目次
フランスのエスペレットと
『旅する写真家』
去年の秋にフランス・バスク地方を訪れた。
目的は、唐辛子の取材。ピモンデスペレットと呼ばれる唐辛子を栽培しているエスペレット村まで、パリからTGVという電車に5時間ほど揺られて向かった。旅をするときにはカメラを携える。昔からずっとそうしてきたが、このところ意識が違うのは、自分が写真家になったからだ。唐辛子はもちろん、他に素敵な場面に遭遇すれば、いつでもシャッターを切るつもりでいる。
そんな気持ちで旅先をうろつくようになると、目に入る景色も変わってくるから不思議。周りをよく見ようとキョロキョロする自分がいることに気づく。取材を終え、ランチの予約をしたレストランまで歩いていくと、空き地に3頭の馬がいる。「おっ」と近づいていき、20分ほどの間、熱心に写真を撮った。秋風にたてがみをゆらし、ゆったりと歩き回る馬たちをなんとか素敵に切り取りたい。ところが間もなくアイデアは尽き、自分の実力を目の当たりにし、「ま、こんなものか」とあきらめて歩き出す。
旅先ではいつもそれを繰り返しているように思う。
映画『旅する写真家 レイモン・ドゥパルドンの愛したフランス』のことを知ったとき、邦題の「旅する写真家」の部分に吸い寄せられた。自分と同じじゃないか、と嬉しくなり、観る前から気持ちが盛り上がる。そして、あろうことか僕は、この高名な写真家と自分をどこまで重ね合わせられるのか、映画を観ながら試してみようと決めたのだ。
報道写真家(ジャーナリスト)でもあり、映画監督でもあるドゥパルドンは、1960年代から世界各地を旅して撮影を続けた。それらの断片をひとつにつないだドキュメンタリーである。
冒頭のシーンで彼は、何気ないフランスの街角にカメラを構える。構えると言っても昔の大判カメラを三脚につけ、布をかぶってピントを合わせている。デジカメを肩にひっかけているのとはわけが違う。シャッタースピードは1秒間。車や人が行きかうのをじっと待ち、動くモノが視界から消えた瞬間にシャッターを押した。
僕は「芸術写真家」でも「報道写真家」でもなく「記録写真家」と自称している。この素晴らしき世界を自分なりの視点で記録することがカメラを持つ目的だからだ。自分にとって記録とはなんだろう? と自問する。昔なら唐辛子がどんな姿で植えられ、どんな場所でどんなふうに乾燥され、何の機械で加工処理されているかが写っていれば十分だった。ところが今は少し違う。できるだけ唐辛子を“素晴らしき姿”で記録したいと考える。
唐辛子の取材のために訪れた村で馬を撮るときもそうだ。この村を“自分なりの視点”で記録したいと考えた先に馬へと近づく自分がいる。唐辛子と馬の写真を手にすることになんの意味があるのか、その瞬間には考えてはいないのだ。ドゥパルドンは「常に目を光らせて題材を探す」と言っていたが、似たような感覚を僕も持ち合わせているのかもしれない。
映画では、予想外のシーンが連続した。ジャーナリストとして記録した映像の数々だ。南米ベネズエラ内戦(1963年)や中央アフリカ独立記念祭(1966年)、ヨルダン川国境地帯の銃撃戦(1967年)、ソ連軍占領下のチェコ(1969年)。緊張感あふれる場面がときにはモノクロ映像でいくつも差し込まれている。
精神病棟での取材や裁判所での取材、警察官の密着などもあれば、フランス大統領選を戦う政治家の本音もあって、少々気が滅入る。独自の手法で記録を続けるドゥパルドンは、取材対象への興味が尽きない。カンヌ映画祭の華やかな時間や各種著名人の姿も織り交ぜられ、妻のナレーションと共に淡々と展開されていく。
シーンによっては、思わず早送りしたくなるような気持にもなってしまった。それは僕が彼の興味についていけないことを証明している。
きっと「ありのままを写す(映す)」ことがジャーナリストの使命なのだろう。その存在のおかげで資料的価値の高い貴重な記録が残る。それでも僕が報道映像、報道写真から目を背けてしまうのは、世の中の素敵な部分だけを吸収して生きていたいと思っているからだ。ほら、かつてモンティ・パイソンが歌ったようにね。「Always Look on The Bright Side of Life」。まあ、人として未熟だからにほかならないのだけれど。
映像は、ふいに明るくなり、三脚を持って海岸に向かうドゥパルドンに切り替わる。ふっと気持ちが軽くなる。これから撮ろうとする景色に向かって彼はつぶやくのだ。
「いいですか? 動かないで」
「カモメはブレるぞ」
思わずにやけてしまう。吹く風も、海面のさざ波も、空に舞うカモメも、じっとしてくれるものなど一つもないのに。ユーモアたっぷりのおじいちゃんだ。
現像室をしつらえたバンに乗り、「“フランスを撮る”とは、車を走らせること」とハンドルを握る。運転席に座る彼の目はチラチラと細かく動き、せわしない。
