去年の夏の終わりに京都から東京に引っ越してきた。都心から電車で30分ほどのベッドタウン。大きな川のそばの静かな街だ。
高校を卒業するまで住んでいた石川の町も、その後9年間住んでいた京都の街も、どちらも大きな川が流れていた。手取川と鴨川。川がある街にこだわっているわけじゃないし、それぞれの川に、そんなに愛着があるわけではないけれど、やっぱりどこか安心するのかもしれない。橋を渡ることは気持ちがいい。
2月から続く身の回りの時間が止まってしまったような日々はまるで、晴れの日が続いたあとのゆっくりと流れる川のようだ。水の流れは止まることはないし、時間もひたすら一方向に向かって流れ続けている。僕はそんな時間の流れにぷかぷかと浮かびながら、映画を観たり、こうやって机に向かってなにかを生み出そうと考え事をしたりしている。雪が降っていた窓の外はあっという間に夏になった。
京都にいるときに住んでいた部屋の間取りは6畳の1Kで、その小さな部屋にベッドと2つの本棚、楽器にテレビにレコード棚、さらに、最後の1年は部屋の真ん中にダイニングテーブルを置いていたので、余白がまったくない、四方八方ぎゅうぎゅう詰めの生活だった。部屋で書き仕事ができるように、と買ったダイニングテーブルだったけど、結果的にその押しつぶされそうな空間に嫌気がさして、原稿や歌詞のほとんどをミスタードーナツに朝から晩まで居座って書くことになった(そのおかげで大事な場所が増えたのはよかった)。
京都の街はいろんなお店や場所がぎゅっと詰まっていて、自転車で15分ほどの距離のなかにいくつも映画館があり、好きな本屋さんやレコード屋さん、ご飯屋さんもすぐそばにある生活だった。
東京のベッドタウンにある新しい部屋は2階の東向きで、まわりに大きな建物がないこともあって風がよく通る。駅からは少し離れているけれど、その分家賃がとても安くて、広めの2DKなのに京都で住んでいた部屋と値段はそんなに変わらない。友達とご飯を食べに行くのに、電車に揺られ、家から駅まで合わせて1時間ぐらいをかけて都会の街に出ていくのにもだんだんと慣れてきた。
家でなにかを作る、ということを仕事にしている僕にとっては少し不便なぐらいがちょうどいいのかもしれない。丘の近くの街なのでどこを向いても緑があって、そんなところが京都と同じで少し安心する。たまに本当に東京で暮らしてるのか、分からなくなることもあるけれど。
家から一番近い映画館はふたつ先の駅にあるシネコンで、自転車で10分くらいの距離にある。少し足を伸ばした先の大きい街にもいくつか映画館があって、気になっていた映画はたいていそのどちらかで観ることができる。東京で公開されている映画が関西にやってくるのを待つ、みたいなことはなくなった。それでも、やっぱりあの「生活に映画館が溶け込んでいた街」が恋しくなってしまう。上映スケジュールを見比べて、ときには一日かけて映画館をはしごしたり、ちょっとした空き時間に適当な映画を観に入ったり、なにかのついでにふらっとチラシだけもらいに寄ったり、そんなふうに映画館と接していたことが、ふと思い起こされる。
2月から続くこの状況のこともあって、家で映画も観ることが増えた。電車に乗って映画を観に行くことの、ちょっとした特別感、適当な格好で近所の映画館にふらっと入るのとはまた違った、「来週のこの日にあそこの街に行って映画を観る。ついでに美味しそうな中華屋さんにも寄って、気になる古本屋さんも覗こう」とワクワクする楽しみ方が、ちょうど生活に馴染んできたところでの出来事だった。
少し前の新作も家にいながら配信で観ることができてしまうのは、今の状況を考えれば嬉しくもあるけれど、寂しくもある。すぐ画面に呼び出せても、そこにある距離は僕にとってなんだか遠いままだ。実際の手間と距離は、また少し違うものなのかもしれない。もちろん、動画配信でしか観ることができない作品のなかにも僕にとって大切なものは数え切れないくらいあって、今年公開された『ハーフ・オブ・イット: 面白いのはこれから(原題:The Half of It)』は本当に大好きな映画のひとつだ。考え方を変えれば、たとえその作品をDVDやブルーレイという形で手元に置いておけなくても、そのサウンドトラックや、劇中で流れた曲が入っているアルバムのレコード、という形で部屋のなかに招き入れることもできる。ポスターでも、原作のコミックや小説でもいいし、『最高に素晴らしいこと(原題:All the Bright Places)』の登場人物のマネをして部屋の壁に小さなアイデアが書かれたメモを貼ることでもいい。映画館で感動した勢いで買ったパンフレットはぱらぱらとめくるたびにその日のことを思い出させてくれる。
