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どんな状況に陥っても、
励まし、前を向かせてくれる存在
原稿を書きながら、LGBT法案をめぐるfair代表・松岡宗嗣さんの国会中継をみる。「LGBT理解増進法案」と名前がつけられているけれど内容は矛盾もあり、国会正門前では法案への抗議集会が行われていた。
私のTwitterのタイムラインで盛り上がっている声と社会の意見が重ならないと感じることが幾度もあり、そのたびに「私の考えはおかしいのだろうか?」と頭を抱えた。ある日、執筆している本の関係で、高校生たちに同性婚について賛否を聞く機会があった。国会ではなかなか同性婚が法制化されない中で、そこにいる大半の学生は「賛成」だと意見をくれた。たまたま、そうした関心が高い学生たちだったのかもしれないけれど、若い世代にも仲間はたくさんいるんだと思えて、すごく嬉しかった。
本屋に行ったら以前は雑誌か漫画コーナーを周回するだけだったけれど、毎週立ち寄る本屋では真っ直ぐ「社会」という棚に向かうようになった。ジェンダーやフェミニズム、貧困、人種差別など社会に根ざした問題を扱った本の背表紙を見ながら、考えるべき社会問題がまだまだ山積みであることを思い知る。
こんなにたくさんの本が、声をあげている。一冊一冊手にとって、その声に懸命に耳を澄ませながら、いまの私は声をあげるまで向かうことができていない、と後ろめたい気持ちになることもある。自らのトラウマを見つめるには相当な時間が必要だ。まだ、言葉を持っていないというほうが感覚的に近いのかもしれないけれど。他人にとっては「取るに足りない」とされてきた、私の些細で大切な日常をひとつひとつ手にとって、受け止めて、「大事だよ」「怒っていいんだよ」と別の箱に移し替えながら、社会との接点を考えるようになってきたところなんだと思う。そうやって視界を広げてみると、社会の理不尽な構造に目を向けられるようになってきた。少しずつ私なりの言葉を獲得しながら、一歩を踏み出していたときにこの映画を観たことは、すごく大切な出逢いだったと感じる。
映画『SHE SAID/シー・セッド その名を暴け』(以下、『SHE SAID』)には、沈黙“させられてきた”人々の葛藤が、温度を持って描かれていた。その人のショックや恐怖心が都合よく物語に消費されることなく、「あった」事実として取りこぼすことなく描かれていたので、声を奪われた苦しみが切実に伝わってきた。私にもわかる。生きかたを見つけようとしていたときに声を奪われる苦しみを、私も知っている。
『SHE SAID』は性的嫌がらせや性的暴行などの性犯罪を告発する#MeToo運動のきっかけとなった、映画プロデューサー“ハーヴェイ・ワインスタイン事件”のスクープ記事を書いた、女性記者ふたりの実話。ニューヨーク・タイムズ紙記者のミーガン・トゥーイーとジョディ・カンターと証言者たちが、調査の過程から告発記事を世の中に発表するまでの奮闘ぶりを書いた著書『その名を暴け #MeTooに火をつけたジャーナリストたちの闘い』を基にしたものだ。
その名を暴け #MeTooに火をつけたジャーナリストたちの闘い (新潮文庫)
#MeToo運動のはじまりは2017年、もう5年も前のことになるという。『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』、『恋におちたシェイクスピア』、『英国王のスピーチ』など数々の名作を手がけた映画プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインの数十年にわたる女性俳優や女性スタッフへの性的暴行は、大きな話題をよんだ。そして、その記事をきっかけに、日本をふくむ世界中の数百万人もの被害者が自身の性被害を語り始め、それに加担していた多くの権力者たちが失堕した。ニュースや新聞記事で#MeTooムーブメントの動きは知っていたが、一連の流れと裏側を描いてくれたことで、長年の「ハリウッドの沈黙の慣習」(TBSラジオ「アフター6ジャンクション」ライムスター宇多丸さんより)に抵抗して闘う人々の声をあげることの困難と恐怖、切実な思いと勇気など、報道されない想いの部分を受け取ることができた。
性的嫌がらせは違法行為なのに、ある業界ではあたり前に行われていて、抗議の声をあげても解雇されたり侮辱されたりして、被害者は隠れることしかできなかったと、語られる。被害者の取るべき最善策は「沈黙を条件に賠償金をもらう」こと。それしか選ぶ道がなかったと、悔しさで何年もトラウマを引きずる彼女たちの姿に重なるものがある。