「よく電話がかかってくる。“どこにいる?”と。私にも分からない。ここは宇宙なんだ。この車がカプセル。どこかの軌道上さ」
マイペースなところだけは自分もそっくりなのかもしれない。僕は「電話はしない」、「電話には出ない」、「留守番電話も聞かない」と公言している。目の前でベルが鳴っても音がやむまでそっとすることにしている。社会人失格だが、穏やかに時間が流れて心地よい。だからと言ってドゥパルドンのような素晴らしい写真が残せるわけではないけれどね。彼と僕との間には距離がありすぎる。
とある景色を前に口にした言葉が印象的だった。
「太陽がまだ高いな」
黙り、じっと遠くを見つめる。しばらくしてまたゆっくりと口を開く。
「だが待ちすぎると実物以上の写真になる。美しい光は危険なんだ」
ジャーナリストとしての側面も持つ彼ならではの撮影哲学だろうか。実物以上の美しさは本質を鈍らせるということなんじゃないかと解釈した。
ちょっとわかるかもしれないと思ったのは、記録写真家としての自分ではなく、“カレーの人”としての自分だった。僕がカレーを作るときのモットーは「おいしくなりすぎないように気をつける」というものだ。誤解を生みやすいので、時と場合によって口に出すことにしている。鍋中と向き合い、先の展開を読む。このままいくとおいしくなりすぎる、と判断した場合、途中で手を止めたり、次の投入アイテムを割愛したりすることがよくあるのだ。もし、ドゥパルドンが「美しい写真は本当に美しいのだろうか?」と自問しているのだとすれば、「おいしいカレーは本当においしいのだろうか?」と自問する僕と無理やり重ね合わせることはできそうだ。
映画を観終えて、ドゥパルドンという男のことがわからなくなった。のどかで素敵なフランスの景色と凄惨な歩道の現場映像。どちらにもカメラを向け、それらをコラージュして映画にする彼の頭の中はどうなっているんだろうか? 切り取った写真も映像も本質は同じだということなんだろうか?
彼が最も愛するというチャドの砂漠での映像はその残像が今も頭の中にこびりついている。なんてこった! 映画を観ながら思わず心の中で叫びたくなったが、息をのむような美しさに声にはならなかった。あれは、彼の言う「実物より美しい砂漠の姿」に他ならないのではないか。だとしたら、彼がとらえている実物とはいったいなんなんだろうか?
疑問の山に頭を抱え、とにかく僕にできることは、映画を観始める前に立てた無謀な計画を恥じることだけだった。彼と僕を重ね合わせてみようだなんて……。フランスバスクの写真を見直して、反省することにしよう。
- 夢かうつつか、カレーと向き合う日々/『WALK UP』
- なぜ絵を描くのか?なぜなのか?/『世界で一番ゴッホを描いた男』
- そこに到達するまでの旅が心に残る。/『アルピニスト』
- 若い頃にしたことやしなかったことの夢だ。/『ダゲール街の人々』
- 美しい光は危険なんだ。おいしいカレーもね。/『旅する写真家 レイモン・ドゥパルドンの愛したフランス』
- ケキッキは、ケキッキだ。それで、いいのだ。/『カメラが捉えたキューバ』
- 臆病なライダーが、カレーの脇道をひた走る。/『イージー・ライダー』
- 気を抜くんじゃないよ、あの男が見張っている。/『世界一美しい本を作る男〜シュタイデルとの旅〜』
- 失ったものもいつかは取り戻せる、 といいなぁ。 /『パリ、テキサス』
- 1つさ。 それに頼れば、ほかはどうでもいい /『シティ・スリッカーズ』
- 嘘でも言ってくれ 「見せかけなんかじゃない」 /『ペーパー・ムーン』
- 誰かにもらった正解よりも、自ら手にした不正解 /『80日間世界一周』
- 笑いの裏に苦悩が隠れ、 怒りの裏に孤独が潜む。/『スケアクロウ』
- 指した手が最善手。別の人生は歩めないのだから /『男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け』
- 希望はいつも足元にあり 仲間はすぐそばにいる /『オズの魔法使』
- 「何のため?」…なんて悩んでいるうちは、ひよっこだ。 /『さらば冬のかもめ』
- 独創性は生むより生まれるもの、なのかもなぁ。/『SUPER8』
- どうして探しモノは見つからないのだろう?/『オー・ブラザー!』
- 答えは見つからず、理由は説明できないのだ。/『ブロークン・フラワーズ』
- 寸胴鍋をグルグルとかき混ぜる、身勝手な男。/『ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅』
- チラ見せに魅せられて、魔都・上海。/『ラスト、コーション』
- スリルは続くよ、スリランカ。/『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』
- 普通だよね、好きだよ、ポルトガル。/『リスボン物語』