目次
他人の個人的な“恋愛”というものを描いた作品が、なぜこんなにも多くの人に求められ、時代を超えて面白く感じられるのでしょうか…。
“当事者”としてではなく、
“その人個人”の物語を描く
― 今作は、成田さん演じる今ヶ瀬と、大倉忠義さん演じる恭一という二人の恋愛模様を描いた作品ですが、「なんで俺が男と付き合わなくちゃいけないんだよ」という恭一のセリフどおり、恭一は“異性愛者”、今ヶ瀬は“同性愛者”ですね。今ヶ瀬が恭一に「無理」と拒否され、想いが“受け入れられない”ところから、二人の関係は始まります。
成田 : 今ヶ瀬は、傷つく前提で恋愛をしているんです。傷つくことには慣れている。でも、その分、喜びに対してものすごく敏感なんです。だから、いつもさりげなく小さな喜びをたくさんくれる恭一が相手となると、苦労しますよね。
― 恭一は、最初「自分は異性愛者」という点で今ヶ瀬を拒否しますが、だんだん彼を自然と受け入れ、心を開いく姿が描かれています。
成田 : 彼は、ちょっとした時に、例えばテレビを一緒に見てる時に髪を触ってきたり、「来年もまた(プレゼントを)あげるから」と、ずっと一緒にいることを期待させるような言葉を言ってきたり。そんな恭一の行動が、今ヶ瀬を喜ばせるけど、そこには常に苦しみも同居している。苦しい恋愛だからこそ、その中で起きた嬉しいことに対する喜びの度合いが増すんだと思います。
― 今ヶ瀬は、恭一と一緒に暮らすようになってからも、常に恭一の周りにいる女性に嫉妬し、彼の相手は自分でいいのかと怯えていますよね。
成田 : 今ヶ瀬は、そこに対する「丸腰感」があるというか…。それが、今ヶ瀬という人間だからか、「異性愛者の同性」を愛する恋愛だからかなのかはわからないんですけど。
― 今ヶ瀬も恭一も、時間を経て変化していく相手と自分の気持ちに、戸惑っているように感じました。
成田 : でも、男同士だと、一緒にいるだけでなんとなく心の動きが見える、お互い全く説明がいらない事がすごくいっぱいあるのかなって感じることもありました。今ヶ瀬と恭一は会話を交わさなかった場面でも、もし今ヶ瀬が女性だったら、ここで何かしら言葉のやりとりをする必要が出てくるのかなとか。
― 例えば、それはどんな場面でしょう?
成田 : 服の上から乳首の位置を当てあってじゃれるというシーンがあるんですけど、あれなんかは男だとあるあるの遊びなんですよ。お互いの下着や服を交換して着るとか、一緒に過ごしている日常の中、「無意識レベル」で恋愛をしているっていう感じがありました。個人同士の恋愛という意味では、男女の恋愛も、男同士の恋愛も、変わらないんですが。
行定 : 男女の場合は、相手の気持ちに立って考えてみても、どうしても分かり合えないことがあると思います。それで苛立ちを感じたりするのは、相手との距離を縮めた結果なんですけどね。
行定 : 「女性として」「男性として」は関係なく、「一人の個人」として誰かを好きになる、そしてその気持ちを受け入れる、つまり自然と人が人を好きになるというその状況や過程を描きたかった。
― 今作の原作である漫画『窮鼠はチーズの夢を見る』『俎上の鯉は二度跳ねる』も、「社会」に向かうよりも「個人の想い」に向かっていたので、考えさせられる部分が多かったと行定監督はおっしゃっていましたね。
行定 : 原作を読んだ時に、「物語にドラマチックな要素はいらない」と気づいたんですよ。物語はさほどなくてもいい。でも面白い。それは、異性愛者と同性愛者の同性同士の恋愛であるがゆえなんです。よく同性愛を描いた作品には、例えば、親が息子のセクシャリティの事実を知りショックを受けるなどの展開があるものが多いですが、原作ではそういうシーンは全く出てこないですからね。だから、今回はそういう「ドラマチックさ」を省きたかった。
― 同性同士の恋愛であるがゆえ、というのは?
