この部屋にやってきて2回目の春が来た。昼間の窓から入り込む風や、散歩をしながら吸い込む夜の町がまとう空気はすっかり春の匂いがしている。石川にいても京都にいても東京にいても、季節の匂いはいつも同じで、変わり目の季節は余計に懐かしい気分になってしまう。
そういえば、2年前のちょうど今頃、イギリスツアー中に寄った田舎道のサービスエリアでもふと同じような春の匂いがして、不思議な気分になったことがあった。12時間近く空を飛んでようやくたどり着いた憧れの場所にも、昔からずっと好きだった匂いがあったからだ。
そんなイギリスの田舎町で食べたアイスクリームや、通っていた高校の緑のブレザー、CD屋さんの黄色のロゴが入ったエプロンとそのポケットに挿したカッターとお気に入りのペン、今のバンドを組んではじめてのライブ、そして世界中の人が家から出られなくなったこと、色々な景色や味がこの季節の匂いに閉じ込められている。
大学に入ったばかりの頃、つまりはじめて石川の町を出て、京都で一人暮らしをはじめた頃の記憶が僕には色濃く残っている。新しい街には新しい音楽や映画、本に出会える場所があちらこちらにあって、そのほとんどは半日もあれば自転車でぐるりと回れる距離にあった。それは小さな町で育ってきた僕にとって、とても大きな変化だった。僕はたくさんの作品や人や文化に出会った。色んなものに触れて、影響を受けて、ゆっくりと変わりながらここまで歩いてきた。あの春はそのはじまりのような季節だったような気がする。
今年の春のHomecomingsがリリースする『Moving Days』のテーマは「変わること」だ。『Moving Days』というタイトルは“引っ越し”を意味していて、それはつまり自分の生活が変化することでもあるのだけど、同時にその生活のなかで変わっていく自分自身のことでもある。新しい窓に新しいカーテン。なにかに気づくことと変わっていくこと、優しさを手放さないことを歌ったアルバムを作りたいと思って歌詞を書いた。
『家族を想うとき』や『スケート・キッチン』、『ハーフ・オブ・イット:面白いのはこれから』や『トイ・ストーリー4』に『ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー』という映画、『ウィル・グレイソン・ウィル・グレイソン』や『フライデー・ブラック』、『ニッケル・ボーイズ』といった文学作品は、それらに触れることで、それ以前の僕がいた場所から、僕と世界との距離を変えていった。
この部屋のソファの上で僕は少しずつ変化していく。真っ暗なスクリーンに映る僕の姿は、2時間前となにも変わらないように見えるけれど、確実に僕のなかでは変化が起こっている。映画にはそんな力が宿っている。もちろん、音楽や文学にも。
この部屋に来てから出会ったものだけじゃなく、シアタールームの棚にずっと並んでいる映画たちにも改めて向かいあってみた。そのなかには大好きで何度も観た映画あれば、一回観たきりで棚へ入れっぱなしになっていた映画もあって、それを1本ずつ観返していくことは、自分が歩いてきた道を改めて振り返るような作業だった。もしかしてそれはこんな状況になっていなかったら、できなかったことなのかもしれなかった。
棚の中から取り出して久しぶりに観たいくつかの映画の中に『チョコレートドーナツ』という作品があった。1979年のウエスト・ハリウッドを舞台に、偏見や差別や制度の中でボロボロに傷つきながら小さな光を守ろうと抗う人たちを描いている映画で、同性愛者の二人がみなし子となってしまったダウン症の少年と共に暮らしていこうとする物語は、実際にあった出来事を元にしている(物語自体はフィクションになっている)。
この映画が日本で公開になったのは僕がちょうど大学を卒業してCDショップで働きはじめた春のことで、引っ越したばかりの新しい部屋から自転車に乗って、京都シネマという映画館へ観に行ったことを覚えている。海外文学に夢中になるのはもう少し後のことだったので、僕にとって、音楽以外で一番身近なカルチャーは映画だった。働いていたCDショップもその当時住んでいた部屋も京都の中心地にあったこともあって、僕はこの頃から映画館によく通うようになった。
『チョコレートドーナツ』は京都シネマで観た2本目の映画で、はじめて観たのはウェス・アンダーソン監督の『ムーンライズ・キングダム』だった。大学4年生の頃だった。館内には他の映画館やTSUTAYA、大学の情報館の棚ではみかけないような単館系の映画のチラシがたくさん置いてあって、どうしてもっとはやくここに来なかったんだろうと悔しくなった。大学生活のなかに、もっとこんな映画館との時間があればどんなに素敵だっただろう、と思った。そんなこともあって僕は大学があった山の上の町から、京都御所のすぐそばのアパートに引っ越してきたのだった。そんなワクワクした気持ちで、とりあえず可愛いタイトルだからという理由だけで観たこの映画は、僕がなんとなく想像していた甘酸っぱいドラマではなく、悲しい、そしてどこまでも現実の物語だった。
それまで僕が観てきた映画のなかでも悲しいストーリーやハッピーエンドではないものようなものはいくつもあったけれど、『チョコレートドーナツ』はそのどれとも違う感触があった。これは現実で、僕が目を向けてこなかったものだ、と思った。7年前の僕にとって、目をそむけてはいけないものを、目をそむけられない場所で映し出されることの衝撃はとても大きなものだった。思えば男性同士が愛しあったりキスをしたりするシーンをしっかりと観たのはそのときがはじめてだったのだと思う。
