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高校デビュー失敗の理由は、映画にあった
― 現在公開中の映画『素敵なダイナマイトスキャンダル』(2018年3月公開)では、『写真時代』などの雑誌を次々と創刊した稀代の編集者・末井昭さんの役を、柄本さんが飄々と演じられているのが印象的でした。役柄と同じく、柄本さんには「飄々とした」イメージがあるのですが、以前に別のインタビューで「高校デビューを狙っていた」とおっしゃっているのを読んだことがあります。そのイメージとのギャップにびっくりしたのですが、それって本当ですか?
柄本 : はい、本当です。でも結論から言うと、高校デビューは失敗に終わりました。僕、中学3年間まったくモテなかったんですよ。僕が通っていた中学校は、制服がなくて私服通学だったんですね。当時の僕は殿山泰司(黒澤明監督や今村昌平監督などの名だたる監督に大事にされた名脇役)スタイルがかっこいいと思っていたんで、真似して白いTシャツにキャップをかぶって、下駄をはいて、Gパンのポケットには文庫本入れて、学校に通っていたんです。今でも、このスタイルはカッコイイと思っているんですがね。
― 下駄をはいて、通学されていたんですか!?
柄本 : そのせいもあってか、中学のときは、ちやほやされることが一向になく終わりました。だから高校デビューに憧れがありましたね。そんなときに、友人が「ダンスやろうよ」って軽く誘ってくれたんです。「ダンスやったら、モテたりするかな」と思って高校デビュー目的でストリートダンスを始めました。練習はよかったんですが、初めてダンスのイベントに出たとき、なんかみんなの……ハグとかハイタッチとかする感じ?のノリが合わなかったんですね。後日、客観的にそのときの自分を思い出して「あの中にいる僕は無理してるよなぁ…」と思ったんで、結局辞めました。
― 「殿山泰司」と「ストリートダンス」の落差がすごいと感じます。それほど、高校デビューに憧れていたんですね。
柄本 : はい、でもそこでもデビューは失敗。なぜかというと、僕が先輩に「◯◯くん、パス!」って言えなかったからなんです。
― どういうことです?
柄本 : そのバスケ部では、後輩が先輩を「◯◯くん」って呼んでいたんです。先輩と対等に話しかけていいんですね。僕が通っていた学校は幼稚園から大学までエスカレーター式で上がれる学校だったので、長い人だと幼稚園のときから知り合っている人もいるんです。僕はその学校に中学から入ったんですが、中学時代はそこまでいろんな人と交流していなかったこともあり、バスケ部に入ってもすぐには年上の人とうまく接することができなかったんです。だから、練習試合をしていても、僕は先輩に「パス!」っていうことにどうしても違和感があるんですよ。周りに合わせて「パス! パス!」とは言っているけど、本当は「パスください!」って言いたいわけなんです(笑)。
― バスケ部というコミュニティに馴染めなかった、と。
柄本 : 僕にバスケの経験があれば、バスケのスキルを通して仲を育んでいけたんでしょうが、何のスキルもなく、ただ背が高いという理由だけで入ったので、できあがったコミュニティの中になかなか入れなかったんです。で、「こんなんじゃ、もう無理だ」と思って、半年で辞めてしまいました。
― 先輩を呼び捨てできないという理由で、バスケ部を辞めたんですね。
柄本 : というのも、僕はそのときすでに映画の現場を経験していて、目上の人に対して「◯◯さん」って呼ぶことが徹底的に身についていたんです。それは、僕の映画デビュー作である『美しい夏キリシマ』(2002年)という映画です。映画の現場って、タテ社会なんで、年上の方や芸歴が自分より長い方には敬語を使うんです。
― 撮影当時はおいくつだったんですか?
柄本 : 14歳のときです。その歳って、ちょうど反抗期が始まりだす時期で、扉は「バーン!」って閉めるし、階段も「ダンダンダン!」って上がるしで、そのたびに母ちゃんに「佑!」って怒鳴られていました。「チッ! うるせえなババア」って、影で悪態をついていましたね。まだ面と向かって「ババア」とは言ってない時期。このまま順調にいけば直接「ババア」って言っちゃうだろうなっていう時期(笑)。そんな時期に、映画の現場という、思いっきり大人の世界に2か月間ぶち込まれて、両親がやっている役者の仕事についても知って、反抗している場合じゃなくなって帰ってきたんですね。うちの両親に「一気におじさんになったね」って言われましたもん。
― 柄本さんの役者として初めての本格的な仕事が、映画の現場だったんですね。
柄本 : 映画の現場との出会いは、当時の僕にとって衝撃でした。だからこそ、今の自分があると思っています。その経験がなければバスケ部の先輩に、「◯◯くんパス!」と平気で言えていたかもしれないですね。
柄本佑の「心の一本」の映画
― 柄本さんにとって、バスケ部とストリートダンスのイベントは馴染みにくい場所だったけれど、映画の現場はそうではなかった。なぜだと思いますか?