私が心苦しかったのは、権力者が自らの立場を利用して、希望ある人々を絶望に突き落としたということ。ワインスタインは「話し合い」だと駆け出しの彼女たちを自らのテリトリーに呼び出し、彼女たちは野心や夢を持って彼に応じたはず。しかし、彼は自分の性的欲求に従うか、そうでなければその後のキャリアを絶つか、いずれかの選択に迫り希望ある人々を真っ黒にさせた。
「なんでこんなことに……」と思うけれど、被害の数はそう少なくないことを直近の作品群から思う。キティ・グリーン監督の映画『アシスタント』でも、夢を持って映画業界の大物プロデューサーのアシスタントに就いた女性が、聡明な仕事ぶりとは裏腹に「沈黙」させられている苦しい状況が描かれていたし、実際の事件を基に描かれた映画『ウーマン・トーキング 私たちの選択』も、キリスト教一派の村で男たちが「悪魔の仕業」として取り合わなかった、女たちがレイプされ続けてきた状況が犯罪だと被害者たちが自覚し、自らの尊厳を取り戻そうと奮闘する。
本作の予告映像で、証言者のひとりであるアシュレイ・ジャッドが「この報道は私たち一人ずつの意識を変えさせてくれた。女性たちに声を与え立ち上がらせてくれたの」とふたりの功績を称えていた。彼女たちは同情から証言を鵜呑みにすることなく、この問題を世の中に可視化させるために、記者として綿密に取材を重ねていた。被害者の発言を裏取りし、「あった」事実を積み重ねていく冷静な態度のおかげで大きな問題として発展させることができたのだと思う。また、過去のトランプ大統領の性的暴行についての取材の経験や、大物司会者のビル・オライリーのセクハラ事件などから、声をあげることの重要性に気づき、証言者に寄り添って声を引き上げていた。ミーガンが被害者に伝えた「過去にあなたの起きたことを変えることは、わたしにはできない。でも、わたしたちが力を合わせれば、あなたの体験を他の人を守るために使うことができるかもしれない」という言葉は、語り合うための説得力となり、連帯の輪が広がっていく一因であったと思う。
力を持って事を進められた理由、そこにはミーガンとジョディがいかなるときも互いを励まし、身の危険を感じるほど恐ろしい状況に立ち会っても「あなたは間違ってない」と尊厳をすぐに取り戻してくれる存在だったからということがあるだろう。会えるかわからない証言者に取材に行くとき、ミーガンはジョディに「あなたはきっと(加害を証明する)書類を手に入れる。絶対にそうなる」とメッセージを送っていた。たった一通のテキストも、ためらう彼女には御守になる。 そして、彼女たちの上司であるコルベットの存在も大きい。男性中心の編集局で鍛えられ、「タイムズ」の奥付に名が記載された初めての女性編集者である彼女は、常にふたりの精神面をケアし、忙しくても手を止めて向き合って話を聞いてくれていた。ふたりも「3人で掴んだ功績だ」と語るほどで、彼女たちを守るために記事公表まで綿密な戦略を練っていた。傍観するのではなく、共闘し、大事な極面で身を守ってくれるなんて、どんなに心強かっただろう。
クィア批評とトラウマ研究者である岩川ありささんの著書『物語とトラウマ-クィア・フェミニズム批評の可能性-』では、いかにトラウマを語る言葉を探すためには長い時間が必要であるか、声をあげるために物語は力強い存在になるのではないか、ということが丁寧に語られていた。トラウマを負った女性たちが声をあげ始めた時代の詩を引用した「この詩に響く「声」は新しい読者をえるたびに無数のこだまとなり、反響し続けるだろう。どのように生きて、何を経験してきたのか、その違いについて話し合うだろう。差異を語り、聴き、自分たちの身におきた出来事について言葉を探すためには、長い時間が必要である」という岩川さんの言葉が、映画と交錯する。
かき消される寸前にあるものを顕にして、「無数のこだま」として世の中に反響させる必要性。声をあげられなかった人たちの葛藤、声をあげた人たちの勇気をまなざしながら、私はどのように生きて、何を経験してきたのか、誰かと語り合いたいと力をもらい、少しずつ言葉を得ているところだ。日本とアメリカのカルチャーを交差しながら、Z世代の声を届ける文筆家の竹田ダニエルさんの著書『世界と私のA to Z』も付箋だらけで映画と重なる発言ばかりなのだけれど、なかでも「闘い続けるために自分を愛する」というフレーズを心に刻む。私の日常は些細だけれど、取るに足りないものではない。愛おしくて大事にすべき瞬間ばかりで、もし私が傷ついたのなら怒っていいし、意見していいと今日も唱える。