目次
トルコのイスタンブールと
『カメラが捉えたキューバ』
ドネルケバブという料理を初めて食べたのは、パリの街角だった。大学時代の貧乏旅行でビストロを常食にするほどの余裕はなく、かといってパンをかじるんじゃ味気ない。そんなとき、安いケバブの屋台を見つけた。なんとおいしい肉だろう! あれから25年以上の時が経ち、僕はケバブの秘密に迫るためにトルコへ旅立った。
トルコ料理におけるスパイスやハーブについて探りたい。あのケバブがおいしいのはスパイスの効果なんじゃないか。肉をおいしくするスパイスの使い方があるに違いない。まだ見ぬハーブにも関心があった。特に“ケキッキ”と呼ばれる謎めいたハーブの存在が気になっている。肉をおいしくするのに効果を発揮しているんじゃないだろうか。この目で確かめてみたい。
どこかへ何かを探りに行くときは、仮説を立てる。見るものや体験することの輪郭がハッキリするからだ。実際に旅してみて、仮説が覆される事態と出会ったときは素直に受け入れる。あくまでも自分が体験した一つの例に過ぎないと冷静になる。答えを出そうとはしない。そう心掛けてきた。
その点において、帰国後に観た『カメラが捉えたキューバ』は、見事なスタンスで製作されたドキュメンタリー映画で、ため息が漏れた。アメリカ人ジャーナリストであり映画監督のジョン・アルパートが1972年から2016年までの45年ほどに渡ってキューバを記録し続けた。カストロに密着し、同時に市井の3家族の生活を追う。キューバに対するある種の偏愛を偏見なく届けている。目の前に起きたことの伝え方として、お手本をいただけたような気持ちになった。
イスタンブールの夜、空港に降り立った僕は、ホテルでぐっすり眠り、翌日すぐに目当ての店『KASAP OSMAN』を訪れた。店頭で80キロほどの肉がクルクルと回っている。その姿は圧巻。うまいと噂を聞いていたドネルケバブが目の前にある。燃え上がる火と肉の焼けるいい香りに胸が高鳴り、ほお張っておいしく思わず目を閉じた。約60年前に 創業したこの店で、今も自ら肉のマリネをしているというオーナーに尋ねた。
「スパイスは何を使っているんですか?」
返ってきたのは予期せぬ言葉だった。
「バハラット(スパイス)? NO!!!」
右手を顔の前から腰まで斜めに素早く振り下ろす。全身での否定。マリネに使うのは、玉ねぎのすりおろし、牛乳、ヨーグルトとホワイトペッパーのみだという。そうか、ドネルケバブにスパイスは使わないのか。少しガッカリする一方で、堂々とした店主の言動には独特の美学を感じた。
リアルな発言から汲み取れるメッセージ性は、2次的な知識や情報よりはるかに強い。ドキュメンタリー映画の魅力はそこにある。フィデル・カストロという男に対して僕が“冷徹な独裁者”と勝手に抱いていた印象は、見事に打ち砕かれた。動くカストロにも話すカストロにも引き込まれてしまう。
常に防弾チョッキを着ているとの噂に対し、シャツの胸元を開けて優しく笑う。
「私が着てるのはモラルのチョッキだ。強力だぞ。常に私を守ってくれた」
強い信念がうかがえる演説シーンも心に残る。
「なぜ高級車を乗り回す者のために、裸足を強いられる者がいる? これは一片のパンも持てない子供たちの代弁だ」
一方でアルパート監督は、「俺は共産主義者じゃない」という冷めた若者の意見も捉えている。そちらも極めてリアルに感じるが、どちらが正しいのかは、あえて伝えていない。
ケバブにふりかけるスパイスは、プルビベールと呼ばれる唐辛子とドライミントが多かった。気になるあのケキッキについてもレストランではお願いすれば出してくれる。淡い緑色をした若葉の小さなつぼみのようなハーブは、市場でも出会うことができた。それが逆に謎を深めることになる。オレガノと説明しているところもあれば、タイムと説明しているところもあるからだ。いったいどっちなの?
