この間友達と、「次住むならどんな家がいいか」という話になった。陽当たりがいいとか、お風呂とトイレは別がいいとか色んな意見が出る中、盛り上がったのは近所に公園がある家がいいというものだ。
僕の今住んでいる家も近所に公園がある。僕は公園が好きだ。お昼ご飯はたまに公園で食べたりするし、夕方はただただベンチに座って夕陽を見たり、夏の夜だったら缶ビールを一本飲んだりもする。
そしてなによりも公園の好きなところは子供の声が聞こえるという事だ。
朝起きて窓を開ければ、公園から子供の声が聞こえる。そして家を出て子供達が走り回る姿を見ながら駅に向かう。
エネルギーをもらえるのだ。
子供に対して、懐かしさを感じ切なくなる時期はもう過ぎた。今は戻れないものと確信し、生活の中で出来る限り、子供の心でいようと思っている。
2021年を迎えて、小津安二郎監督の『お早よう』を観た。東京にある長屋に住む、何組かの大人とその子供たちの話。 学校から帰ってきた子供達は、テレビを見るためにそれぞれのお母さんに嘘をつき、ある家に集まる。そんな中、お母さん達は噂話ばかりしている。
テレビをどうしても自分の家で見たくて、わがままを言う中学一年生の実と弟の勇。親と子供は言い合いをはじめる。
「子供のくせに余計なことを言い過ぎ。少し黙っててみろ」
「余計なこっちゃねぇやい。欲しいから欲しいって言ったんだ」
「それが余計だって言うんだ」
「だったら、大人だって余計なこと言ってるじゃないか。こんにちは。 おはようこんばんは。いいお天気ですね。ああそうですね。あらどちらへ? ちょっとそこまで。ああそうですか。そんなことどこ行くか分かるかい。ああなるほどなるほど。なにがなるほどだい!」
「うるさい! 黙ってろ!」
「ああ黙ってるよ。2日でも3日でも」
そして実と勇は、家族や友達、誰に対しても反応せず言葉を発さないようになった。
確かにわがままな言葉だが、ここまで自分の気持ちを頑固に伝えられることは凄いと思う。
そう思えば、最近僕は欲しい物があまりない。というより「お金が入ったらいつか買おう」となり、結局欲しかった物を忘れていることが多い。高校の時、8万円のギターが欲しくて必死にアルバイトをして買った自分はどこへ行ってしまったのだろう。
この間、近所の公園で2人の男の子を見かけた。自転車で帰りながら、別れ際に1人が「名前なんて言うのー?」と叫び、お互いに名前を教え合い、「明日も12時ねー!」「分かったー!」と言い、去っていったのだ。驚いた。
僕らの場合は、初対面で遊んだとしたら、まず最初に連絡先交換をするだろう。そして連絡を取り合い、次に会う日を決めたり、もうそのまま会わなかったりするわけだ。
今の時代を生きる僕ら大人と子供との一つの違いは、携帯電話を持っているか、いないか。この違いは、かなり大きいのかもしれない。
僕らは出会った人に電話番号をもらった時点で、電話一本掛ければ声が聞けるし、会おうと思えばいつでも会えるようになる。そこには安心感みたいなのもある。だけど、その安心感こそ「いつかでいいか」という感情が生まれてしまうのかもしれない。きっと子供たちは会いたいから明日もその公園に行くのだろう。
『お早よう』の中で、何日間も黙りに黙って口を開かなかった実と勇は家の中にテレビがあることに気付く。その途端「うち、テレビ買ったの?」と話し出す実。
そして2人は、部屋の中で抱き合い、暴れあう。なんて素直なんだろう。頑固にずっと話さないと決めて話してこなかった2人が、テレビが手に入れば、そんな事忘れてしまう。テレビを買ってもらった喜びで口を開いたという恥ずかしさすら感じていないのだ。
欲しかった物が手に入る喜びを忘れてはいけないと思った。いつか欲しい。いつか会おう。そうじゃなくて、今欲しい。今会いたい。そういう感情で生きていきたいなと思った。
この文章を書いている間に、僕は友達から「あなたが今縛られているもの。例えばお金。距離。現状の問題が無かったとしたら、何をしたい?」と聞かれた。
僕はその質問について夜中まで考えていた。
今の僕にも幾つもの見たい景色、欲しい物、会いたい人、が見つかった。心臓の音が聞こえて眠れなかった。非現実的すぎる夢は、いつのまにか「夢」にさえできなくなっていたけれど、よく考えてみたらそんなことにする必要はなかった。