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空気を読まない人間なんて、いない
― おふたりは「空気を読む方か、読まない方か? 」をまずお伺いしたいです。と言いますのも『ある船頭の話』の中では多くの人々が、急速に入ってきた西洋文化をほとんど盲目的に尊びます。世間に蔓延した「空気」に翻弄される風潮は現代にも通じると思うのですが、本作はそこへ一石を投じているようにも感じたんです。
柄本 : 率直に言うと「空気を読まない人間はいないだろう」というのが、僕にはある。空気を読むのが苦手な人はいるでしょうけど、人間は社会で生きていますから当然空気は読みますよね。ここで言う「社会」というのは大きなものに限らず、人間同士が集まればあちこちで社会が生まれるわけです。たとえば、今取材を受けている僕と監督と編集部のおふたりとの間にも小さな社会が生まれていて、突然この場から思い切って逸脱しようとする人は、ただの変人でしょう(笑)。
― 人間同士が集まる以上、そこで互いに空気は読み合っていると。
柄本 : 自分というものの核と世間、両者の微妙なバランスを考えながら我々は生きてるんでしょうね。だから前提を崩してしまうようだけど、空気を読む/読まない以前に、空気を読まない人間なんていないだろうと思ってしまいました。
― 勝手なイメージなんですが、おふたりとも「空気を読まない」タイプなんじゃないかと思っていました…。いや、あえて空気を読まないタイプだと。たとえばお仕事の現場などで「空気を読まない勇気」を持っていて、それを実行できるという意味で。
オダギリ : 僕はひとりっ子で、長く母とふたり暮らしだったので、いつの間にか大人がかもし出す空気を敏感に察知して、空気を読んでしまう癖がついてしまったと思います。なので、未だに現場でも周りを見ていろいろ考えてしまうタイプですが、そういう小さなことばかり気になってしまう自分を嫌っているところもあります。
― 「空気を読まないタイプ」ではないんですね。
オダギリ : 全然、全然。むしろ真逆で、空気を読んでしまう自分が嫌だなと思うことは多いです。
柄本 : 僕も、先ほどお伝えしたとおりで、空気は読んでいます。人それぞれのやり方で空気を読むんでしょうけど、空気を読まないぞと振る舞っている人も、結局はどう振る舞うか考えていること自体「空気を読んでいる」ってことでしょう?(笑)
― なるほど。空気を読む/読まないを考えている時点で「空気を読んでいる」と。
柄本 : 潜在的に、人間はそれぞれのバランス感覚で、「隙間」を探しているんじゃないですかね。つまり全体のバランスを見て、この場所じゃないなと思ったら別の場所に行く。今これが足りないなと思ったら、それを足せる場所に行く。人によってはわざとシニカルになるなどして、あえてバランスを崩そうとする人もいるかもしれません。だから、人間はおもしろいよね。
― おもしろい、ですか。
柄本 : うん、おもしろいと思います。映画の現場に限らず、人間は社会の中で常にそんなことを考えているんじゃないですかね。
オダギリジョーと柄本明の「心の一本」の映画
― 今おふたりのお話を伺って、今回の映画について思ったことがあります。柄本さん演じるトイチが、変わりゆく社会の中で淡々と船頭の仕事を続けるのは、「諦めている」とも「自分の意志を貫いている」ともとれる。でもそれは、彼が社会の「隙間」を探して彷徨っているからなのかなと思いました。
オダギリ : おもしろいですね。そうやっていろんな見方をしてもらっていることが本当にありがたいですし、興味深いです。僕としてはどちらの意見もある気がしています。トイチは現状を受け入れざるを得ない気持ちもあっただろうし、でも自分には船頭しかできないという頑なさもあっただろうし、両方あるんだろうなと思います。ただ、自分で脚本を書いておきながら突き放すようなことを言いますが、どちらの意見が正解かは僕にはわからないです。
― 「この登場人物はこう思っていた、こうだったんじゃないか」と正解を求めがちですが、そこに答えはないと。
オダギリ : 制作段階からずっと、映画の結末がハッピーなのかアンハッピーなのか決めたくないと、それだけは思っていました。観ている方がどう感じるのか、人によってエンディングの受け取り方が変わるような映画にしたかったので、どちらの結末にもとれるような脚本を書いたつもりです。なので、意見を論じ合っていただけることは作り手側として非常にありがたいですね。