行定 : 恋愛映画で男性と女性が出てきたら、「相手の想いを受け入れられる」そして「恋愛できる」というのが大前提としてあるじゃないですか。でも、今作は「絶対相手を受け入れられない」「ありえない関係」から始まるんですよ。その「絶対ない」と思っている恭一に、今ヶ瀬が苦悩してアプローチして「受け入れる」までの全ての過程が、この中にはある。
― 「ドラマチックさ」はなくとも、「絶対ない」から「受け入れる」までを見せるだけで面白いということですね。
行定 : 「一人の人が人を好きになる」という感情の移り変わりを、説明的ではなく、丁寧にグラデーションの中で見せていきたかった。それが理想でした。やっぱりそこを徹底しないと、未来に映画を放ったときに、20年後、30年後「古い!」と思われる作品になってしまうんじゃないかな。
永瀬正敏が語る
成田凌という人間
― 本作を含めた行定監督の作品の多く、高校教師と元生徒の純愛を描いた『ナラタージュ』(2017)や、若者達のやりどころのない欲望や孤独を描いた『リバーズ・エッジ』(2018)などは、何かに自分を照らすことによって見えてくる、「見たくない部分も含めた自分の姿」と対峙する登場人物たちが描かれていると感じました。
行定 : そういうのが、好きなのかな(笑)。
一同 : (笑)
行定 : 愚かだな〜(笑)。ダメな人間なんですよ、僕がね。そこに欲望があるんです。
― といいますのは?
行定 : 正しくない道、「正しくない」というのは、“人としていけないことはわかってるんだけれど…”という、そういうことを感じている、感じ取っている時の人の歪みというのかな。そこから人間性が一番見えると思っていて。
― 「その人の人間性」が、一番出ている瞬間を見たいということですね。
行定 : 映画で人間のそういった生々しい部分を引き出すには、登場人物に乗り越えることが困難な、大きな障害を与えるのが効果的なんです。でもそれよりも僕は、人と人とが関わり合う中で、徐々にお互いの生々しい部分が見えてくるその「瞬間」が良いなと思っているんですよね。
行定 : そこを大事にしたいので、なるべく物語の展開を派手にしたくないし、人物の感情を簡単には露わにしたくない。でもほっといても、生きている役者が演じているので、感情は出てくる。それを見るのが好きなんですね。
― 成田さんは、以前より行定監督の作品がお好きで、出演したいと思っていたと伺いました。
成田 : まず、行定監督が自分のことを知ってくれているというのが嬉しかったですね。特に自分が10代の時なんかは、周りの友達も行定監督の作品を当たり前のように観ていて、その中でも自分は特に『GO』(2001)には衝撃を受けました。行定監督の作品は沢山観ましたけど、一番…一番くらってます。
― 原作者である金城一紀さんの実体験が元になっている、直木賞受賞作の青春小説『GO』を映画化した作品ですね。在日韓国人の主人公・杉原(窪塚洋介)が、日本人の女の子・桜井(柴咲コウ)との交際をきっかけに、国籍や民族間の問題に向き合い、自分自身の真実に目覚めていく日韓合作の作品です。
成田 : 最初は窪塚洋介さんを見たさに、映画を観ました。当時10代だった成田少年は、作品に込められた想いを全部汲み取れたかはわかりませんが…とにかく『GO』に強烈な一発を浴びました。
― 『GO』について行定監督は、「当事者としてではなく、その人たちの物語を描くという意味で今作と似ている」とおっしゃっていますね。そういうお話は、現場などでされたんですか?
成田 : してないんです。撮影に入る前は飲みに行って話したんですけど、今回、行定監督に「飲んで、むくんできたら撮らないかもよ」って言われたので、大倉くんと僕、クランクインしてからは全然飲んでないです(笑)。だから、あんまり深く話す時間がなくて。
行定 : 成田と最初に会って話した時に、もう信用できるやつだなと思ったというか(笑)。不器用にさらけ出しているから。そういう挑み方や丸腰な姿勢を見て、「あー、この人は映画の人だな」って思って。
― 「映画の人」ですか。
行定 : 僕が今までずっと一緒に仕事をしてきた俳優の永瀬正敏さんも、根底のところで自分をさらけ出している人なんだけれど、その人が成田のことを「あの人は、映画の人ですね」って言ってた。
成田 : え、いつですか?