トルコで活動するスパイス研究家、アイリーンさんと話すチャンスに恵まれ、見解を聞いてみることにした。
「ケキッキは、タイムですか? それとも、オレガノ?」
1秒、2秒の沈黙の末、彼女は諦めたように、でも強めに言葉を発した。
「BOTH(両方)!」
彼女も僕も吹き出してしまった。
「じゃ、ハーブの総称みたいな感じ?」
今度は即座にハッキリと否定。
「NO!! ケキッキはね、基本的にはタイムなんだけれど、ときどきオレガノにもなるの」
煙に巻かれた、とはこのことを言うのかもしれない。後日、ハーブについて調べていると、カリブ海全域で使われるという“キューバンオレガノ”なるものを見つけた。専門書によれば、このハーブには別名がたくさんあって、“クッキング・オレガノ”、“偽オレガノ”、“フレンチトバゴ・タイム”、“スパニッシュ・タイム”などと呼ばれることもあるそうだ。オレガノとタイムとの間で揺れるハーブは、なんとキューバにもあったのである。
革命に揺れ動くキューバで、マイペースに農業を営む年老いた兄弟がいる。牛を使って畑を耕し、酒を楽しみ、勤勉に、そして、のどかに暮らしている。世の中がどうであれ、今を生き、自分を生きている老兄弟の姿に自分の将来像を重ね、憧憬の念を抱いた。不思議なことに立場の全く違うカストロでさえ同じ境地に立っているように思えた。いつか自分の寿命について聞かれたとき、彼はこう答えている。
「寿命を迎える前に死ぬ者はいない。いずれは私も死ぬ。いつかは知らないがね」
アメリカから経済制裁を受け、手を差し伸べたソ連が崩壊し、情勢は刻一刻と変わっていった。国が混乱し始め、食料は配給になり、バーから酒が消える。国の貧困が治安の悪化を招く。魔の手は兄弟にも伸びた。どこかのならず者が牛を盗み、農作業を奪い去ったのだ。アルパート監督が目にしたのは、畑に椅子を並べ、途方に暮れて座り込む兄弟の姿だった。その一人、グレゴリオとのやり取りが切ない。
「なあグレゴリオ。キューバに何が起きているんだ? 俺たちに何ができる? どうしようもない?」
「悲しくてたまらん」
沈黙が漂い、僕は胸を締め付けられた。
ケキッキは、オレガノでもタイムでもない。ケキッキは、ケキッキである。自分の経験値の中にある香りになぞらえるのなら、僕にとってはオレガノに近い香りに感じる。タイムの香りは、たとえば僕がかつてジャマイカで出会ったタイムのようにもっと刺激的で強い印象があるからだ。まあ、いずれにせよ、ケキッキが肉料理をおいしく彩ってくれることに変わりはない。
共産主義がいいのか、資本主義がいいのか。ケキッキはオレガノなのか、タイムなのか。どちらの二択も立場が変われば捉え方も変わるだろう。正解を求めることに大きな意味があるとは思えない。わからないものをわからないまま受け止めて、前を向いて生きることが大事な場合もある。映画の最後にそっと置かれたグレゴリオの言葉から、僕は勝手にメッセージを受け取ったつもりになった。
「人生は偶然に左右される。墓に入れば事情は違う。そこに眠るのはすばらしい男女。死んだら貧富はもう関係ない。問題はどう生きたかだ」
旅だって偶然に左右される。問題にしたいのは僕自身が何を見たか、どう感じたかだ。僕は僕の立場で旅をし、誰かに意見することもなく、独自の記録を続けていきたいと改めて思った。
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- ケキッキは、ケキッキだ。それで、いいのだ。/『カメラが捉えたキューバ』
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