休日になるとなんのあてもなくふらっと散歩をしにいきたくなる街がある。
この部屋から自転車なら20分くらい、バスの方が時間がかかってきっちり時間通りにバス停から出発したとして(そんなことはほとんどないのだけど)、大体30分くらいはかかるような気がする。その街に行くときはたいてい時間なんて気にしなくていいことが多いので、なんとなくバスでゆっくりと向かうことがほとんどだ。普段どんなところでも雨が降っていない限りは自転車で行こうとする僕にとって、その街そのものとバスに乗ることはなんとなくセットになっていて、ゆっくりと進む客席がまばらのバスから窓の外を眺めてみたりする時間がとても好きだ。
その街には馴染みのレコード屋さんがあるわけでもないし、ここ、と決まっている美味しいごはん屋さんがあるわけでもないけれど、どこか懐かしい雰囲気を残す建物たち、小さな喫茶店にいくつかの小さな本屋さん、一直線に伸びながら交差する通りと視界に入り込む緑が、どこか大好きな京都の街並みと似たようなものを感じさせるのだ。
もっというと自分が住んでいた今出川駅から北大路駅や丸太町駅くらいまでのエリアや大学生にときにアルバイトでほとんど毎日通っていた一乗寺とどこか似たような匂いがする。そんな街は東京のなかでもこの街だけで、それが僕にとって特別な理由だ。(大好きでよく通っていた、海外の絵本を専門的に扱う小さなお店は去年の春に閉店してしまった)。
そしてもうひとつ、僕がこの街に通う理由がある。駅と併設されたちょっとした商業施設のなかに入っている、よく見かけるコーヒー・チェーンのお店。一見するだけだとなんてことのないこのお店が実は、主なコミュニケーション言語を手話をとするサイニングストアなのだ。
改札を出てすぐ向かいのドアを通って建物のなかに入ると開放的な広いフロアにコーヒーの柔らかな匂いがふわふわと漂っている。生活雑貨のお店にメガネ屋さん、奥にはパン屋さんとカルディと小さいけれどきりっとした品揃えの本屋さん。そしてそのコーヒー・チェーンのエリアがある。サイニングストアといっても他の店舗とシステムや作りが大きく違うわけではなく、ぱっとみて分かる違いは「Proudly served in sign language.」と書かれた大きな看板があることくらいだ。
東京に引っ越してくる少し前から、なんとなく声以外のことばでのコミュニケーションというものに興味があった。きっかけは京都に住んでいた頃に働いていたCDショップで、ろう者のお客さんから店頭で問い合わせを受けたことだ。アーティスト名とタイトルが書かれたメモを差し出しとんとんと指で念押すように示す。それだけではろう者のひとだと気づけなかった僕は、「こちらの商品をお探しですか?」と声に出して答えた。少し間が空いて、お客さんは耳をぽんっと触り腕で大きくばつを作る。そこでやっと僕は気がついて、数秒あたまのなかをぐるぐると回してから、エプロンのポケットから小さな手帳とペンを出して筆談をはじめた。
あたりまえのように言うありがとうございますも、どういたしましても、またお越しくださいも、ことばで伝えることができなかった経験から、かなり大きなチェーン店でもあるそのお店ですら手話で基本的な挨拶や案内ができる人が誰もいないことや、オペレーションが作られていないことに改めて気付かされたし、CDショップという場所にろう者の方が来る、という想定そのものがされていないのではないか、(もっとというとCDショップにろう者の人が来るわけがないという暗黙の想定がされているということなのかもしれない)と考えもした。そのあとすぐに本屋さんへ行き、実用手話ハンドブックという本を買った。
サイニングストアでは、覚えている簡単な手話をいくつか取り出し、頭のなかで何度もシミュレーションしてレジに行く。はじめの何回かは上手くできず、というよりかは照れと恥ずかしさの混ざりあったような気持ちで勇気が出ずに、結局指でメニューを指して注文して、最後に小さく右向けた左手の甲から右手をぽんと挙げ「ありがとうございます」だけはかろうじて手話で伝えることがほとんどだったけど、何度も通っているうちに少しずつ少しずつ使えることばは増えていき、コーヒーの注文はひととおり手話でできるようになった。
言語の練習において、実際に使ってみることの効果の大きさ、必要性を身を持って感じることができた。想像していた通りにいかないことや思いがけず意図が伝わること、スピードの緩急、後ろの並ぶひとがいるときといないとき、用意していたことばをど忘れしてしまったとき。頭のなかと違い現実では色んなことが同時に動き、流れ続けている。そんなとき、僕たちにとって声のことばは半ば無意識の状態で発されていることがよく分かる。レジのスタッフのかたに助けられながら少しずつ、意識のスイッチを押さずに手話を組み合わせることを覚えていった。