行定 : 『カツベン!』(2019)で、成田と共演してたでしょ。だから「成田は現場でどんなやつですか?」って聞いてみたの。そうしたら「まあ、一言で言うと、あの人は映画の人ですよね」って言ってた。映画に向いてるって。
成田 : …鳥肌が立ちました…。
行定 : 永瀬さんは、あんまり人の事を褒めないんですよ。だからと言って、けなしもしない。本当にそう思ってないと褒めることはない。長年の信頼関係もあるので、たまに映画についてぶっちゃけた話もするような、僕にとって永瀬さんは背筋を伸ばすような存在なんです。その人が、成田凌は「映画の人だ」と言ってた。
― 成田さんは、「自分をさらけ出している」人だと。実際は、いかがですか? 自分にとって見せたくない部分もさらけ出してしまう…?
成田 : それは何も怖くないというか。
― 例えば、恋愛の中で、自分や相手が変化したり、自分の見たくない部分が見えたりしても怖くない?
成田 : 自分も相手も変化するもんだと思ってるし、自分の見たくない部分も受け入れますね。
行定 : そういう時、成田は情けなくなったりするの?
成田 : いや、その感覚が好きなんですよね。例えば、二日酔いになった日っていつもめちゃくちゃマイナス思考になって、「昨日…僕、なんか、うわー」ってなるんですけど、そういう時間がすごい好きなんですよ。
行定 : それは、悔いてる感じ(笑)?
成田 : 次の日に友達から酔っ払っている時の動画送られてきて、「昨日さー」ってその時にあった事を言われるのを、本当は聞きたくないんだけど黙ーって聞いて。でも、むちゃくちゃ「うわー」って思ってますけど…。
― イヤなんだけれど、好き、という…(笑)。
成田 : イヤなんだけれど、いいというか、うわーというか(笑)。
― 嫌な部分を含めて自分、ということを既にわかっているという感じなのでしょうか。
成田 : いや、逆にわかってないんですよ、そういう時は。「今までこうだったのに」って思うのは、自分が変化する瞬間というか、自分が次のレベルに行く瞬間にしかわからない気がするんです。だから、今はまだその時じゃないというか、自分が見えなくてわかってないんだと思います。
― 他人を通して、自分の輪郭を探るような…。
成田 : だから、嫌なんですけどね…。すごい嫌だけど、しょうがないというか…。また僕がいかにダメな人間かというのを、ペラペラと共演者とかに喋っちゃうんですよね。それで、ちょっとした笑いが取れれば、って思っちゃう(笑)。
行定 : やっぱり丸腰な感じがするなー(笑)。
どうしようもなくなった関係にいる
二人が見たい
― お二人は、恋愛映画をご覧になりますか?
成田 : 観ますよ。普通にキュンとします。映画は、好きな俳優さんが出てたら観ますし、面白いって言われたら観ます。ネットで今週公開される映画をチェックしたり、ポスター見て決めたりすることもありますね。
― 観ていて辛くなるような恋愛映画もご覧になりますか?
成田 : しんどくなるのは、あまり好きではないけれど…でも観ます。何でもちょっと引いて、すごいフラットな状態で観るかもしれないです。
行定 : 僕は、好きな恋愛映画いっぱいあるからなー。うーん…ミケランジェロ・アントニオーニ監督の『情事』(1960)。その双璧にあるのが成瀬巳喜男監督の『浮雲』(1955)。あと、最近の作品だとパヴェウ・パヴリコフスキ監督の『COLD WAR あの歌、2つの心』(2018)ですね。3作とも似ているというか、同じ類に入るような家族みたいな作品なんです。
その中でも『情事』の恋人の親友と浮気するサンドロの気持ちが痛いほどわかる。
― 『情事』は、疾走したアンナ(レア・マッサリ)の行方を、アンナの恋人・サンドロ(ガブリエル・フェルゼッティ)とアンナの親友・クラウディア(モニカ・ヴィッティ)が探す旅の中で、2人は次第に親密になっていくという、のちに『夜』(1961)、『太陽はひとりぼっち』(1962)と並んで「愛の不毛」三部作と呼ばれることになる作品ですね。
行定 : いけないと思いながらも惹かれ合う2人みたいな。クライマックスで、サンドロはどうしようもないことをしてクラウディアを傷つけてしまうんだけれど、サンドロは彼女の横でメソメソするばかり。「そこでクラウディアはどうするんだろう!?」って思っていると…。もうね、この男のダメさ加減がね…。
― 自分のようだと(笑)。
行定 : そう、実際にサンドロのようにはしないけど、あのダメさ共感してしまう(笑)。恋愛映画は、“ボーイ・ミーツ・ガール”で終わる作品が多いと思うんだけれど、僕が面白いと思うのは、その先なんじゃないかと。どうしようもなくなった関係にいる2人が見たい。これは、観た方がいいよ。
成田 : 観てみます。
― 成田さんの好きな恋愛映画はありますか?