でもやはり、変な意地もあって、好きな映画はなるべく手元に持っておきたい。それは、小さな小さな抵抗のような気分もあるし、なにより僕自身が、棚に好きなものをずらっと並べることに、いつまでも夢中なのだ。結局僕はどんな部屋に住んでも、多すぎるぐらいのものに囲まれた暮らしになってしまうのだろう。
レコードにカセットにCD、本と雑誌、外国の大きくて固いグラフィック・ノベルや写真集、お気に入りの本屋さんで見つけた文房具に、オークションサイトで見つけたセサミストリートやタンタンの冒険のおもちゃ。ミスタードーナツのマグカップ。額に入れたポスターや絵。DVDにブルーレイ、デッキが壊れてしまい、もう観ることができなくなったVHS。そんなものたちに囲まれた部屋で茶色のソファにだらっと腰掛けて映画を観る。買ったままになっているDVDを観るか、それよりも新しく動画配信サービスに入ったあの映画を観ようか。ちょっと疲れていたり、気分が乗らなかったりするときは何度も観たあの大好きな映画を観るのもいい。DVDの特典映像だけをぼーっと眺めるのもいい。『トイ・ストーリー』や『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』の特典映像は多分本編よりも多くの回数観ている気がする。ブルーレイになってもリマスターされることがない特典映像はその時代の色や質感がくっきりと残っていて、妙な懐かしさで胸がいっぱいになる。途中でスマホを覗いたっていいし、レコードをかけながら観てもいい。途中でキッチンにアイスクリームを取りにいってもいい。僕のシアタールームにはルールなんてない。
窓をあけて小さな音で映画を観ていると、ときどき遠くのほうから電車の音が聴こえてくる。多分、街の音がしんとなったタイミングと電車が通るタイミング、風の向きなんかがちょうど揃ったときにその音はやってくる。窓から入り込むそんな音は部屋じゅうのいろんなものをくすぐっていき、僕の心もまんまと浮ついてしまう。ロマンチックな気分になったり、やけに寂しくなったりする。
静かな夜や、風が気持ちいい午後、雨がさらさらとベランダに落ちる時、ふとした瞬間に部屋中の棚から、キッチンから、作業机の上からなにかの声がそっと聞こえることがある。ここにはこれから、そんな小さな声のことを書こうと思う。シアタールームの窓から、誰かに手紙を投げるように。例えば、あの大きな川の向こう側に住んでいるあなたに届くように。
- moon shaped river life
- 『ゴーストワールド』にまつわる3篇
- won’t you be my neighbor? 『幸せへのまわり道』
- 自分のことも世界のことも嫌いになってしまう前に 『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』
- “君”のように遠くて近い友達 『ウォールフラワー』
- あの街のレコード店がなくなった日 『アザー・ミュージック』
- 君の手がきらめく 『コーダ あいのうた』
- Sorry We Missed You 『わたしは、ダニエル・ブレイク』『家族を想うとき』
- 変化し続ける煙をつかまえて 『スモーク』
- 僕や君が世界とつながるのは、いつか、今なのかもしれない。『チョコレートドーナツ』と『Herge』
- この世界は“カラフル”だ。緑のネイルと『ブックスマート』
- 僕だけの明るい場所 『最高に素晴らしいこと』
- 僕たちはいつだって世界を旅することができる。タンタンと僕と『タンタンと私』
- 川むかいにある部屋の窓から 君に手紙を投げるように