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水野仁輔の旅と映画をめぐる話 vol.23

夢かうつつか、カレーと向き合う日々/『WALK UP』

水野仁輔の旅と映画をめぐる話
カレーの全容を解明するため世界を旅している水野仁輔さんが、これまでの旅の経験を重ね合わせながら、映画の風景を巡ります。
あなたは今、どこへ出かけ、どんな風を感じたいですか?
※本稿にはセリフや展開にまつわる話も出てきますので、ネタバレを気にされる方はくれぐれもご注意くださいませ。
カレー研究家
水野仁輔
Jinsuke Mizuno
AIR SPICE代表。1999年以来、カレー専門の出張料理人として全国各地で活動。「カレーの教科書」(NHK出版)、「わたしだけのおいしいカレーを作るために」(PIE INTERNATIONAL)など、カレーに関する著書は60冊以上。カレーを求めて世界各国への旅を続けている。現在は、本格カレーのレシピつきスパイスセットを定期頒布するサービス「AIR SPICE」を運営中

タイと『WALK UP』

自分がふたりいたらいいのに、と思うことがある。別に忙しいというわけではない。世の中には分刻みのスケジュールで睡眠時間も削って働いている人がいるだろう。それに比べたら僕はどちらかといえば無職のようなもので、国内外を旅する以外はさしたる予定もなく、穏やかに過ごしている。
それなりの数の執筆すべき原稿を抱えてはいるものの、締め切りに追われるほどではない。映画『WALK UP』の主人公で映画監督を仕事とするビョンスが「2年くらい休もうと思っていて」と語るのを見て、ああ、自分みたいだな、と思ったくらいだ。ではなぜ「ふたりいたら」などと思うのか。それは同時並行で向き合いたいカレーがあるからだ。

ポロポロとギターをつまびくようなゆっくりとした曲調で始まる『WALK UP』。冒頭から仕事に迷走するビョンスの心情を匂わせ、観る者にけだるさと不安を募らせ、不可思議なストーリーがモノクロで淡々と紡がれる。一筋縄ではいかない映画だ。
ビョンスが娘と共にインテリアデザイナーとして活躍する旧友の所有するアパートを訪れる。アパートは4階建てと地下1階。1階がレストラン、2階が料理教室、3階が賃貸住宅、4階が芸術家向けのアトリエ、そして地下が家主である旧友の作業場である。
アパートの階をひとつずつ上がるごとに物語は新たな展開を迎える。ビョンスと彼を取り巻く4人の女性の人間模様が展開されるが、時系列や人間関係につじつまが合わず、けむに巻かれたような気持ちになる。

観ているうちに僕は勝手な解釈をし始めていた。そうか、ビョンスが4人いるということなのか、と。自分がふたりいたら、どころか、4人もいるなんて! 各階の各部屋で彼はそれぞれの女性とうつつを抜かしている。もしも自分が4人もいたら、僕は同時並行で4種類のカレーと向き合えることとなる。まさに望んでいた状況じゃないか。
映画を観ながら「ビョンスにとってあの女性は、自分にとってこのカレーだな」と考え始めた。おかしな視点だが、一見不条理なこの映画には合っている。

ビョンスが久しぶりに再会した旧友は、僕にとって「スパイスカレー」である。連れて行った娘は「ルウカレー」。御多分に漏れず、僕が人生で初めて作ったカレーは市販のルウを使ったカレーだった。まもなく飽き、作らなくなった。ビョンスは別居して長年会っていなかった娘を旧友に紹介した。
しばらく3人で語り合うが、急用ができたビョンスはふたりを残し、出かける。残された娘と旧友が互いの素性を語る。ルウカレーとスパイスカレーか。きっと気が合わないだろうなぁ、なんて思いながら見守った。

場面は転換し、急用を終えて戻った(ように見えた)ビョンスを旧友がアパートの入り口で出迎える。「久しぶり。白髪が増えたんじゃない?」とひと言。ん? 時間が先に進んだのか。アパートに入ったふたりは、2階で飲むことに。シェフが挨拶をし、会話に加わった。ビョンスのファンだと喜ぶシェフと旧友は、彼の作る映画についての見解を語り合うが、意見はすれ違う。
シェフは、僕にとって「ハーブカレー」だ。スパイスカレーにひとしきり向き合った後、おおいに流行したスパイスカレーの世界で、僕が対抗馬として生み出したのがハーブカレーである。両者はつながりがあるような、ないような微妙な関係だ。旧友が「地下にウィスキーを取りに行ってくる」と席を立ち、ビョンスはシェフとふたりきりになった。すると、シェフは心の内を語り始め、ふいに泣き出した。