柄本 : 作品の解釈は、観る人それぞれが考えればいいんじゃないですかね。とにかく、映画はあそこで終わっているわけですから、その先の展開に答えを求めてもしょうがないのではないかと思います。作品はああやって終わったわけですから、その先の登場人物たちの人生をどう考えるかは、それぞれの勝手な解釈でよくて、結論づけする必要はないと思います。…どうも僕が最近思うのは、社会全体に「決めたがっている感じ」がありますよね。
― なるほど…。たしかにそういう社会の傾向はあるかもしれません。
柄本 : それは個人的な感情として気に入らないですね。どうでもいいはずのことさえ、わかりやすく結論づけようとする。「わからないこと=ダメ」というか、みんながどんどんどんどん「わからないこと」を受け付けられなくなってしまっているように思います。
でも、生きていることなんて、わからないことの連続ですよね。今、僕がここでこうやっていること自体わからない(笑)。もちろんお仕事でここに来ているということはわかっています。でもどうして今、ここで、こういう状態で、僕が、喋っているのか。どうしてみなさんとこうして出会ったのか。
― 私もなんだか、自分がなぜここで柄本さんとオダギリさんと話しているのか、だんだんわからなくなってきました…(笑)。
柄本 : わからないままでもいいんです。思うのは勝手だけれど、僕としてはそこで結論づけてもしょうがないと思います。
― それぞれが感じるままでいい、と。
柄本 : そもそもどうしてこう考えたのか、こうなったのか、その「わからなさ」みたいなものが、おもしろいんだと思います。でも人間っていうのは、わかりやすくしたい生きものなのかもしれないですね。
― わからないことを恐れずに、もっと自由に考えたり発言したりするべきなんでしょうね。
柄本 : なんか、決めたがるね(笑)。
― ……たしかに(笑)。無意識で「〜するべき」と結論を求めてしまいました。
オダギリ : もしかしたら、みんなわかりにくいものが怖いのかもしれませんね。ネット社会で答えを突きつけられる環境に慣れてしまっているから、考える「余白」みたいなものが怖いのかもしれないです。でも、今の若い世代とか心配ですよね。こんな、はっきりした答えばかり求められる社会に生きていたら。
柄本 : きっと学校の授業やテストで、そういう教育をされているんだろうな。社会や世間というのは、決まりを作った方が楽だから決めたがりますけど、残念ながら、決めようと思っても決められないことの方が多いと思います。
― 私自身も含め、物心ついた頃からネットが当たり前にある世代は、わからないことがあるとすぐ検索する癖がついてしまっていて、正解から外れることを極端に怖がっているかもしれません。それに検索して知ったことを、すぐ真実だととらえてしまったりもして。
柄本 : 本当は、僕らの周りにはわからないことがたくさんあるじゃないですか。象徴的なのは、犯罪や戦争ですよね。犯罪も戦争も絶対になくならない。つまり人間っていうのは、そういうものなんだと思います。
― 多くの人は犯罪も戦争も「私は絶対にしないことだから」と距離を置きますよね。
柄本 : でも、誰しも罪を犯したり戦争に加担したりする可能性もあるでしょう。人間には悪意というものがあるわけですから、「絶対にない」なんて言えないはずです。とすれば、相対的に考えれば、もうしているかもしれない。
そういう意味で、今回の映画は人々の思い込みから離れていこうとしている映画なんじゃないかと思っていますが、どうですか監督?
オダギリ : そうですね。何かはっきりした答えを出そう、それを伝えようとしている映画ではないと思います。最近の映画は、観る方へ答えを渡すことが大事になっているような気がしますね。簡単に答えを渡すことで、想像の可能性を狭めてしまうのはもったいないのではないでしょうか。
― 最後に、「わからなさを楽しむ映画」というテーマでお好きな映画をそれぞれ一本教えてください。
オダギリ : そうですね…僕はセルゲイ・パラジャーノフ監督の『ざくろの色』(1971)にします。
オダギリ : パラジャーノフ監督の作品は、まさにわからなさを楽しむ感じがあって好きですね。彼はアルメニア出身ですが、実は『ある船頭の話』で楽曲を頼んだティグラン・ハマシアンというジャズピアニストもアルメニア人。ティグランにオファーしたときには、作品の方向性を説明するひとつとして「パラジャーノフ監督のような色彩感覚で」と伝えていたんです。今思えば、僕の潜在意識の中にはパラジャーノフ監督のイメージが強くあるのかもしれません。
柄本 : 映画はいくらでもあるから迷うな…。僕はこのテーマならば…、古典的ですがジャン=リュック・ゴダール監督の『勝手にしやがれ』(1959)。
柄本 : ストーリーや演出もそうですけど、題名もちょっとなんか、今日の話にリンクしますよね。
― なんだかこちらに言われているみたいで(笑)。
柄本 : そうですね、「勝手にしやがれ!」って(笑)。