柄本 : それは、映画に対する憧れがあったからでしょうね。やっぱり映画を観ることが、すごく好きだったので。
― 中高生時代から、すでに映画をよくご覧になっていたんですか?
柄本 : 親の影響もあって元々観ていた方でしたが、『美しい夏キリシマ』で役者の仕事を始めてからは、なおさら観るようになりました。高校生なのでお金があるわけじゃないから、新作の映画はそんなに見られないんですよね。だから、映画館に行くなら名画座が中心でした。1,000円で2本観られますからね。池袋の文芸坐にはよく行ったなぁ。上映と上映の間の時間に、映画評論家の蓮實重彦さんや山田宏一さんの本を読んでいました。働きだしてからは、自分でいろいろと本を買えるようになったので、新宿の紀伊国屋本店に通っていました。あそこにある映画本コーナーが、僕のパワースポットだったので(笑)。そこで漁った映画の本を、紀伊国屋裏にある老舗のジャズ喫茶DUGで読む、みたいな高校生でした。
― 大人びた高校生だったんですね。その頃に観た映画で、今でも記憶に残っている映画はありますか?
柄本 : 『フレンチ・カンカン』(1954年)かな。この映画は、今も名画座で公開されるたびに観に行っているんですが、観るたびに違う一面が見えてくるんです。映画って、その時期その時期の自分にとっての一番があるけど、やっぱり生涯で一番の作品は『フレンチ・カンカン』だと思いますね。
― おいくつのときに観たんですか?
柄本 : 16歳くらいだったと思います。衝撃の出会いでした。観て、大号泣しました。その映画の監督・ジャン・ルノワールがつくり出す世界の豊かさ、大らかさに、もう感動しちゃって。語れることは、もはやあまりないんです。
― それはどうして?
柄本 : 「映画」っていうものの面白みを全て味わえるからです。圧倒的におもしろくて、圧倒的に感動する。ただ、それだけ。そんなチマチマ語るような映画じゃない。大団円の、踊り子たちがカンカン(女性ダンサーがハイキックで自身のスカートを捲り上げるのが特徴の、フランス発祥のショーダンスの一種)を踊るシーンは圧巻で、もはや「3Dに見えるんじゃないか?」というほどの迫力なんです。あのシーンで、僕は映画の波にさらわれる感覚に襲われましたね。
― 16歳で、生涯一番となる映画と衝撃的な出会いをされたんですね。
柄本 : いろんな映画を雑食に観るのは、そういう映画との出会いを期待しているからです。ただ、それに出会うには、やっぱりたくさんの本数を観ないといけないと思います。“量のない質”はありえない。僕は中高生時代「とにかく片っ端から観て、本数だけは稼ごう」という考え方でした。量を観ることは、何がおもしろくて何がつまらないかという基準を自分の中につくることにつながりますから。
― 柄本さんは、昨年お子さまが生まれて、また、映画・舞台・テレビと次々に出演されているので、大変お忙しいと思うのですが、最近も映画は観られていますか?
柄本 : それが、全然観られてないんですよ。やっぱり、なかなか映画館には行けないですね。友人たちからは、「映画を観るより自分の子どもを見ている方がおもしろくて、映画館に行く気しなくなるよ〜」なんて言われていたんですが、全然そんなことはなかったですね!(笑) もちろん、子どもはどうしようもなくかわいいですよ。でも僕にとって、子どもと映画のたのしみは全く別ですね。映画館はやっぱり行きたい!
― お子さまが生まれて映画館にはなかなか行けないけど、やっぱり映画は観たいんですね。
柄本 : 僕は映画も好きだけど、映画館も好きなんですよねぇ。映画館って、色っぽい空間なんです。何人もの他人と一緒に、暗闇の中に閉じ込められて映画を観るんだけど、僕が映画を「おもしろい」と思っていても、別の人は「つまらない」と思っていたり、寝ていたりもする。映画を観ながら、一緒の空間にいるお互いを盗み見ている空間でもあるんです。
― 映画だけでなく、映画館やそこに集まる人にも魅了されているということでしょうか?
柄本 : そうですね。『ローマの休日』(1953年)や『アパートの鍵貸します』(1960年)など名画と呼ばれるものは、一度名画座などの映画館で観ていただきたいです。真っ暗な中で見てほしいんですよね。僕は家で、DVDなどで映画を観るときも、部屋を真っ暗にして、時間の表示を隠して観るようにしています。そういえば僕、ヒッチコックの映画をそこまで観ることができてないんですよ。去年の年末、シネマヴェーラで上映されていたんですが、舞台の稽古中だったというのもあって、行けなかったんですよね。隙間の時間みつけて、観に行きたかったなぁ。