またもや場面転換。アパートの外にビョンスの車がやってきて停まった。ところが車から降りてきたのは、ビョンスではなくシェフだった。混乱する。アパートの3階の部屋にビョンスがいる。そこへ買い物を終えたシェフが入ってきた。ふたりは同棲しているようだ。涙の後に何があったのか。いったい何がふたりをそこまで親密にさせたのだろう。
ハーブカレーを作り始めた僕は、タイへ飛んだ。ハーブが活躍するカレーといえば、タイ料理の印象が強い。現地での体験を通じてハーブカレーへの理解を深めたいと思ったからだ。バンコクからタイ南部を旅して一時帰国し、1年後に再びタイへ飛ぶ。今度はバンコクからタイ東北部を旅した。

二度のタイを通じて僕が心を奪われたのは石臼の存在だった。生の唐辛子やしょうが、レモングラスを石で叩きつぶして生まれるフレッシュな香りは、それまで僕が体験し、僕が生み出してきたどのカレーとも違うものだった。こんなものが存在しただなんて。いままでどこで姿をくらませていたの?
外出したままなかなか帰らないシェフを想い、スマホでメッセージを送る。「愛してる」。めめしいビョンスがシェフに執着する様は、自分が石臼にぞっこんになる様を見ているようだ。「愛してる」とはまではいかないが、いまや僕のカレーライフになくてはならない存在となってしまった。
ハーブカレーと僕との関係は、ビョンスとシェフとの関係のように少しずつ変化している。ハーブというよりも石臼の方に興味が沸き、ハーブカレーを進化させた「クラッシュカレー」なるものを生み出したのだ。いまは、石臼を使ってあれもこれもクラッシュしては、新しいカレーを作っている。

シェフと暮らす部屋のベッドで寝ていたはずのビョンスは、いつの間にかアパートの最上階、4階の部屋で眠っている。そこへ、不動産会社を営む新しい女性が帰ってきた。広いテラスで食事をする。2階でワインを傾けていたはずの彼は焼酎を呑み、「ワインは僕には合わない」と言う。3階で肉を断っていたはずの彼はおいしそうにサーロインステーキを焼いている。
ビョンスが同じビョンスのようで同じ人間ではない要素が散りばめられている。食事をしながら彼女にせがまれ、神のお告げを聞いた話をし始める。テラスでうたた寝をしていると、背後の空中に神様がいた。「済州島へ行って映画を12本撮れ」。嘘みたいな話を真剣にするビョンス。「かわいい」と抱きしめる彼女。僕は思わず苦笑い。

最後に登場したテラスの女性のことを僕は、「ウマミカレー」だと仮定する。それは僕の構想の中にあり、まだ形にしていない新しいカレーである。カレーを作るときの構成要素を5つに分解する。具とカレー粉、スープ、とろみづけ、そして、ウマミの素。これらを再構築することで、短時間に次々と新しいカレーを生み出せるのだ。
早くウマミカレーに着手したい。でも、僕はビョンスとは違うから分身の術は使えない。他のカレーで忙しく、次のカレーと向き合う余裕がないのだ。神のお告げが聴こえる。「済州島へ行ってカレーを12種類作れ」。僕も韓国を旅したらまた新しい出会いがあるのだろうか。

映画は最終章へ。アパートにまたビョンスの車が到着した。今度はビョンス本人が降りてくる。煙草をふかし、ひと息ついていると娘が歩いてきた。旧友の家主と飲んでいたワインがなくなり、買いに行ってきたのである。いつの間にか冒頭のシーンへ巻き戻っている。パラレルワールド? いや、いくつかの物語はすべてビョンスの空想だったのか。それとも観ている僕の妄想だったのか。
自分が何人もいるはずはない。人生が二度も三度もあるわけではない。カレーにうつつを抜かしたかったら、ひとつずつコツコツと積み重ねていくしかないのだろう。ああ、ビョンスが羨ましい。

BACK NUMBER
FEATURED FILM
監督・脚本・製作・撮影・編集・音楽:ホン・サンス 
出演:クォン・ヘヒョ、イ・ヘヨン、ソン・ソンミ、チョ・ユニ、パク・ミソ、シン・ソクホ
原題:탑
字幕:根本理恵
配給:ミモザフィルムズ
© 2022 JEONWONSA FILM CO. ALL RIGHTS RESERVED.
映画監督のビョンスは、インテリア関係の仕事を志望する娘のジョンスと一緒に、インテリアデザイナーとして活躍する旧友ヘオクの所有するアパートを訪れる。そのアパートは1階がレストラン、2階が料理教室、3階が賃貸住宅、4階が芸術家向けのアトリエ、地下がヘオクの作業場になっている。3人は和やかに語り合い、ワインを酌み交わすが、仕事の連絡が入りビョンスはその場を離れる。ビョンスが戻ってくると、そこには娘のジョンスの姿はなく…。
PROFILE
カレー研究家
水野仁輔
Jinsuke Mizuno
AIR SPICE代表。1999年以来、カレー専門の出張料理人として全国各地で活動。「カレーの教科書」(NHK出版)、「わたしだけのおいしいカレーを作るために」(PIE INTERNATIONAL)など、カレーに関する著書は60冊以上。カレーを求めて世界各国への旅を続けている。現在は、本格カレーのレシピつきスパイスセットを定期頒布するサービス「AIR SPICE」を運営中
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