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ザンジバルと『裏窓』
かつて、とあるバーが近所にあった。女性のバーテンダーさんがいて、僕はそこに二度ほど訪れた。あやふやな記憶である。なんとなく頭の片隅にそのバーの存在が残っているのは、「ザンジバル」という島の名前と結びついているからだ。バーテンダーさんがザンジバル島に住んでいた? ザンジバル産のお酒がメインだった? それとも、バーの名前が『ザンジバル』だった?
ともかく当時の自分にかの島は遠い存在で、「アフリカのどこかにあるらしい」という程度。魅惑的な響きを持っていて、秘密めいた何かを覗きに行くような感覚でバー訪れたことを覚えている。あれから随分と時が経ち、ついに本物のザンジバル島を “覗き”に行ったのである。
ヒッチコックの名画(どれもこれも名画だけれど)のひとつに『裏窓』がある。マンションの裏窓から他の部屋を覗いて過ごす男・ジェフが主人公だ。世界を駆け巡るカメラマンのジェフは足を怪我し、自宅で長いこと療養している。恋人のリザは結婚して安定した日々を送りたいと願うが、ジェフは受け入れられない。ときおり家事手伝いにやってくるステラに不満を漏らすが、独断的なジェフが小言をもらう。
ジェフ サンドイッチをくれ
ステラ いいわ、常識をはさんどいてあげる
ジェフは向かいのマンションの2階に住む夫婦の行動に異変を感じ取る。病弱の妻が消え、恰幅のいい夫が深夜に何度も自宅を出入りする姿を見て、夫が妻を殺したんじゃないか、と疑念を持つのだ。
ジェフは警察官の友人・ドイルを呼びつけた。殺人は起きたのか、起きていないのか。部屋の中で4人が繰り広げるやりとりと裏窓からの景色がストーリーのすべてである。
自分が目の当たりにしたことは信じるのが普通だろう。それが非日常的なことであったとしても、いや、特異なシチュエーションであればあるほど「自分だけが掴んだ真実だ」と思い込んでしまうのかも。旅はとくにそういうシチュエーションが多いと思う。
ザンジバルへの旅にはふたつの目的があった。ひとつは、スパイスの産地を訪ねること。もうひとつは、カレーやインド料理がどのように存在するのかを体験すること。国で言えば東アフリカのタンザニアに属するザンジバル島は、本土と少し様子が違い、島民のほとんどがイスラム教徒である。インドからインド洋を西へ進むとたどり着く場所だから、インド人の移民もそれなりにいて、食文化が融合しているのが興味深い。
遠く日本からカレーを探しにザンジバル島へ行くなんていうモノ好きは滅多にいないから、僕も「常識のサンドイッチ」を食べておかないといけない身なのかもしれない。滞在中は存分に目を凝らして過ごすつもりでいた。
百聞は一見に如かず、と言われる通り、「見た人」と「聞いた人」とでは感じる信ぴょう性が違う。向かいの夫を疑い、平静でいられないジェフの発言に恋人のリザは懐疑的。そんなこと起こるはずがない、と極めて常識的に否定する。自分の考えを信じて疑わないジェフと口論になる。
ジェフ ここからわかるかね?
リザ 私のアパートと同じでしょ?
ザンジバル島のストーンタウンに1週間ほど滞在し、毎日のように街中をうろつき、カレーを探し、見つけては食べる。味わい、店員に話を聞き、また味わっているうちに自分の中でその土地のカレー像が浮かび上がってくる。それは自分だけが手にした宝物のような情報である。
だから当然、僕はジェフに肩入れしたくなる。殺人が確かに起こったのだ、と。一方で確信が持てない面もあった。裏窓から覗ける世界は限られているからだ。
リザ 一部始終が全部見られたの?
ジェフ 確かに
ところがひょんなことからリザもステラもジェフの話に引き込まれてしまう。
リザ 最初から全て話して、ジェフ。見てきたことの全てを
これが見た者の持つ説得力なのだろうか。確かに旅先での話を嬉々として話せば話すほど、周りが引き込まれて「うんうん」と素直に聞いてくれることがある。僕はもしかしたら間違ったことを言っているかもしれないのに。
一方で、警察官のドイルだけはいつまでも冷静だ。
ドイル 確かにミステリアスだが、殺人の可能性は低い
ストーンタウンで何度カレーを食べただろう。名物と言われるタコカレーはミートソースのようにトマト感が強く食べやすい味わい。ココナッツミルクでまろやかになったカレーもあった。インド料理のアレンジ版も多いが、インドで食べるほどスパイシーではなく、優しい仕上がりになっている。スワヒリ料理を謳う店のメニューを見てもインド料理の名が連なる。ところがビシッとインパクト強く脳裏に印象を残すようなインド料理には出会わなかった。
イギリス統治時代、確かにこの地にインド人はやってきた。が、観光地化する過程で、よそ行きの味わいにアレンジされたのだろうか。牙を抜かれ、飼いならされたペットのようになついてしまったのかもしれない。
この手の思考を巡らせていると、映画の中のドイルに突っ込まれそうだ。たった1週間の滞在で何がわかるというんだ、一部始終が全部見られたわけでもないのに、と。
ドイル 最近頭痛はなかったか?