Netflixに夢中になるのはそこから2年が経ってからのことで、まだ、多様性ということばも今のように大きく掲げられてはいなかったような気がする。少なくとも僕にはまだ、馴染みのないものだった。もしかしたら、今ならぞっとしてしまうようなことを口にしたり、態度や行動に表してしまっていたりしたかもしれない。当時、友達と話しているときに「外人っていう言い方は良くないよ」と言われた僕は、それを素直にすとん、と受け入れただろうか。多分、にやにや笑ってごまかしていただろう。そんな僕にとって『チョコレートドーナツ』はずっと体のどこかに刺さっている小さな見えない棘のように残り続けた。面白かったよと人に勧めたりもしなかったし、好きな映画として挙げることもほとんどなかったけど、ずっと僕の中に居座り続けているような気がした。
それから、海外文学を熱心に読むようになったり、毎週のように小さな映画館に通ったり、Netflixで『13の理由』や『クィア・アイ』に夢中になったりしながら、僕の中で色んなものの意味が変わっていった。世界のことがぐっと自分に近づいたようだった。世界で起こっていることに様々なカルチャーを通してふれられるようになった。知らないことばをひとつひとつ調べては覚えていった。自分がメインで歌詞を書くようになったことも大きなきっかけの一つだった。新しいカルチャーからもらった強い意思や優しさやひらめきを僕は自分が作るものに込めた。
世界には悲しいニュースがたくさんあったけれど、1979年と比べると少しは息がしやすい社会になっているようにみえた。『チョコレートドーナツ』をはじめて観た2014年から2021年までの7年の間に世界や社会は大きく変わっていった。あの頃、当たり前じゃなかったことがちょっとずつ当たり前のことに変わってきた。それでも僕たちが目をむけなくてはいけないことはまだまだある。Black Lives Matterにアメリカでのアジア人に対するヘイト・クライム、同性婚や婚約における別姓の問題。この1年だけでも、世界は新しい問題にぶつかり、そしてそのたびにカルチャーはそこに向き合っていく。カルチャーは個人が世界とつながる窓になる。
あの春に観た『チョコレートドーナツ』は僕の中の深いところにゆっくりと潜っていき、水面に波を立て、それは僕の変化のはじめの予感のようなものになった。長らく観返すことのなかった(買ったことも忘れていたDVDはなにかから隠れるように棚の奥に倒れていた)その映画をふと手にとったことから、そしてこの映画のなかで印象的だった「守りたいだけです、制度の隙間からこぼれ落ちる罪のない子供を」というセリフから、『Here』という僕たちにとって大切な曲が生まれた。
アルバムに収録される『Herge』という曲は柔らかに変わっていくことについて書いた曲だ。変わる速さは人それぞれでいいし、なにかに合わせて無理やり変化する必要もない(だからといって誰かを傷つけたり差別したりすることは許されるわけではないけれど)。きっかけをなににするのか決めるのもその人次第だ。それが僕にとっては『チョコレートドーナツ』や数々の映画、Netflixのドラマだったりした。僕たちが作った音楽に触れて、誰かのなにかが少しでも変われば、それは世界がミリ単位でも動いたことなのかもしれない。そこに込めた願いは今こうやってキーボードを叩いている指先に塗った色に乗せたものと同じだ。タイトルは僕が小さな頃に一番最初に好きになった絵本の作者からとった。図書室の隅の『タンタンの冒険』は僕にとってのはじめて出会った世界への窓だった。
このアルバムは僕たちにとって4枚目であると同時に、メジャー1stアルバムでもある。この春もまた、僕にとって忘れられないような季節になるかもしれない。そしてこのアルバムが誰かにとっての世界へつながる窓になりますように。Any Day Now、いつか、それは今なのかもしれない。
- moon shaped river life
- 『ゴーストワールド』にまつわる3篇
- won’t you be my neighbor? 『幸せへのまわり道』
- 自分のことも世界のことも嫌いになってしまう前に 『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』
- “君”のように遠くて近い友達 『ウォールフラワー』
- あの街のレコード店がなくなった日 『アザー・ミュージック』
- 君の手がきらめく 『コーダ あいのうた』
- Sorry We Missed You 『わたしは、ダニエル・ブレイク』『家族を想うとき』
- 変化し続ける煙をつかまえて 『スモーク』
- 僕や君が世界とつながるのは、いつか、今なのかもしれない。『チョコレートドーナツ』と『Herge』
- この世界は“カラフル”だ。緑のネイルと『ブックスマート』
- 僕だけの明るい場所 『最高に素晴らしいこと』
- 僕たちはいつだって世界を旅することができる。タンタンと僕と『タンタンと私』
- 川むかいにある部屋の窓から 君に手紙を投げるように