月に何度か、その街に行くと必ず、コーヒーを飲みに行くようになった。そこで書き仕事をすることもあるし、本を読んだりただただぼーっとして過ごしたりすることもある。レジが見える席のときは、他のお客さんが使う流暢な手話をみて参考にすることもある。その場所で自分が感じたことや目にしたこと、その街の景色をもとにして「Good Word For The Weekend」という曲の歌詞を書いた。
その頃、レーベルスタッフからおすすめされたイギル・ボラの『きらめく拍手の音 手で話す人々とともに生きる』という本の影響も大きくて、そこから「君の手がきらめく」というフレーズが生まれたりもした。
『きらめく拍手の音』は自身もコーダである作者が、同名のドキュメンタリー映画を制作するまでの過程やその後の出来事、様々なコーダ当事者の声などを通してろう文化や手話、ろう者と社会の関係などを案内してくれる一冊だ。
「コーダ(coda)」は「Child of Deaf Adults」の略で、ろう者を親にもつ聴者のことを差すことば。ふたつの世界に交わるひとたちを差すことばだ。ふたつの世界をいったりきたりしながら、これまでどんなことをみてきたのか、どんなふうに感じたのか。それに触れることで僕たちはおぼろげにみえていたものを少しだけ手に取れるようになる。僕たちは自分たちが肌で感じることの外にあるものを想像しなければならない。それはやさしくなること、やさしい社会を作っていくことにとって絶対に必要なことだからだ。
今年の1月に公開され、世界中でロングランを続ける『コーダ あいのうた』はそんなコーダとして生きるルビーとその家族を描いた映画だ。2014年に公開されたフランス映画『エール!』をシアン・ヘダー監督(監督の前作で、エリオット・ペイジとアリソン・ジャネイの『JUNO』のコンビが出演する『タルーラ ~彼女たちの事情~』もとても好きな映画だ)が新たにリメイクした今作はアカデミー賞で作品賞を含んだ3つの賞を受賞するなどとても高い評価を受けている。
ろう者である両親と兄と暮らし、家業の漁を手伝いながら高校に通うルビー。家族と、声を使ったコミュニケーションで組み上がる世界を繋ぐ通訳としての役割や、漁船には少なくとも一人は聴者が同乗しなくてはならない、というルールに縛られながら、それを当たり前のこととして生きてきた彼女は音楽の道という、自分の未来の新しい可能性を見つけることで「家族と暮らしていくこと」と「自分の夢を叶えること」という両立が難しい選択肢のはざまで苦悩し答えを見つけていく。
ふたつの世界のその揺らめくバランスに足を取られまいとするルビーの姿には、社会のシステムによってヤング・ケアラーとしての責任を半ば強制的に背負わされてしまうという現実も映し出されている。ルビーがある方法を使って歌を父に届ける夜のシーン。そして家族に「声」だけじゃない歌を届けるシーン。そしてなにより、『きらめく拍手の音』でも描かれている手話がもっている「美しさ」に胸を打たれる。ふたつの世界の境界線をさまざまな形で画面に落とし込む演出もとても素晴らしいし、ルビーの歌うジョニ・ミッチェルの「青春の光と影」には思わず息を飲んでしまうほどの力がある。
最後のシーンで使われるある手話には字幕がつかないし、ナレーションやキャプションで説明されたりもしない。映画館を出たあと、ソファの上でこの映画を観終わったあと、誰もが同じことをするだろう。検索窓を開き「コーダ 最後のシーン 手話 意味」と打ち込む。液晶のうえに出てくる答えとその手話のかたちをぼくたちはずっと忘れないだろう。世界中のひとたちのなかにひとつのことばがそうっと残る、そこまでがこの映画なのかもしれない。映画や本はそんな機会を僕たちに与えてくれる。僕たちはそれを通して、自分以外の人生を、自分以外のレンズで見た世界を心のなかに映し出すことができる。知ることはやさしくなることへのはじめの一歩だ。
Homecomingsの『Moving Days』という新しい日々のことを歌ったアルバムに、「Good Word For The Weekend」は収録されている。このアルバムでは、どうしても、サイニングストアのあるあの街のことを書いていきたかった。暮らしとやさしさ、という自分にとってのテーマにも合っているような気がした。簡単ないつくかのことばだけでも、手話を知っているひとがひとりでも増えたらいいな、と思う。もしものときに、困っている誰かにとってとても大きな安心になるかもしれないからだ。
コーヒーを飲みながら買ったばかりの本を開く。そんな時間を終えて、部屋に帰る夕方のバスはきまって帰宅ラッシュの渋滞に巻き込まれて来るときよりももっとゆっくりと進む。がらがらの客席とぎゅうぎゅうに車が並ぶ車道のコントラストがなんだか不思議な時間を生んでいるようにかんじる。西日が差し込むその魔法のような空間で、友達が送ってくれたできたばかりの新しいアルバムを聴いたり、さっきの続きをめくってみたり、今度はこんなふうに話してみよう、と新しいことばを覚えてみたりするのだった。
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