目次
あなたとだけ共有できた、楽しみや喜び。
その記憶は何度も私を励ます
映画『ゴーストワールド』をはじめて観たのは、バンドHomecomingsが主催するイベント「New Neighbors 」だった。「あらゆる文化、人物、事柄、作品に影響を与え続けており、“ダメに生きる”( 日本公開当時のキャッチコピー)多くの私たちにとって源流/出発点と言っていいほどの伝説的な作品となっています」という彼らがイベントに記した文面は、そのまま私に転写された。
すっごいかわいい。よくわからないけどサイコー。
観終えた私は興奮していた。
すぐにネットで検索して、主人公のイーニドが着ていたトレーナーのレプリカ版を購入した。
自分のなかに煮え立つ不思議な興奮の正体は、いったいなにものだったのか。映画の舞台となったアメリカの街並みが、自分の暮らしたつまらなくて窮屈だった街と重なったから? イーニドの部屋は私の部屋そのもので、飛び出した場所を思い出したから? だけど、イーニド&レベッカと私は重ならない部分もたくさんあって、ふたりをまぶしく思ったし、あこがれみたいなものがつまっていた。私もあんなふうに、よく知らないインド産のロックンロールに合わせて踊り狂いたかった。高校の卒業式に校舎に向けて中指を立ててみたかった。
『ゴーストワールド』の舞台はアメリカ。音楽と絵を書くことが大好きなイーニド(ソーラ・バーチ)と幼馴染のレベッカ(スカーレット・ヨハンソン)は、家庭にも学校にも馴染めず、どこか斜に構えているはみ出し者同士。高校を卒業したのに進路も決めず、「ふたりで住む」ことだけを約束してフラフラしていた。ある日、新聞の恋人募集欄に載っていた中年男シーモア(スティーブ・ブシェミ)を呼び出してからかおうとするけれど、イーニドはいつしか親しくなっていく。一方で、レベッカはカフェで働き始め、段々とふたりはすれ違っていってしまう。
イーニドとレベッカ、ふたりが絶対的な親友であることは、映画の開始数分でよくわかった。それは、おもしろそうな人を見つけては獲物にする、という趣味の悪い”習慣“を楽しめる間柄だからだ。だって、カフェに居た老夫婦を「サタニスト」(悪魔崇拝者)だと妄想して尾行したり、真剣に運命の相手を探している人にいたずら電話をして実際に呼び出したりするなんて、どうかしている。ふたりにしかわからない喜びがあって、楽しみがあって、強烈なほどお互いを必要としている感じがある。「友だち100人つくりましょう」なんて学校では教えられるけれど、たったひとりでもこんな悪趣味を笑いあえる友だちがいればそれが一番の幸せじゃないか、とこの映画を観て思うようになった。
ふたりは、世間からすれば変わり者なのだろう。あたり前とされることを受け入れたり、盲目的に受け流したりすることができない。疑問があればぶつかるし、言葉を選ばず伝えてしまうし、その不器用さが映画では愛らしく映るけれど、実生活に置き換えてみるとすごく生きづらいのだろう。
とくに、イーニドは世間となじめない。何がやりたいのか、自分がどうしたいのかわからず、髪型を変えたり性格を変えたり、いろいろ試してみる。彼女のクローゼットは洋服がパンパンで、ジャンルの異なる服が並ぶ。社会に迎合しようとするけれど、結局うまくいかなくて、バイトは一日でクビ。社会と相容れない自分を、「そのままの自分を愛して」なんて優しい言葉をかけてくれる人もいない。スクリーンを通せば、彼女の魅力は充分伝わってくるのに。日記代わりのスクラップブックから彼女の洞察力とセンスはひと目でわかるはずなのに、一見ヘンテコな美術の先生も、イーニドが日記に描くような人物画は評価せず、その視線が彼女の肯定感を削ぎ落としていたように思った。だから、「パートナーが仕事先を紹介してくれる」という父親のやさしい声かけにも素直に応じられないのだろう。イーニドの気持ちになれば、まるで社会から“いらない”と烙印を押されたみたい。文句を言いながらもバイトができているレベッカと距離ができてしまうのも、わかるような気がする。
その不安定さは、親友でさえも救えないし、どうしようもないものだと、もしレベッカがあの頃を苦しく思っているのなら声をかけたい。私もいつだってレベッカ側で、仲の良かった友人がなにも言わずに離れていった経験は何度かあるから。言いたいことを言って、冗談で通じあえていたとしても、何もかもに“絶対”はないのだと思う。時間の流れや周囲の影響で、人は否が応でも変わっていくものだし簡単なことですれ違ってしまう。これといった理由もなく、常に一緒に居た人が突然居なくなることもあるんだと、私も私の友人たちを思い浮かべてそっと自分を慰めた。
その現実を受け入れて前に進むことしかできないし、会えなかったとしても、この友情関係が育んできたものは消えないと信じている。きっと、お互いが「社会に生きられる意味」であることは変わらないから。あなたの存在が私を認めてくれて、ヘンテコな私に居場所をくれた。その記憶は私を何度も励ましてくれる。離れることは悲しいけれど、女同士の関係性は柔軟に変わりながら、でも絶対的な“なにか”でつながっていられるのだろう。去るものを追わない、それをドライだと言う人もいるけれど、友だちとして信じているからできるのだ。あなたの選択をすべて信じて、健康を願って、もし電話をくれたらすぐに飛んでいくよ。離れていく相手を「想う」ことも親友にしかできないことだと、彼女たちが教えてくれた。
私はどんな人を思い浮かべながら、この映画をまた観るのだろう。いくらだってやり直せるし、何度だって出会い直せる。そう思えるくらい強いふたりが、とびきり大好きだ。
◎『ゴーストワールド』原作