ジェフ 君を見るまではな
ドイル 消えるよ、妄想とともに
白けるドイルとは対照的に殺人を確信する3人は大胆な行動に出る。向かいの男に脅迫めいた電話をかけ、反応を観察しつつ彼の部屋に忍び込むのだ。
仮説を実証するべく動いたとも取れるし、偽りの証拠をでっちあげているようにも取れる。自分が手にしたスクープだから、モノにしたいと思うのだろう。なんだか旅する自分を見ているよう。旅先で悶々と頭を巡らせる行為は、ほとんど妄想とも取れるからだ。
スパイス農園を見学した際、近隣の村を訪れ、家庭にお邪魔して食事をいただいた。全体的にどの料理も適度な塩気でスパイス感は控えめで口当たりがいい。優しい味わいでおいしかったが、リッチで濃厚な味わいを好むイスラム教徒が作る料理のイメージとは遠い。 歴史的に様々な国の外来文化から影響を受けているザンジバルでは、食文化は穏やかに収縮する方へ向かったのかもしれない。衝突を繰り返して転がる岩石の角が取れて滑らかになっていくように。
ジェフ 事件を解決したいのか、私をバカにしたいのか
ドイル 両方したいな
興奮するジェフと冷静なドイルが平行線をたどったまま物語はクライマックスへ。逆上した容疑者がジェフの部屋へ殴り込む。警官が駆けつけると同時にジェフは裏窓から投げ落とされた。
逮捕される容疑者と一命をとりとめたジェフを描写して映画は幕を閉じる。
エンドロールを眺めながら疑問が残った。殺人はなかったんじゃないだろうか。容疑者の妻は単に旅に出かけ、容疑者が追って合流するはずだった。それを誤解して傍若無人な言動に出たジェフに逆上したまでだったのかもしれない。その後が描かれていないから真相はわからない。もしこの映画に第2幕があって妻が何事もなく帰宅したとしたら、ジェフはとんだ非常識人間だということになる。
目にしたことが事実だとしても、そこから推測できることが真実だとは限らない。旅する常に自分が直面する問題でもある。所詮、短い旅で目にした光景なんて、裏窓から覗くのと大差ないのだから。
今後、旅先での物語を誰かに話すときには、ジェフの顔がちらつきそうだ。それでも旅は続く。虚構と現実との間をユラユラと浮遊しながら。
- 裏窓から覗くがごとき、旅先での景色/『裏窓』
- 夢かうつつか、カレーと向き合う日々/『WALK UP』
- なぜ絵を描くのか?なぜなのか?/『世界で一番ゴッホを描いた男』
- そこに到達するまでの旅が心に残る。/『アルピニスト』
- 若い頃にしたことやしなかったことの夢だ。/『ダゲール街の人々』
- 美しい光は危険なんだ。おいしいカレーもね。/『旅する写真家 レイモン・ドゥパルドンの愛したフランス』
- ケキッキは、ケキッキだ。それで、いいのだ。/『カメラが捉えたキューバ』
- 臆病なライダーが、カレーの脇道をひた走る。/『イージー・ライダー』
- 気を抜くんじゃないよ、あの男が見張っている。/『世界一美しい本を作る男〜シュタイデルとの旅〜』
- 失ったものもいつかは取り戻せる、 といいなぁ。 /『パリ、テキサス』
- 1つさ。 それに頼れば、ほかはどうでもいい /『シティ・スリッカーズ』
- 嘘でも言ってくれ 「見せかけなんかじゃない」 /『ペーパー・ムーン』
- 誰かにもらった正解よりも、自ら手にした不正解 /『80日間世界一周』
- 笑いの裏に苦悩が隠れ、 怒りの裏に孤独が潜む。/『スケアクロウ』
- 指した手が最善手。別の人生は歩めないのだから /『男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け』
- 希望はいつも足元にあり 仲間はすぐそばにいる /『オズの魔法使』
- 「何のため?」…なんて悩んでいるうちは、ひよっこだ。 /『さらば冬のかもめ』
- 独創性は生むより生まれるもの、なのかもなぁ。/『SUPER8』
- どうして探しモノは見つからないのだろう?/『オー・ブラザー!』
- 答えは見つからず、理由は説明できないのだ。/『ブロークン・フラワーズ』
- 寸胴鍋をグルグルとかき混ぜる、身勝手な男。/『ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅』
- チラ見せに魅せられて、魔都・上海。/『ラスト、コーション』
- スリルは続くよ、スリランカ。/『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』
- 普通だよね、好きだよ、ポルトガル。/『リスボン物語』