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仕事が一段落したときに、ときどき一人でふらりと寄るお店がある。見た目は古本屋なのだけど、奥に小さなカウンターがあって、私はそこで本を読みながらお酒を飲んだりする時間が気に入っている。この間も、そこでビールを飲んでいたら、店主から一枚の小さな紙を渡された。何だろうと見ると、そこには「自由研究(100人のしごと)」と書いてあって、「しょくぎょうは何ですか」とか「どうしてそのしごとをはじめたのですか」とか、ひらがなの質問が10個くらい書いてある。小学2年生の息子さんの宿題らしく、「よかったらアンケートに協力してくれませんか」とのこと。「いいですよ」と気軽に答えたものの、このシンプルな質問たちを前にしばし「うーん」と腕組みしてしまった。
先日、「ありがとう、トニ・エルドマン」という映画を観たときも同じ気持ちになった。バリバリと働く一人暮らしをしている娘のところに、父親がふらりと訪ねてくる。この父は、悪役ジョーカーや猫のモノマネをしたり、人が驚くような冗談が大好きらしい(でも、大抵の人には彼のそのユーモアは伝わらない)。娘からしたら「ふざけてばかりいないで真面目に生きたら」とため息をつきたくなるような父なのだけど、時々ハッとするような質問を投げかけてくる。「お前は人間か?」「お前は幸せか?」ーーその単純で子供のような質問に、娘はとっさに答えられない。彼女の仕事や人生はいつの間にか複雑なものになっていたし、ちょっと視点を変えれば笑い飛ばせることも笑えなくなってしまっていた。私にもそういう経験がある。今の仕事を始めたばかりのころ、周囲の期待に応えようとするばかりに「ダイジョウブデス」と「ガンバリマス」しか言えなくなった時期があった。もっともっとと背伸びするうちに、気づけば地面から足が離れて「何でこんなことしてるんだろう?」とふと分からなくなってしまった。そういうとき、なんだか世界で一人ぼっちになってしまったような気がする。
この映画の後半にこんな場面がある。驚くような民族衣装に身を包んだ父が、娘の誕生日に訪ねてきて花束をプレゼントするシーン。よく見ると、それは泥だらけの“根っこつき”の花束だった。それを見た瞬間、私の中で突然何かがはじけてあふれ出した。大爆笑と大号泣が同時にやって来て、どちらも止まらなくなってしまったのだ。笑いと涙と一緒に、いつのまにか心に分厚く着込んでいた服がはがれ落ちて、真っ裸の子供に戻っていくような気がした。映画館を出たとき、私はとてもシンプルな世界にいた。シンプルで、手に持った分だけの重みの感じられる世界に。
そんなことを思い出しつつ、ちょっと酔っぱらいながら小学2年生の質問に答えてみた。書き終わったとき、「ああ、そうだよね。こういうことが好きでやってたんだよな」と思った。
「自由研究(100人のしごと)」
- 1.しょくぎょうは何ですか。
(俳優) - 2.どこではたらいていますか。
(いろんな場所) - 3.どんなしごとをしていますか。
(いろんな人や動物に同化して生きること) - 4.いつから そのしごとをしていますか。
(お金をもらうようになったのは29歳からですが、小学生のころからやっていました) - 5.どうして そのしごとをはじめたのですか。
(それをしているときが一番自然だからです) - 6.そのしごとのどういうところが すきですか。
(いろんな人や動物と仲良しになれるところです) - 7.そのしごとのどういうところが たいへんですか。
(ときどきすごく一人ぼっちになった気分になるところです) - 8.これから やりたいことはありますか。
(たくさんの人を笑顔にしたいです) - 9.すきなれきし上の人物は だれですか。
(宮澤賢治です。農民であり詩人であり科学者であり芸術家でした) - 10.こどもたちへ 一言メッセージをください。
(自分が一番ワクワクすることを一生懸命やってみてください)
私にとっての“根っこ”を思い出させてくれて、ありがとう。
- 「手を振りたい風景」をめぐって
- 「人間らしさ」をめぐって
- 「言葉にならないこと」をめぐって
- 「ありのままの風景」をめぐって
- 年末年始におすすめの映画(後篇)
- 年末年始におすすめの映画(前篇)
- 初のホラー体験記
- 足下を流れる見えない水
- 緑はよみがえる
- 「のぐそ部」のころ
- 午後の光のようなもの
- 袋の男とボナセーラ
- 空洞に満ちたもの
- 「わからない」という魅力
- 猫と留守番しながら思ったこと
- いつでも口ずさむ歌があれば
- 白い、白い日々
- 続・私の日本舞踊ビギニングス 「男のいない女たち」
- 私の日本舞踊ビギニングス 「なんなんだ、この歩き方は」
- ゆっくり歩くと見えてくるもの
- 猫と留守番しながら考えたこと
- となりの山田くん、出番です
- ミジャさんからの手紙
- トラ(寅)ベラ・ノー・リターン 旅人帰らず
- 季節外れの腹巻き
- 未来よ こんにちは
- 子どもはどうでもいいことばかり覚えている
- 恋文、または命がけのジャンプ
- 私の出会ったワンダーランド
- 「ありがとう、トニ・エルドマン」たち