『イーハトーボの劇列車』とかやっていた。あと、無名塾(※仲代達矢と宮崎恭子の稽古場から生まれた若手俳優のための養成所)のマキャベリの『マンドラゴラ・毒の華』という芝居には、仲代達也さん、山本圭さんが出ていて、岡本舞さんがヒロイン。で、すっごいうまい若手が二人いて、誰だろうと思ったら、それが役所広司さんと、益岡徹さんでした。
― 後の映画界を担う俳優たちをご覧になってたんですね。
越川 : 浜松の街には観音さまがあるんです。そこには子どもの頃から、秋に縁日が立っていました。その縁日が終わると、別のあるものが立つんです。それがアングラ演劇と呼ばれる、状況劇場(※唐十郎が主宰する神社境内や公園などでテントをはって公演を行い、60年代のアングラ演劇の中心的存在となった劇団)の紅テント。
― 浜松に紅テントが来ていたんですか!
越川 : 黒テント(※「自由劇場」「六月劇場」「発見の会」の三劇団の連合組織である「演劇センター68」として発足した劇団。大型の移動式テント劇場を創設し、全国移動公演を行う)も来ていたはずです。ただ寺山修司の天井桟敷には間に合っていなくて。大学進学とともに上京したとき、アングラがもっと観たいと思ったわけです。でも、蜷川(幸雄)さんはもう帝劇に行っちゃっていて、現代人劇場もなく、その後の風屋敷(※現代人劇場、風屋敷とも、蜷川が主宰した劇団)も解体しちゃっていたし、つかこうへいさんも1982年に一回、演劇活動を休止してしまう。で、ちょうど寺山が1983年に亡くなるのかな。1986年に暗黒舞踊の創始者である土方巽も亡くなるんです。もう全然間に合わなかった。で、白桃房(※1987年結成の舞踏カンパニー)に行ったりするんですけど。
ちょうど時期的には、第三世代と呼ばれる野田秀樹さん、鴻上尚史さん、木野花さんたちがぐぐっと来ていたんですけど、それよりも結局、紅テントに通っていた。
― 浜松にいるときと変わらず(笑)。
越川 : その中で、転形劇場っていう劇団があって。太田省吾さん主宰で、俳優として品川徹さんや大杉漣さんがいたわけですけれど。赤坂にアトリエがあって。僕らが観始めた頃は、いわゆるセリフを廃した無言劇の時代。『水の駅』『地の駅』『風の駅』の三部作です。『地の駅』は、栃木県宇都宮市にある大谷石地下採掘場跡地で上演していましたね。
転形劇場を一番よく観ていたのは、学生から卒業後にかけて。撮影所で助監督をやっているときは、観る暇がまったくなかったですけど。
― ちなみに浜松で、紅テントや黒テントはどういう客層だったんですか?
越川 : うーん。ちょうど僕らの中学時代に、いわゆる全共闘世代の人たちが、たとえば教師として地方に戻ってきていたんじゃないかと思うんです。高校の先生が「広島大学でのデモのときはこうだった」という話を授業中にするわけです。学園祭のとき、先生がやってきて「本当に学園祭はこのままでいいのか」「システムを変えろ。壊せ」って。僕としては「いいのか」って聞かれてもな、みたいな(笑)。
社会運動系の本を扱う書店が街中にできたり、フリージャズもさかんだった。高柳昌行さんなんかもライブをしに来ていました。そういった客層の中心は、東京などの都市部で政治の季節を過ごしてきた人たちだったんじゃないかな。
― 地方にいてなお、いろいろな文化に触れるチャンスがあったんですね。
越川 : 落語も好きだったな。親父がNHKの落語特選みたいな、10枚組くらいのレコードボックスを、本人は聴かないのに持っていて。僕は小学生のとき、毎日のようにそれを聴いていたんです。もう名演揃い。五代目古今亭志ん生だとか、僕は三代目桂三木助が好きだった。三木助だと『へっつい幽霊』とか『芝浜』が収録されていたのかな。
越川 : これも小学校のときですけど、たしかうちの裏の蕎麦屋さんが落語家を呼んで、2階の座敷で小さな落語会をやるわけです。それを僕は二度観ていて……、当時参議院議員だった若き日の七代目立川談志さんがとても好きでした。
3席くらいやってくれるんですけど、談志さんが本当に面白くて、座布団から転げ落ちて笑った覚えがある。で、僕はそんなことあんまり言わないんですけど、父に「あの人に会いたい」と頼んで、控え室に連れていってもらって。頭をなでてもらい、本名が印字された議員の名刺をもらいました。多分まだ実家に残っていると思うけど。落語はとにかく好きでした。今でも好きですが。
― 最新作の『水いらずの星』もそうですが、越川監督の作品には「水辺」がよく登場します。それは、越川監督が育った浜松という街に関係がありますか?