成田 : …なんだろう…?
行定 : …『愛がなんだ』(2019)のマモちゃん。
― ダメな男つながりで…(笑)。
成田 : 心が痛い…(笑)。
行定 : 愚かなマモちゃん。
― (笑)。『愛がなんだ』は、恋愛に夢中になるあまり、周りが見えなくなってしまう主人公のテルコを岸井ゆきのさん演じ、その恋に翻弄される姿に共感が集まりロングヒットした作品です。成田さんが演じるマモちゃんは、そのテルコを翻弄させる役でしたね。
成田 : 結構前に観た映画ですけど、『エターナル・サンシャイン』(2004)は好きですね。
― 『エターナル・サンシャイン』は、ジム・キャリーが主人公を務める、ミシェル・ゴンドリー監督の作品です。斬新な構成と美しい映像でも話題を呼び、アカデミー賞脚本賞を受賞しました。
成田 : 僕ジム・キャリーが好きなんですよ。いつ頃観たんだろう。専門学生の時かな? まだ10代の時ですね。
行定 : 恋愛映画って、実は若いうちに観ると、そんなに理解できないんですよ。
成田 : そうなんですね。
行定 : 恋愛映画の面白さって、どこにあるかですよね。僕はウディ・アレンの映画が好きなんですが、彼の映画って基本恋愛映画なんですよ。さっきも話したけど、映画って、登場人物に何か障害を与えると、その心情が浮き彫りになるので物語がわかりやすくなるんです。けれど、ウディ・アレンは、そういう障害をあまり与えない。すごくフラットなので、肝心なところでちゃんとグッとくる。だから、面白いんです。
成田 : すごいわかります。
行定 : 例えば『アニー・ホール』(1977)は、ウディ・アレン演じる主人公のアルビーとアニー(ダイアン・キートン)の2人が関係を続けていく中で、「このままだと別れてしまうんだろうな」とお互い悟ってしまうわけです。
― 『アニー・ホール』は、口論と仲直りを何度も繰り返すアルビーとアニーの出会いから別れの年月を描いた、ウディ・アレンの代表作ですね。
行定 : それでもアルビーは、ずーっと明るく饒舌に喋っている。そういう中で、2人の関係は終わっていくんだけれども、2人はそれを無駄なものとしては捉えていない。そうすると、それは“永遠のもの”になる。今まで積み重ねてきた2人の過ごしてきた時間があってこそ、今の自分がいると。映画を観終わった後に、そんな風に感じられるんです。
行定 : いつも思うのは、恋愛映画っていわゆる修羅場のシーンに焦点を当てられることが多いけど、そこじゃないんだよね。二人でパスタつくったり、何気ないやりとりがあったり。「これが“永遠のもの”になるんだろうな」っていう空気がつくれているかどうかが、優れた恋愛映画にとって重要なところで、修羅場はあんまり重要じゃない。だって説明だもん。感情が出ちゃってるから。
― 今作でも、行定監督は、2人が結ばれた翌朝、リビングでいつも通りの会話をするカットがお好きだとおっしゃっていましたね。
行定 : あとは、恭一の部屋の台所でシンクをずーっと磨いてる今ヶ瀬のすごく切ない後ろ姿や、今ヶ瀬が一人でぽつーんと椅子に座って恭一の帰りを待ってるところ。あと、二人で中華食べに行こうって言って歩いてるところもいい。
成田 : お互いに交換した服を着て。
行定 : 「あの時、幸せだったんだろうな」って、一瞬でも感じれるところの積み重ねが恋愛映画の良さで、ウディ・アレンの作品が面白い理由はそこなんです。
成田 : そういえば、今の話で思い出したんですが、ウディ・アレン監督の映画で、主人公が「ハッピーバースデートゥーユー」と2回唱えてるうちに手を洗うと、細菌が洗い流せると言っていたのを思い出して、最近毎日手を洗いながら「ハッピーバースデートゥーユー」って2回言ってるんです、コロナに効くかなと思って(笑)。タイトル何でしたっけ? …そうだ、『人生万歳!』(2009)。あの映画も、好きなんですよね。