PINTSCOPE(ピントスコープ) 心に一本の映画があれば PINTSCOPE(ピントスコープ) 心に一本の映画があれば

どうしても語らせてほしい一本 「新たな一歩を踏み出したい」

東京という大きな「生き物」が、
人生の岐路に立つ人を静かにつつんでくれる『珈琲時光』

© 2003松竹株式会社/朝日新聞社/住友商事/衛星劇場/IMAGICA
ひとつの映画体験が、人生を動かすことがあります。
「あの時、あの映画を観て、私の人生が動きだした」 そんな自分にとって特別な、そして誰かに語りたい映画体験記。
今回のテーマは、「新たな一歩を踏み出したい」です。“思い立ったが吉日”ということわざどおり、ものごとを始めようと思ったら、そう思った時こそ実行するタイミング! …と頭ではわかっていても、「明日からにしよう…」と自らその一歩を踏み出すのは難しいもの。
では、あなたの背中を、映画に押してもらうのはどうでしょう? そっと寄り添い、あなたと一緒に最初の一歩を踏み出してくれる映画を見つけてみませんか。

東京で生まれて育ち、一度も他県で生活をしたことのない私は、「東京」という街に対する想い入れを何も持たないまま暮らしていました。

テレビや観光ガイドで紹介されるような「大都会」という実感もなければ、好きでも嫌いでもない場所。それが、私にとっての東京でした。だから、地方から上京してきている友人が、出身地のことを懐かしそうに話したり、同じ出身地の人同士が、私の知らないローカルな話題で突然盛り上がったりするのを見ると、いつもとても眩しく感じていたのです。

そんな私が、初めて東京を「生活する自分の街」として魅力的に感じたのは、映画『珈琲時光』(2003)を観てからです。

台湾の映画監督、侯孝賢(ホウ・シャオシェン)が、小津安二郎監督の『東京物語』(1953)へのオマージュとして撮った『珈琲時光』では、東京の下町で下宿する主人公・陽子(一青窈)の目線を通して、2000年代初頭の東京の街が描かれています。
この映画には、これといった大きなドラマは起こりません。わかっているのは、フリーライターである陽子が、どうやら台湾出身の作曲家・江文也について調べているということ。その中で出てくる、古書店を営む肇(浅野忠信)との友人関係や、高崎の実家に住む両親との時間でも、とりとめもない会話を交わす様子が静かに映されているだけです。

© 2003松竹株式会社/朝日新聞社/住友商事/衛星劇場/IMAGICA

ただひとつ、この映画の中で軸として描かれているのは、陽子が「妊娠している」ということ。おそらく父親は、仕事の取材先で出会った台湾に住む誰か。でも、そこに対する不安や葛藤は映画ではほとんど語られず、陽子は、ひとりで子どもを育てることを決めています。

この映画で一番印象的なのが、東京の街をひとり移動し続ける陽子の姿。神保町や御茶ノ水、高円寺などの古書店街や喫茶店を、台湾の作曲家の資料を探して訪ね歩くのですが、電車を乗り継いでいく陽子の様子が、映画のほとんどの時間を使って描かれているのです。改札をくぐり、駅のホームでアナウンスを聞き、電車に揺られながら東京の風景を眺める。そして映画は、山手線と総武線、中央線と丸の内線と4つの路線が交差する、御茶ノ水駅付近の風景で終わりを迎えます。

『珈琲時光』を観ていると、建物が混在する街を縫うように走るたくさんの線路が、まるで東京という街の「血管」のように見えてきます。そして、映画の中で流れ続ける電車のガタンゴトンという音や、多くの人が行き交う雑踏の生活音が、東京という大きな「生き物」の胎動のように感じられるのです。

電車でうとうと寝てしまったり、つわりを起こして駅のホームに座り込んでしまったり。多くは語らなくても、陽子の中では、確かにもうひとつの命が生きていることがわかります。実家のある群馬県高崎のような、自然に囲まれた静かな場所にずっといたら、人生の岐路に立つ陽子の不安や孤独は、もっと膨れ上がっていたかもしれない。雑多で、忙しなくて、日々動き続ける東京という「生き物」に溶け込むことで、自分の不安や孤独もすっと紛れていく。そんな、程よい距離感で寄り添ってくれる心地よさが、東京にはあるのかもしれないなと、この映画を通して思いました。

© 2003松竹株式会社/朝日新聞社/住友商事/衛星劇場/IMAGICA

社会人一年目に観たこの映画ですが、仕事で中央線に乗って御茶ノ水駅付近を通過するたびに、今でもラストシーンの風景をよく思い出します。
私が悩みを抱えて気持ちが立ち止まっている間も、血管のように街を走る電車が多くの人生を運び、東京は止まることなく動き続けている。そのとてつもなく大きな生き物の中に自分も紛れていると思うと、重く感じていた一歩も、「ほんの少し動くだけだ」と、踏み出せるような気がしてくるのです。

BACK NUMBER
FEATURED FILM
珈琲時光
脚本:侯孝賢/朱天文(チュー・ティエンウェン)
監督:侯孝賢(ホウ・シャオシェン)
主題歌:一青窈『一思案』 作詞:一青窈/作曲:井上陽水
出演:一青窈(ひととよう)/浅野忠信/小林稔侍/余貴美子/萩原聖人
© 2003松竹株式会社/朝日新聞社/住友商事/衛星劇場/IMAGICA
東京でフリーライターとして暮らす陽子(一青窈)。台湾にいるボーイフレンドの子を妊娠したが、一人で生んで育てると決めている。マイペースに生きる陽子だが、周囲は穏やかじゃない。上京してきた両親(小林稔侍、余貴美子)は、なかなか娘に本題を切り出せず、結局一緒になって手土産の肉じゃがをつつくだけ。

古書店主2代目で親友の肇(浅野忠信)は、実は胸に秘めた陽子への思いを告げられない。体調を崩した陽子の部屋を見舞っても、陽子のために肉じゃがをつくっても、その距離は微妙に縮まらない。

そんな日々、陽子は東京の街で自分の周りの大切なものに気づき始める。そして、想う-新しい命のこと、家族、そして、未来を誰かと歩くということ-
PROFILE
ライター
安達友絵
Tomoe Adachi
映画誌での執筆、児童書の編集などを経て、現在フリーライターとして活動。お酒と、犬と、韓国カルチャーに夢中の日々。
シェアする