越川 : 「水辺」は、僕にとって重要です。僕が生まれ育ったのは浜松の駅前で、実はそこは海からそんなに近いわけではないけれど、一方で向こうには中田島という海浜の存在がたしかにあって……。あと、母の実家は浜名湖のほとりの、舘山寺というところにあったんですけど、浜名湖も海水と淡水の混じり合う汽水湖です。
中田島は遊泳禁止です。荒い海。子どもの頃から悲しくても楽しくても僕たちは海に行くんです。いまだにどの街にいても、自然と「海はどっちの方角だろう」と考えます。水辺を探しているんですね。
― 育ってきた街の原風景が映画に入り混じっているんですね。
越川 : 僕が育ったのは昔の下町で、うなぎ屋があって、三味線が聴こえて、芸者さんがいて、飲み屋があって、ヤクザの人たちがいて、という環境です。当時はサラリーマンが圧倒的に少なくて、「この人は何をして食べているんだろう?」みたいな人たちがたくさん街にはいました。街自体にも、彼らがいることを許容しているみたいな部分があったと思います。
そういう人たちが映画に出てくるということが、重要なんだと思うんです、自分にとっては。
― 『水いらずの星』で、主人公の女と男が女の部屋に入る前に、女が自分のハイヒールを片方投げてから拾うんだけど、なかなか履かないというシーンがあります。その演出にも原体験があるんだと、以前話していましたよね?
越川 : 大学生の頃、横須賀のドブ板(通り)は当時まだ危ないところだと言われていて、「どんなところだろう?」と思い一人で行ってみたんです。すると目の前を、おそらくは米兵を相手にしている飲み屋の女性が、片足はハイヒール、片足は裸足で、脱いだハイヒールを片手に持ち、酔っ払っているのか、ふらふらと歩いていくんです。なんでこの人はもう一足を履かないんだろうと思いながら、ずっと見てしまった。
文芸坐から眺めた男娼の人たちもそうですけど、僕は「そこ」に目が行ってしまう。それは多分、生まれた場所がそうだったからかもしれません。うちは洋服屋だからそこまで貧しくはなかったけど、決して新興住宅地とかで生まれたわけではなく、ドブ川が流れていて、内職で紙の箱をつくっている同級生のお母さんがいたり、ドブネズミが走っていたりするような、そんな街でした。ホステスの人たちがいて、そこに絡んでいく酔客がいるような。要するに、夜になるとネオンで明るくなる街が、僕らの遊び場でした。
越川 : その中に映画館もあったんです。小さな頃忍び込んだら任侠映画をやっていて、なんかすごく怖くて帰ってくる、みたいなこともありました。
― 越川監督の映画がまとっている独特の雰囲気も、その記憶から来ているのかもしれないですね。
越川 : 僕らの子どもの頃までは、まだまだそういう時代だったと思います。のちに親父は郊外に家を建てて引っ越すんですが、僕は今でも気づけば引っ越す前の、下町で暮らしていた時代のことをつい話してしまう。つまり、やっぱりあの街が好きだったんじゃないでしょうか。
でもデパートが浜松にやってきて、小さいお店が全部壊されて。なおかつ街が、1980年を経て、どんどん解体されていく。要するに、チェーン店だらけになっていくとか、デパート同士が拡張合線を繰り広げていくとか。だから、あの駅前の辺りに住んでいる人はもうほとんどいないんです。もちろん店はあるけれど、外から勤めに来る人ばかりで、住人は本当に少ない。
僕なんかはそれをある種のディアスポラだと思ってしまう……。一つの街が解体されていき、そこにいたはずの人たちが流出、離散していった。「人の呼吸のない街」になっていったんです。
― 『水いらずの星』も時代の流れにより追いやられた人たちの物語だと感じます。劇作家・松田正隆さんによる戯曲が原作で、かつて国内で栄えた造船業が急速に廃れた後の日本を舞台に、絶望の中で6年ぶりに再会した夫婦の姿を、虚実のあいまいな対話で描き出す作品です。
越川 : これはプロデュースをした『海炭市叙景』(2010)のときに、函館で聞いたことですけど、かつては造船所に勤めるのが、その街の人たちにとってのステータスだったわけです。それが誇りであった、と。でも造船業が斜陽化していくと、劇中で描かれていたように、人々はその状況に傷つけられ、ときに殺されてしまう。
越川 : 『水いらずの星』も、この場合は佐世保だと思いますが、やはり造船業が斜陽化していく中で、街だけでなく、人間関係も壊れ、離散し、傷つかねばならなかった人たちの姿を描いていると思いました。これはきっと1980年代以降の日本で、どの地方でも見られた風景なのではないかと思います。
― 『水いらずの星』の予告編の最後に、越川監督の考えた「これは映画ではない。『傷』だ」というコピーが登場するのも印象的です。
越川 : 多分、僕は映画ファンではないんです。だから、映画ファン的な在り方で映画をつくることはできない。それは澤井さんに教わったことでもあると思います。映画のために映画をつくるのではなく、人間を描くことです。とはいえ澤井さんは映画のことをよく知っているわけですが。
映画をつくっているに違いない一方で、映画をつくろうとは思っていない。逆に映画そのものが、僕らの現実における「傷」にどこまで近くなるかということしか、僕には考えられないなと思いました。要するに映画を撮ることで、傷そのものをつくっているみたいな感じが、僕にはあります。
― それは、いったい誰の傷なんでしょう?
越川 : 個人のトラウマが、とかそういうことじゃないんです。「誰のものでもなく、誰のものでもある傷」なんだと思います。芝居を、映画をつくることで、その奥底にある……、うまく言えませんが「真実」みたいなものに触れたいと思っているのだと思います。
後編へつづきます。